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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年09月24日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室

文部省指定史跡 義仲寺案内(パンフレット)

木曽義仲公御墓所

芭蕉翁御墓所

 

 義仲寺は、大津市馬場一丁目にあり、旧東海道に沿っている。このあたり、古くは粟津ケ原

といい、琵琶湖に面し、景勝の地であった。朝日将軍木曽義仲公の御墓所である。

 治水四年二八言、義仲公は信濃に平氏討伐に挙兵をし、寿永二年(1180)五月、北陸路に平氏の大軍を討ち破り、七月京都に入られた。

翌寿永二年正月二十日(四月改元して元暦元年)、鎌倉の源頼朝の命を受けて都に上ってきた源範頼、義経の軍勢と戦い、利なく、この地で討ち死にされた。享年三十一歳。

 その後、年あって、眉目美しい尼憎が公の御墓所のほとりに草庵を結び、日々の供養ねんごろであった。里人が訝(いぶか)って問うと、

 「われは名も無き女性」と答えるのみである。この尼こそ、義仲公の側室巴御前の後身であった。尼の没後、この庵は「無名庵」と称えられ、あるいは巴寺といい、木曽塚、木曽寺、また義仲寺とも呼ばれたことは、すでに鎌倉時代後期弘安ごろの文書にみられる。

 時代は移り、戦国のころには、当寺も大いに荒廃した。時に近江国守佐々木侯は、石山寺参詣の途次、この地を見て、「源家大将軍の御墳墓荒るゝにまかすべからず」と、当寺を再建し寺領を進めた。そのころ当寺は石山寺に、近世に至って三井寺に属した。

 

貞享年間(16848)に大修理の記録があり、芭蕉翁がしきりに来訪し宿舎としたのは、このころからである。

元禄七年(1694)十月十二日、芭蕉翁は大坂の旅窓で逝去されたが、「骸(から)は木曽塚に送るべし」との遺言によって、遺骸を当寺に運び、現在地に墓を建てた。

 

明和六年(1769)に蝶夢法師の中興があり、その後も、安政三年(1856)の火災、明治二十九年(1896)の琵琶湖大洪水の後、明治四十五年と、たびたびの改修が行われたが、大東亜戦争を経て戦後において、寺内金建造物の荒廃その極に達し、壊滅に瀕した。ここにおいて、昭和四十年(1965)、三井寺円満院より買い取り、宗教法人法による単立寺院とし、寺域を整頓し、朝日堂、無名庵、翁堂の改築をなし、同年の時雨忌に昭和再建落慶法要を行った。この再建に要した一切の費用は、東京在住の一個人の篤志家の寄進によったもので、子細は境内の昭和再建碑に記されている。

 昭和五十一年(1976)、無名庵、粟津文庫を拡張新造し、史料観、手洗所を新築し、防火用水の設備等をことごとく施工した。

古くから当寺内御鎮座の木曽八幡社の新造遷宮は、落慶式前夜に厳修した。落慶の法要は昭和五十一年時雨忌当日であった。これらの土木建築及び落慶の一切の費用は、京都に本社を置く一教育出版社の寄進によったのである。また、山門の新築は昭和六十年(一九八五)である。

 本寺は、昭和四十二年十一月、境内全域が文部省より国の史跡に指定された。

 

 義仲公墓(木曽塚)

 

 土墳の上に宝医印塔をすえる。

芭蕉翁は木曽塚ととなえた。

義仲公の忌日「義仲忌」は、毎年一月の第三日曜日に営む。

 

   燧山  (元禄二年)

義仲の寝覚の山か月悲し    芭蕉

   

無名庵にての作(元禄四年)

木曽の情雪や生ぬく春の草   芭蕉

 

 朝日堂

 

義仲寺本堂で、本尊は木彫聖観世音菩薩。義仲公、義高公父子の木像を厨子に納める。

義仲公、今井兼平、芭蕉翁、丈艸諸位ほか合わせて三十一札の位牌を安置する。

現在の朝日堂は昭和五十四年二九七九)十一月改築されたものである。

▲義仲公像

 

 無名庵

 芭蕉翁が当所を訪れたのは貞享二年(1685)三月中旬、ついで同五年五月中旬滞在。元禄二年(1689)、奥の細道の旅の後十一月に京都、大に在り膳所で越年、いったん伊賀上野に帰り、三月中旬再び来訪、九月末まで滞在した。

 元禄四年(1691)春、無名庵の新庵落成。同年四月十八目から五月五日まで京都嵯峨の落柿舎に滞在、「嵯峨日記」を草す。

六月二十五日から九月二十八日まで無名庵に滞在。

 

伊勢の俳人又玄(ゆうげん)の有名な句

木曽殿と背中合わせの寒さかな

は、同年九月十三日ごろ、又玄が無名庵に滞在中の翁を訪ね泊まったときの作。

 

 芭蕉翁は、元禄七年(1694)五月十一日最後の旅に江戸を出発、伊賀上野に帰郷。閏五月十八日シルに入り、二十一日落柿舎へ。六月十五日京都から当庵に帰り、七月五日京都の去来宅に移る。七月中旬から九月八日まで伊賀上野に帰郷。八日伊賀上野を立ち、九日夕、大仮に着く。

 

 芭蕉翁墓

 

 芭蕉翁は元禄七年(1694)十月十二日午後四時ごろ、大坂の旅舎で亡くなられた。享年五十一歳。遺言に従って遺骸を義仲寺に葬るため、その夜、去来、其角、正秀ら門人十人、遺骸を守り、川舟に乗せて淀川を上り伏見に至り、十三日午後義仲寺に入る。十四日葬儀、深夜ここに埋葬した。

門人ら焼香者八十人、会葬者三百余人に及んだ。其角の「芭蕉翁終焉記」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。

墓石の「芭蕉翁」の宇は丈艸の筆といわれる。

 芭蕉翁の忌日は「時雨忌」といい、当寺の年中行事で、現在は旧暦の気節に合わせて、毎年十一月の第二土曜日に営む。

 

翁 堂

 

 正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈艸居士、去来先生の木像、側面に蝶夢法師陶像を安置する。

正面聖上に「正風宗師  しょうふうそうし」の額、左右の壁土には三十六俳人の画像を掲げる。

天井の絵は、伊藤若冲筆四季花弁の図である。

翁堂は蝶夢法師が明和六年(1796)十月に再興。翌七年に画像完成。安政三年(1858)類焼、同年再建。現在の画像は明治二十一年(1888)に穂積永機が、類焼したものに似た画像を制作し奉納したものである。

 芭蕉翁の像に扇子を奉る当寺の年中行事「奉扇会」は、明和六年に蝶夢法師の創始になるもので、毎年五月の第二土曜日に行う。

 

粟津文庫

 寛政三年(1791)蝶夢法師の創設。

蝶夢法師は享保十七年(1732)京都に生まれる。二十六歳のころ蕉門俳諧に眼を開く。

三十六歳のとき寺を出て洛東岡崎に草庵を結び五升庵と名づけた。

以来終生芭蕉翁を敬慕し、翁の遺業顕彰に努め、蕉門俳書のほとんどを収集上梓した。

 寛政三年粟津文庫落成のとき蝶夢法師は、俳書の蔵本六十部を寄贈した。

翌四年には、法師が十一年の歳月をかけた絵巻「芭蕉翁絵詞伝」原本三巻が完成。

また、天明二年(1782)には、「芭蕉門古人真蹟」を収集した。いずれも粟津文庫に収蔵している。

 

蝶夢法師は、無名庵主の重厚とともに寛政五年(1793)四月十日から十二日まで、当寺の芭蕉翁百回忌を主催した。全国の俳人物五百人が参巣、歌仙百五十巻を興行した。近世文芸史上の盛事であった。

法師の入寂は寛政七年十二月二十四日、享年六十四歳。

 昭和五十一年(1976)十一月、粟津文庫を改築。

 

史料観

 

粟津文庫に収蔵の史料什宝を適時取り替え展観する。昭和五十一年秋、文庫改築のときに開設した。

 

巴塚

 

木曽義仲公の側室巴御前の塚。武勇すぐれた美女で、部将として義仲公を助けたという。

 

 曲翠墓

 

膳所藩士菅沼曲翠(初め曲水)は、芭蕉翁の最も信頼した門人の一人であった。

幻住庵は曲翠が翁に提供したものである。

享保二年(1717)七月二十日、曲翠は藩の悪家老曽我権太夫を槍をとって刺殺し、自らも責任をとって切腹した。

翁は「幻怪庵記」に「勇士曲水」と記し、また、初見の印象を「ただ者に非ず」と言っている。

 この事情から、没後曲翠の墓はつくられなかった。

昭和四十四年(1969)七月、膳所不動寺筋(現・中庄一丁目)の旧址に「菅沼曲翠邸址」の碑を建て、年々の忌日に法要を行う。

昭和四十元年当寺内に「曲翠墓」を建立。没後二百五十七年、初めての建墓である。

 

 山吹塚

 義仲公の側女山吹御前の塚。むとはJR大津駅前にあったが、駅の拡張工事にともない、昭和四十八年(1973)十二月に当寺内に移された。

 

木曽八幡社

 

木曽八幡社は、義仲寺の鎮守として、古図に見える。昭和五十一年(1976)社殿鳥居を併せ新造、十一月十三日夜、遷宮の御儀を行った。

  

巴地稗堂

 

山門前右手の堂に、前を追福するもので、石彫地蔵尊を祀る。巴御以前より遠近の信仰深かった。八月の地蔵盆は、現在も町内の人々によって、例年奉仕されている。






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最終更新日  2020年09月24日 16時06分01秒
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