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2020年10月01日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

甲陽軍鑑 磯貝正義氏著

 

『歴史読本』臨時増刊号 755

  歴史百科シリーズ 古事記から昭和までの歴史書選集

  「歴史の名著100

 

  一部加筆 山梨歴史文学館

 

『甲陽軍鑑』を歴史の名著と呼ぶのには、抵抗を覚える人があるかも知れない。本書は一般に軍学書として位置づけられ、歴史書として扱われることは余りないからである。

書名そのものが、甲州流軍学の手本の意味であろうし、江戸時代に「本邦第一の兵書」としてもてはやされたことも事実である。

しかし後世、武田信玄・勝頼前傾二代の歴史を語るものの多くが、本書に依拠しており、世の信玄像や合戦の知識は本書によって形成せられたといって過言でない。本書に基づいて系図を作成したり、感状を偽作したりしたものまで現われている。江戸時代だけで、二十種に近い板本が出ていることも、本書が軍学の教科書としての枠を越えて、歴史書として広く愛読された証拠である。本書を歴史の名著に数えるのも、一見識というべきであろう。

 まず木書の構成であるが、起巻第一(序文)と目録とを最初に置き、次に全二十巻五十九品より或る本文がある。

一品に「甲州法度之次第」、二品に「信繁家訓」を掲げたのち、三品から四十九品に主として信玄一代を、五十品以下に勝頼及び死後の処置を記している。

 

すなわち・信玄が海野口の初陣に敵将平賀源心を討ち取ったのに始まり、勝頼が敗死し、遺臣が徳川家康に帰属するまで、数十回の合戦の次第、信玄や将兵の逸話・言行・刑政・軍法、さらに軍陣の諸儀式まで述べているが、量的には合戦の記事がもっとも多い。かなり雑然とした構成で、文体も必ずしも洗練されているとはいえない。

 次に著者であるが、信玄の寵臣高坂弾正昌信が第回十八品までを天正三年(一五七五)六月に、第五十三品までを同五年十二月に書き、天正六年に高坂が没した後は甥の春日惣次郎が書き継いだとし、大略品末ごとに「天正三年乙亥六月吉日 高坂弾正記之」などの署名が見え、中には宛名に「長坂長閑老、跡部大炒助殿」と書き、この両名宛を取った品もある。

最後の品には「天正十三乙同年三月三日 高坂弾疋内春日惣次郎」とあり、その後に家康の物語があって、小幡下野・外記孫八郎・西条治郎の三人が聞いて書いたとし、「天正十四年五月吉日」の日付で終っている。これによると、その主要部分は高坂弾正の実録で、天正三年乃至五年の成立、その後春日惣次郎や小幡下野らの書き継ぎがあって、最終成立年代は同十四年ということになる。

 しかし高坂の実録というのは全くの仮託で恐らく江戸時代初期の軍学者小幡勘兵衛景政(15721663)の編纂で、高坂の遺記(武将やお伽衆からの問書・覚書など)、旧武田家臣の記録などを中心に、自分の見聞などをまじえて集大成したものと推察される。景憲は武田の家臣豊後守昌盛の三男で、甲州流軍学の

祖として名高い。田中義成博士が

「小幡ノ綴輯ニテ、其本ク所大凡三アリ、曰高坂ノ遺記、関山僧ノ記、曰く門客ノ説ナリ、而シテ之ニ雑(まじ)フルニ己ノ見聞スル所ヲ以テスルニ似タリ」

と述べているのは、真実に近いであろう。

成立年代は天正期にはさかのぼり得ないが、元和七年(一六二一)奥書の写本が存在するというから、元和ごろには成立していたことは確実である。

 

問題は内容の信憑性であるが、一般には史実として信ぜられてきた。しかし近世すでに『甲陽軍鑑弁疑』など、内容に疑惑をもつものも現われている。その後本書に徹底的批判を加えたのが、田中博士の「甲陽軍艦考」(『史学会雑誌』一四号、明治二十四年)で、信虎の駿何隠退事件(天文十年)を天文七年に誤るなど『軍鑑』に誤謬の多いことを指摘した。事実、本書がとくに合戦の巻において年次を誤ることが多いことは、『妙法寺記』『高自斎記』その他確実な記録・古文書等と対照して見れば明瞭である。しかし内容まですべて荒唐無稽というのではもちろんない。例えば本書にその活動が特筆されているものの、従来傍証のなかったかった山本勘助(その子が関山原の僧で、父を顕彰するため書いた記録が田中博士のいわゆる『関山憎の記』も、近時市河文書によってその存在が確認された。冒頭の「甲州法度之次第」や「信繁家訓」が確かなものであることはいうまでもなく、品第十七の「武田法性院信玄公御代惣人数之事」は、武旧の家臣団の主要氏名・組織・兵力等その全貌を知り得る貴重な史料であり、品第十九に見える十七首の詩篇も、原本が細川家に架蔵されていて信玄の自作であることが証明された。

また品第四十の「石水寺物語」は信玄及び諸将の逸事・逸話を述べて生彩を放っているが、基づくところは恐らく高坂の追記であろう。品第四十八の「甲府法華宗の憎公事之事」は、日蓮宗信立寺の脇寺の憎が妻帯しているとして訴えられたのを信玄が裁き妻帯を許す代りに妻帯役を賦課したという説話であるが、これも他に確実な傍証があって無稽の説でないことが判明した。以上は二、三の例に過ぎないが、武田氏の史実について参考となる点が少なくなく、とくに戦国武士の思考や行動が生々しい迫力で綴られており、甲州武士を通して戦国武士の生き方を知り得る貴重な史料であるといえよう。

 

 江戸時代に存在した二十種に近い板本の内、刊行年月を明記した最古のものは明暦二年(一六五六)十一月、京部村上平楽寺開板の二十三冊本である。異本も多いが、流布本と信玄全集本の二系統に大別される。明治以後の刊本は、万治二年安田十兵菊間板本を底本とするものが多いが、磯貝・服部治則校注本

(人物往来社刊、全三冊)は、明暦本を底本に、元禄十二年刊小峰弘致編『甲陽軍伝解』(『家蔵』の補修本)との異同を明らかにしている。

 なお『軍艦』を敷衍乃至祖述したものに、『甲陽軍艦末書』『同評判』『甲陽合戦伝記』等が統出し、本書の記事を素材として武士道を説いたものに『可笑記』『名将言行録』等が現われるなど、本書の影響がいかに大きかったかを示している。研究に前掲田中博士「甲陽軍艦考」のほか、渡辺世祐・古川哲史・相良亨・清水茂夫・有馬成甫・小林計一郎・服部治則氏らの論考がある。

 








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最終更新日  2021年04月10日 17時39分01秒
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