カテゴリ:甲斐武田資料室
治承・寿永争乱と甲斐源氏
『山梨県郷土史研究入門』 清雲俊元氏著
山梨郷土史研究会 編 山梨日日新聞社 平成4年発行 一部加筆 山梨歴史文学館
甲斐源氏は清光を中心に逸見・武田・加賀美・安田・平井・河内・曽根・奈古・浅利・八代らの分脈を生じ、それらがさらに一条・板垣・秋山・小笠原・南部ら数多くの分脈を派出して甲斐国一円に広がっていった。 大治五年、甲斐源氏が甲斐国に土着して、五〇年後の治承四年(一一八〇)四月、平家追討を促す以仁王の令旨が全国の源氏に伝えられた。このときの甲斐源氏は源頼朝の行動とは関係なく、名目としては「以仁王の令旨」を錦の御旗として、独自の行動をとった。 彼らは武田信義・安田義定らが一族を統率して、甲斐一国を支配し、信濃の諏訪地方を征服し、さらに南下して駿河国に進出しようとした。 こうして平家追討を進める中で治承四年一〇月一七日に武田方は平維盛の本陣に書状を送った。平家方は使者二人を直ちに斬首した。 この事件につき彦由一大氏は、甲斐源氏の狙いは、頼朝を中心とする東国武士を孤立させ、東国支配権の確立であったと推測している。 この交渉が決裂したのが 「富士川の合戦」である。有名な「水鳥の羽音」の一件は従来のように「吾妻鏡」に見える、武田の奇略だけで評価するのでなく、合戦前後における源氏の軍事的指導権が頼朝勢力よりも、甲斐源氏勢力の側にあったことである。戦いのあと武田信義は駿河国の、安田義定は遠江 国の守護に任ぜられているが、実際には守護は文治元年に設置されるので、これは二カ国を占拠したのである。 安田元久氏は、これまでの甲斐源氏の実績をそのまま頼朝は容認し、この東海道の要地ともいえる二カ国を甲斐源氏に委任することは、頼朝の勢力の一歩後退として甲斐源氏の動向をみている。 寿永二年(一一八三)七月木曽義仲は近江から京都へ、安田義定も近江源氏と連携の中で東海道から上洛した。しかし当時の京の都は連年の飢饉で廃墟と化し、加えて、都の軍兵の乱暴狼籍は人々から恐れられた。こうした中で後白河法皇と木曽義仲の対立が深刻化した。 法皇は頼朝の即時上京をうながした。 頼朝は背後の藤原秀衡の脅威と、畿内の飢饉を理由に上京を躊躇すると共に一方では勅令発布を要請した。この勅令が佐藤進一氏の指摘している「十月宣旨」である。宣旨の内容は、
東海・東山画道の国管頼、庄園はもとのごとく国司・本所に返還し、 年貢を国司・本所に進上せよ。 もしこれに従わぬものがあれば頼朝に連絡して、 これを実行させよというものであった。 この沙汰権は甲斐源氏や木曽義仲に対して絶対優位の態勢をかためることに成功した。このことを聞いた義仲は「義仲生涯の遺恨なり」と歎いたという。ここに頼朝の外交政策が功を奏した。 このことは甲斐源氏に対しても波及していった。翌年の元暦元年一月、義仲が近江国粟津の辺にて敗死すると、頼朝は次にあらゆる手段を講じて源氏内部の最大の対立者である甲斐源氏の勢力排除につとめた。 六月宇治川の戦いにおいて一条忠頼は返逆の嫌疑をうけ謀殺され、父武田信義も事件の責任を感じ自決した。この事件以来甲斐源氏の権力は衰え、実質的にも鎌倉政権の中に吸収されていった。 元暦元年(一一八四)二月一ノ谷の戦い、翌年文治元年三月壇ノ浦合戦で平家を滅亡させた。その年の八月平家追討に功績のあった源氏一門の人々六人に小除目があった。甲斐源氏では源義経、新田義範、大内惟義、足利義兼らと共に加賀美遠光が信濃守に安田義資が越後守に任ぜられた。
奥州征伐が終わると、頼朝を直接おびやかすほどの敵対的武力はなかったが、あえて危険の萌芽というべき一族は、甲斐源氏であった。永原慶二氏は、この間の事情を甲斐源氏の挙兵以来のもっとも有力な同盟者であり、源氏の同族であったが、頼朝としては内心もっとも恐れる勢力でもあった。 しかし、その甲斐源氏の巨頭も次々に滅亡していったが、その中で武田の惣領職の地位を確実に掌中に収めたのが石和五郎信光であった。 〔清雲 俊元〕
【註】 (1) 拙稿「寿永二年十一月宣旨前後の甲斐源氏の位置」『甲斐路』 特集号 1969 (2) 彦由一大「甲斐源氏と治承寿永争乱」『日本史研究』四三号 1959 (3) 安田元久『鎌倉開府と源頼朝』教育社 1977 (4) 佐藤進一『鎌倉幕府訴訟制度の研究』畝傍書房 1943 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年11月09日 06時26分52秒
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