カテゴリ:俳諧人物事績資料
奥の細道執筆者 素龍(上)楽只堂の學輩達
植谷 元氏著
一部加筆 山梨歴史文学館
一
元禄七年(1694)初夏、芭蕉の信頼に応えて「おくのほそみち 奥の細道」の浄書をなしし終え、剰え心にくいまでの跋文をこれに書きつけたのは、言うまでもなく素龍なる人物であった。 美文を鏤めた言葉の絵巻……「おくのほそ道」……の定本はここに見事に完成するのであるが、その本文に優に対応しうるこの跋文の筆者の卓絶した文才に注目せぬ人は、恐らくないであろう。
奥の細道 素龍跋
からびたるも、艶なるも、 たくましきも、はかなげなるも、 おくの細道みもて行におぼへず たちて手たゝき、伏して村肝を刻む、 一般は蓑をきるきるかゝる旅せまほしと思ひ立 一たびは座して、まのあたり奇景をあまんず かくて百般の情に鮫人の玉を翰にしめしたり。 旅なる哉、器なるかな、只なげかしきハ かうやうの人の、いとかよはげけにて、 眉の霜の置そふとぞ
元禄七年初夏 素龍書
元禄七年 初夏 素龍(そりゅう)書
素龍について従来最も注意されたのは、故杉浦正一郎氏であった。【註1】。 氏は、蕉門野波の言を書きとめた風律の写本「小ばなし」、元禄七年子劗の「別座舗」に掲げる素龍斎全故の「贈芭蕉餞別辞」等を注意ふかくとり挙げられ、久しく埋れたまま放置されていた素龍に新しい照明を加えられた。 ここに、まず杉浦氏によって明らかにされている素龍その人についてのあらましを掲げると、およそ次のようである。
一、 素龍は、「小ばなし」には京の人とあるが、大阪に住んでいた人らしい。その理由は、 一に、芭蕉宛桃隣書翰(元禄七年五月二十三日付)に素龍の歌書講釈のことが見え、それによれば彼は予め講葬の代償を請求し、「上方具無是非事」と連中の笑草になっているのは、いかにも大阪人らしい。 二に「炭俵」(元禄七年六月奥)以前に請書に入集する彼の句は、元禄三年昨非の「根合」、同年鬼貫の「犬居士」、同四年自問の「難波曲」、同年昨非の「かなしみの巻」、同五年季範の「きさらき」等、 いずれも大阪在住俳人の撰集であること、殊に元禄四年江水の「元禄百人一句」、賀子の「蓮寅」等に入集する句には、「大坂素龍」と肩書があること、等である。
二、 歌学は北村季吟の次子新玉津嶋正立の弟子で、手跡は上代様に秀でていた。 三、 元禄五年冬、江戸に下り、野坡の同道で深川に芭蕉を訪ねた。風雅に投合して暫く逗留する。其頃、芭蕉・野坡は共に素龍の手を習い、素龍は芭蕉の発案で野坡弟の書肆で講釈に赴いた。 四、 やがて季吟へも出入し、諸侯に代講した。大村侯などと懇意であったが、柳澤(吉保)侯に抱えられた。 五、 最初は柏木儀左衛門と称したが、のち藤之丞と改めた。素龍斎・全故と号する。 六、 『奥の細道』・『炭俵集』の板下を書いた。 七、 従来芭蕉の門人と見たのは誤りで、俳諧は余技として親しむ程度にすぎず、本領は古典學者・歌華者・書家としての方にあったらしい。 八、 江戸浅草自性院の住職という古い説は誤りであろう。元禄十二年(1699)十一月二十二日没というが、詳細は不明。
杉浦氏によって明らかにされている素龍に関する大要は、ほぼ以上のようである。 しかし、「おくのほそ道」のたくまざる書写者、そしてあの際立った断章の筆者素龍を更に求めて、以上の條々を具にたどるとき、人はそこになお不明の点の残されていることも認めざるをえないであろう。というより、素龍に関する限りは、むしろその生涯はなお埋もれた部分の方が塩かに多いといわねばならない。 とはいえ、素雅の生涯は、今日においてもなお不明の裡に閉されている部分が少なくなく、その全容は依然として十分書しがたいこともまた事賞である。しかし、その本領は従来考えられていたところとは異なり、俳諧は寧ろその予技の一端にすぎなかったとすれば、次にその人と生涯は、当然のことながら、改めて俳人ならざる、元禄期の隠れた文人のそれとして追求してみる必要があろう。その場合、たとえ問題が芭蕉とは直接無関係の方向にそれたとしても、やむをえない。本稿は、あえてそうした文人素龍の本領を求めようとするものであるが、思えば同じ頃彼と相似た道をたどった文人は他にも多く、以下に掲げる資料中にもままそうした人々が浮び上ってくる。よって本稿は、あえてそうした人々をもいとわずとりあげ、かねて元禄期の秘文の世界の一面をも窺うべきものとすることが出来れば、最も幸いであると思う。
因みに、楽只堂とは、素龍その他多くの學輩を抱えて、徳川綱吉の執政を補佐した柳澤侯(松平美濃守吉保)の堂号である。
【註1】 杉浦正一郎「芭蕉研究」第三章の一「奥の細道」伝本考、同「素龍」(「俳諧大辞典」)等参照。また「小ばなし」の紹介は早く沼波瓊音「芭蕉に妾ありき」(「此一筋」所収)に、また素龍伝の古説、及びその発句は安井小酒「蕉門名家句集」下に備わる。
二
年次を追って素龍の足跡をたどるとき、その材料は従来知られている元禄三年(1690)正月刊昨非編「根合」を最初に、同十一年(1698)五月刊「績猿蓑」に至るまで、「小ばなし」は格別必好資料として、他は何れも諸俳書に見えるその句文および板下等の俳諧関係の事項に殆んど尽きるのであって、それ以外に判朋した新しい事實は甚だ少ない。 しかし、その少ない中に次の一事は、極めて些細な記事ながら、従来全く窺い知られなかった素龍の出自をゆくりなくも開示するものとして注目される。 即ち元禄三年(1690)初夏、伊藤仁斎は大阪の門人岩崎半左衛門・西山仁右衛門の二人に招かれて、一子東涯および門人数名を伴って初めて大阪に下り遊ぶことがあったが、その大阪到着の四月六日夜、早速謁見した四人の人々の中に、柏木儀左衛門なる人物が含まれていたのである。仁斎の門人帳「諸生納禮志」【註Ⅰ】元禄三年の條につけば、それは次のように示されている。 四月六日 以下大坂に逢申候 一、上村ヤ太右衛門 大坂町人 一、柏木儀左衛門 阿波之牢人 (以下、十三日まで十七人略) 右大坂謁見之人
すでに問題の素龍が常時大阪にあったことは杉浦氏の示されたところ、従ってこの「柏木儀左衛門」が素龍その人に他ならぬことは、まず疑いえないであろう。とすれば、ここに彼は初めて仁斎にまみえ、また自ら阿波の浪人であることを語ったことが知られるのである。いま、「阿波藩蜂須貸家家臣成立書並系図」【註2】によれば、同藩中に柏木姓を称したものは数家認められる由であるから、その阿波浪人たることは、まず信じて誤りないであろう。但し、その阿波時代の動静については今は何ら知られるところがなく、果してそこでいかなる武士であったか等については全く不明の事柄に属する。が、ともかく以上によって、彼は阿波藩を致仕浪人して大阪に到った人であることが少なくとも判明するのであった。 なお、ここで以上の仁斎に同行して下阪した東涯の日記のうち、その「伊藤氏家乘」庚午元禄三年(1690)の條によれば、 四月六日 従先生興師約・渙・鈸(?)遊大坂、十四日帰郷。 と至って簡略であるが、同じく東涯の「元禄三年庚午日録」によれば、次のごとくある。 六日 ○晴。○大坂岩崎半左衛門・西山仁右衛門雨人招待ニ付、 先生大坂へ御越候。吉田渙・草野體・吉岡師約、并拙子相従。 日出前、鈸元先へ被參、源八以下共ニ拙宅へ會シ発行……(中略) 高麗橋筋淀屋橋西へ入ル丁南側中ほと、福島屋長兵衛と申者之宅ヲ被借、 是ニ何モ着申候。是ニテタ飯経営。 其後、上村屋太右衛門・柏木儀左衛門一阿波之浪人 初謁見。……(下略)。
但し、これらの記事は何れも、必ずしも素龍の古義堂入門を意味するものではあるまい。所詮は「逢申」「謁見」したにとどまるという他はないものであろう。しかし、それにしても浪々して上阪、前途模索期にあった彼の動静を示すものとして、以上は十分注目に価する一事といわねばならない。
ところで、これに先だつ事として、次に彼の大阪到来の時期が聊か問題となろう。 素龍の動静を傅える資料は、しかし元禄三部正月刊の「根合」以前に逆上りえないことは既に見たところで、これの解釈は一応困難のことといわねぱならないが、またしかし却って背景にあるそうした資料的空白は、逆に例えば「諸生納禮志」の「阿波之牢人」なるただそれだけの記事をも、思いなしかその大阪到来直後を示すもののように感じさせないでもない。勿論、さればといってこの直前に位置する「根合」が、早速とこれを證してくれるわけのものでもない。が、その「根合」に見える彼の八句の中、例えば次の一句はいかがであろうか。
世中のうそにてよきは案山子哉 素龍
これは即座に貞門の口吻を示すものと、誰しも判定せざるをえないものであろう。この句については、他に曹松山藩主久松家旧蔵「お船屏風【註3】ら四」貼交短冊中の素龍の二葉にも、 世中のうそにて能は案山子哉 素龍
と見えて、その傳来の詳細についてはなお一考を要するとはいえ、これが素龍の阿波時代の一吟ではなかったかと疑わせる十分の可能性を秘めているもののごとくである。ここに、地方貞門の作法をそのまま大阪に持ちこんだ素雅を見るといえば、即断は余りに早きに失するかも知れないが、しかしもし以上の諸点が認められるならば、ここに素龍の大阪到来の時期は、恐らく元禄三年のこれらの直前、即ち元禄二年中のいつの日かのことではなかったか、と推定されるのである。
なお、上記した元禄十一年五月までのところで、素龍に関して他に新しく判明した事実は、既にその江戸に下った後の元禄七年正月、季吟が催したその祖父宗龍の五十回忌追善歌会に加わって、湖春・正立および安喜らと共に詠歌を残しているに事【註4】、翌八年正月季吟・湖春・湖元らの歳且集「乙亥元旦【註5】元農に歌俳を入集していること、の二点にとどまるようである。とはいえ、両者は共に、従来「小ばなし」によって知られるのみであった素龍の季吟・正立らとの関係を、紛れもない事実として裏付けうるものであることは勿論、殊に前者は一応問題になるその「おくのほそ道」の浄書の時期に明らかに先行していて、浄書の作業が決して素龍の全く徒らに過ぎしていた日々の産物ではなかったことを示すべき、ささやかながら貴重な記録といわなければならないであろう。
【註1】 古義堂文庫蔵。但し、これの前稿[諸生初見帳」(同文庫蔵)には「ニ逢申候」「右大坂謁見之人」の部分はない。便宜上「納禮志」に拠った。なお後出の「伊藤氏家乖」「元禄三年庚午目録」も共に同文庫蔵。 【註2】 徳島大学図書館常島分館蔵。飯田義資氏のご調査によった。 これは幕末のものらしいが、柏木姓は六家ある由。 この種の貞享 期の記録の出現が期待される。 【註3】 和田茂樹氏のご教示による。も一句は次のもので、従来知られぬものである。 惻隠 燈をくらかりにせむ夏の虫 素龍 【註4】 野村貴次氏「季吟の徒然草捨穂抄に就いて」 中央大学文芸部紀要文学科第五号参照。 素龍のものとして次の二言が掲げられている。 周流諸國五十余年 全故 おやと子のふかきえにしをしらま弓 いそちあまりの後のあふせに 移り行むかし語をしめやかに かきつくすへき友そすくなき、
【註5】 「資料と考証」一、白石悔三氏稿参照。素龍の歌俳は次のものである。 夜明より五音のよさに四方の春 素龍 〔乙亥元旦〕 全故 さかゆへき國の御空にたつ春の 時にあへやと玉津しま姫 〔歳 暮〕 全故 いつとなくおしむ月日のはてはては としもとまらて暮むとすらん
三
阿波藩を致仕浪人して元禄初年大阪に到った素龍は、その後一応大阪に居を定めて、土地の俳人達と僅かながら交渉を保ちつつ、諸書に句を投じるなどして過したようであった。 既に阿波時代から聊か俳諧にも手を染めていたらしい素龍にとってそうした大阪は、たとえ彼の本領を十分発揮しうるところではなかったにせよ、仁斎・東涯父子にまみえて後もなお暫くはそこに留まったことから、必ずしも全く彼の期待に反したところではなかったものと想像される。 しかし、それにも拘らずやがて元禄五年冬、思い立って彼が江戸に下った事情は、その大阪はもとより、京都もまた、共に彼の期待を十分に満すには、なお遠くかけ離れたところであったことを示すものと言わざるを得ないであろう。 とまれ、江戸客居中の芭蕉との邂逅、そして以後若干の彼の動静については、既に「小ばなし」その他によって知られるところであるのでここには詳記しないが、芭蕉の発案によって歌書の講釈にとりあえず糊口を凌ぐ道を見出したらしい彼は、やがて正立・季吟を通じて諸侯への代講という、一介の浪人にとってはやはり目ざましいと言わねばならぬ方向へと進んで行ったようであった。 とすれば、前途はなお定まらないとはいえ、元禄七年四月芭蕉に托されて「おくのほそ道」の浄書をなし遂げ跋文を草したのは、素龍にとっては最も意欲に満ちていた時代であったといっても過言ではあるまい。少なくとも、そこには自らを頼む気概に溢れるものがあるといって差し支えないであろう。 同年六月、芭蕉の去った後、彼の講釈を斡旋した江戸の俳人達をして、 「素龍事、取持かね申候。存候とは様子相違御座候【註1】」 と大いに手こずらせたのも、従って実はその自負の激しさのゆえではなかったかと考えられ る。ここに、浪人素龍のそうした性向を一応検証するためにも、彼の作品から参照すべき二三の発句をとり出しておくことにしよう。
桜見に小もんの羽織着るはなし 同(大坂)素龍 (元禄四年八月序刊賀子編「蓮寅」) あらひ髪鬼か笑はん大つもこり 素龍 (同五年二月序刊季範編「きさらき」) 何かしのかうの殿の花見に侍りて 中下もそれ相応の花見かな 芭蕉よりの文にくれの事いかゝなと在し 其かへり事に 爪取りて心やさしや年ごもり 素龍 (同七年六月刊「炭俵」) 姫百合や上よりさかる蜘蛛の糸 素龍 (同十一年五月刊「績猿蓑」)
ともあれ、「続猿蓑 ぞくさるみの」に見える右の一句を最後に、俳書に入集する彼の句は、以後全く途絶えるのである。従って、以後彼は江戸の俳壇から全く身を退いたこととなるが、その元禄十一乃至十二年とは、とりも直さず「小ばなし」にいう彼の柳澤侯への仕官の時期を示しているのではあるまいか。
正立門人故、季吟師へも出入被致、殊の外気に入り、 方々代講に被参候。 大村侯など御懇意にて候處、柳澤侯へ御抱へにて被参、 其頃は柏木儀左衛門と申候に藤之丞と申し候(「小ばなし」)。
勿論、ここにはその年次については全く示されていない。 しかし、いま右の一事を聊か傍證すべきものに、望月鹿門【註2】「三英随筆」に見える次の一條がある。即ち、 松平美濃守殿御出頭全盛之時、京都より柏木藤之丞・服部幸八とて 歌学者両人を呼下し、被召出。 服部は母方連歌師長嘯の末孫之由、両人共に御納戸役務居申観。 と。いうところの柏木藤之丞とは、先に儀左衛門を称した素龍その人であることは言うまでもない。また服部幸八とは、後の詩人南郭、歌人として柳澤侯に抱えられたことは、すでに請書に見えて知られるところである。 いま、「蘐園雑話【註5】によれば、南郭の仕官はその十七歳の時、即ち元禄十二年のこととなる。但し、ここに柏木藤之の仕官の時期をも、またこれと同じく元禄十二年のこととするためには、両者を同時に京都から呼び下したようにいう右の一文のみではいささか心許ないが、「両人を……被召出。……両人共に御納戸役」を相勤めたという所には、少くとも両者はほぼ同時期に仕官したものと受取られるのであって、今はまず以上によって、その仕官は元禄十二年のことであったとしても、・ほど大きな誤りはあるまいと思われる。
素龍の柳澤侯への仕官の時期を、仮りにいま元禄十二年のこととしたが、しかしその動静はこの前後、元禄九・十、同十三年の間全く不明である。また、仕官後「御納戸役」を相勤めたという事実についても、いまこれを徴すべきものを知らない。この点は南郭についても同様である。 しかし、そのような若干の不明の時期を経て元禄十四年以降に及んでは、彼等の動静は共に仕官した柳澤侯の周通に浮び上ってくる。即ちそれを示すものは、柳澤侯・美濃守吉保の日記「築只堂年録【註5】」に他ならない。従来、本書は一部に知られるのみで、その全容は久しく閉されたまま今日に至った。【註6】但し、その内容は些かも秘すべき性質のものでないこと勿論である。以下本書を中心に、当面の素龍の正体を明らかにすべく、かねてこれに関連する人々をも逐一掲げようとする所以であるが、誠に大部の本書の全貌を明らかにすることはもとより本稿の任ではないので、適宜取捨を加えて、大要は表記課題の範園に限るものであることを、ここに一応お断りしておきたい。 【註1】 元禄七年(1694)六月廿八日付芭蕉宛杉風書翰。校本「芭蕉全集」書翰篇による。 【註2】 元文二年(1737)以後幕府奥医師を勤め、明和六年(1769)七十三歳を以て没した。従って時代はやや後れるため誤傅もまま混じるようである。その著「三英随筆」一名「鹿門随筆」は、「杏林叢書」本を善本とするが、ここでは「三十幅」所収本によった。 【註3】 「文會雑記」「蘐園雑話」「閑散餘録」等。 【註4】 「南郭は十四のとき元禄丙子東都に至り、十七歳の時柳澤侯に仕へられたり」(日本思想家史傅全集本)とある。但し、「先哲叢談」はこれを十六歳塵の時とするが、とらない。 【註5】 柳深文庫蔵。写特大本二百二十九巻。吉保の誕生より、五十七歳を以て没した正徳四年十一月に至る間の事蹟を記録した公用日記。福井久藏「諸大名の學術と文芸の研究」、辻善之助「人物論叢」等に既に若干の紹介がある。 【註6】 「人物論叢」所収「柳澤吉保の一面」によれば、明治初年頃坂田諸遠(「甲斐少将吉保朝臣賞紀」百冊の著者)は、「偶々ある人より、柳澤家には吉保が荻生茂卿(徂徠)を相手に親撰した楽只堂年録と題する百巻ばかりの日記があるけれども、其本は秘書であって、其藩臣と雖も縦覧することはむつかしいと聞きて、之を渇望すること久しかった」とある。
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最終更新日
2020年11月20日 05時18分17秒
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