2295771 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2020年11月20日
XML
カテゴリ:俳諧人物事績資料

奥の細道執筆者 素龍(上)楽只堂の學輩達 2

 

 

  植谷 元氏著

 

一部加筆 山梨歴史文学館

 

   四 (△印は関連事項)

 

△元禄十三年八月十五日、美濃守吉保私邸に季吟・元常・湖元らを招いて詩歌会を興行す(「集只堂年録」第七十四巻)。

同「年録」によれば、季吟らが柳澤家歌会に登場するのはこれが最初である。但し、素龍・南部らは、ここには見えない。一座の歴々、及び記載例は次のようである(但し、以下送仮名は略す)。

 

  十五日 

ー、今夜名月故、於私亭興行詩歌之會。和歌兼題者、月契千秋。

少将吉保・法印季吟・同元常・湖元、家臣知・勝就・種俊

・儀朝・潜夫・玄愼、各詠之。(探題略)。

 

右の各詠歌は記載されていない。なお、同月二十七日の條に

「一傅受古今秘訣於再昌院法印季吟」の記事が見えて注意される。

 これらによれば、季吟らの柳澤家出入の時期は更にこれ以前にも遡りうるものと思われるが、いま明らかでない。

    元禄十四年(1701)七月、季吟主催の宗祗二百回忌追悼歌書に出座

(季吟筆「宗祇法師二百年忌之詩歌」)。【註1】

 

この歌書に一座の人々は、季吟・正立・湖元を初め、安喜・有鄰・宗恵・村榮に全故を加えて都合八人。安喜以下の四人は、何れも季吟に属した江戸下りの歌人達。この中、宗恵が貞徳弟子で 六字堂と称した内海長右衛門なる京都の人と知られる他は、詳細は殆んど知られぬ人達であるらしい。

○同年八月十五日、柳澤家詩歌會に季吟・正立・湖元・宗恵らと一座(同「年録」第八十六巻)。

 

「年録」に見えるところは次のようである。

  十五日   

 一、因例興行詩歌会于私亭。其和歌兼題、月多秋友。探題、

   早秋暁露 季吟  遠村秋夕 湖元  夜外夕虫 正堅

   深夜聞鹿 潜夫  月前萩花 女子橘氏  嶺上月明 全故

   月前雁来 宗恵  海邊擣衣 女子藤子  古寺紅葉 安貞

   水郷暮秋 𠮷保  依忍増戀 知慎  契不逢巻 種俊

   後朝恨戀 安貞  田家老翁 勝就  雨中晩鐘 儀朝

   寄風懐曹 湖元  旅宿夢覚 正立  社頭松久 吉保

 

各詠歌は記載されていない。この中、安貞は吉保の嫡子で後の甲斐守吉里。女子藤氏は正親町町子か。正堅は池田才次郎、潜夫は立野通庵、知愼は細井次郎大夫、種俊は依田十助、勝就は山東久左衛門、儀朝は矢野仁兵衛、何れも柳澤家家中の人々である。【註2】

 

○同年九月十三日、同歌書に出座(同「年録」第八十七巻)。

  富日の兼題は月前管絃、探題略。一座の人々は、

吉保 安貞 女子源氏 女子橘氏 女子 季吟 正立 湖元 宗恵

直重 知愼 潜夫 勝就 全故 正堅 種俵 儀朝 茂卿 行次

 

の十九人。各詠歌の記載はない。

直重は黒田豊前守のこと。茂卿は荻生惣右衛門(徂徠)、行次は岡田新平。

荻生惣右衛門の名は「年録」にも既にこれ以前元禄九年九月から見えるが、元禄七年正月武州川越時代の柳澤家分限帳にも、「大近習」として岡田新平(百名)・山東久左衛門(同)・都築又七郎(百石五人扶持)・池田才次郎(百石)らと並んで

「一、拾五人扶持荻生惣右衛門」

とその 名が見えている。これは従来知られている彼の仕官の年次を訂正するものであろうか。因みに、同分限帳には細井次郎大夫・志村三左衛門らも、夫々「御武頭・貳百石」「軍者儒者・貳百石」として見える。

○同年十二月十八日、同歌會に出座(同「年録」第九十三春)。

  當日の記事、及び一座の人々は次のようである。

一、        今日私亭輿行和歌會「由拜領松平之称號也。

兼題、松有歎聲、即席探題(略)。

   吉保 吉里 藤氏女子 源氏女子 橘氏女子・女子 豊前守直重 

法印季吟 正立 湖元 宗恵 家臣源知愼 同源勝就 同藤原全故 

同藤原正堅 同藤原種俊 同橘儀朝 同物部茂卿 同源行次 

同玄眞 同潜夫

 の二十一人。右の各詠歌の記載はない。玄貧は成田宗庵。

 

○元禄十五年(1702)正月十八日、同歌會に出座(同「年録」第九十四巻)。

  兼題は松添緑色、探題略。一座の人々は、

   吉保 吉里 藤氏女子 藤原氏女子 橘氏女子 女子 季吟

   正立 湖元 宗恵 知償 勝就 全敗 正堅 種俵 儀朝 

茂卿 行次 玄眞 元孝

 の二十人。この申、初出の元孝は即ち服部南郭である。

 

    同年七月十二日、吉保、「請北村再昌院法印季吟、再傳受古今和歌集口訣

(中略)往年既得受之、然今夏焼亡故復及于此」(同「年録」第百二巻)。

 

○同年八月十五日、同歌會に出座(同「年録」第百三巻)。

  兼題は依水月明、探題略。一座の人々は、

  少将吉保 従四位下吉里 藤原氏女子 藤氏女子 橘氏女子

  女子 従二位公通卿 従五位下直重 法印季吟 湖元 従長

  全故 茂榔 儀朝 行次 玄眞 仙甫 長勝

 の十八人。以上各詠歌の中、公通・季吟等迄の分を記載するが、略。

正親町公通は此頃から頻繁に柳澤家に出入・文通しているが、吉保とは和歌の叡覧・添削を時の仙洞霊元院に取次ぐ麗係にあった。【註4】従長は吉川原十郎惟足。吉保は元禄十四年五月十七日「屈請吉川惟足従長、再傅受御遊八雲秘訣」(同「年録」第八十三巻)している。仙甫は前出立野通庵潜夫のこと。なお、此月正立は五十一歳を以て江戸に没しているが、いま素龍の側に、これに関して何ら徽すべきものがない。【註5】

 

    同年十二月五日、将軍綱備吉柳澤邸に御成、

「家臣渡邊惣左衛門幹、進講詩徑秩于篇。

次柏木藤之丞全故者、源氏物語紅葉賀一節也」(同「年録」第百十巻)。

 

 当日一座の學輩は、

  志村三左衛門拉幹 荻生宗右衛門茂卿 小俣三郎右衛門弼種

  渡邊宗左衛門幹  澤田五左衛門正信  村井源五郎宣風

  津田宗助利行   酒見権之丞俊秀   都筑又左衛門春親

  村上権平好賢   金子横七郎清隣   柏木勝之丞全故

 

の十二人。なお、右に全故に先立って詩趣を講じた渡逢惣左衛門幹は、のち荻生惣右衛門と並んで柳澤家の儒者に掲げられた人である。

 

○元禄十六年(1703)正月十八日、同歌會に出座(同「年録」第百十二巻)。

  兼題は松延齢友、探題略。一座の人々は、

  吉保 古里 藤原氏女子 源氏女子 橘氏女子 女子 季吟

  湖元 季任 直重 従長 種貞 全故 正堅 儀朝 茂卿 

  行次 玄眞 楨幹 仙甫 光政 貴頼 宗條

                             

の二十三人。各詠歌の記載はない。右の中、季任は正立の養嗣、【註1】

種貞は前出依田十助種俊、光政は榊原某、貴頼は今立六部大夫、宗條は關文右衛門。

 

    同年二月十三日、綱吉柳澤邸に御成、

家臣田中清大夫省吾、進講小雅抑篇無兢維人章。

次鞍岡文二郎元晶以唐音進講大学小序-荻生宗右衛門茂卿訣譯之。

既畢唐音問答數返」(同「年録」第百十三巻)。

 

當日一座の学輩は、前年十二月五日の條に同じ。

田中省吾の仕官は元禄十二年その三十二歳の時であった(「田中桐江傅」)というが、「年録」ではこれが初出である。「田中桐江傅」にも近藤正斎全集の好書故事中講筵の部から省吾の進講の記事を抄出してある。また、「鞍岡文次郎、名は元晶、号蘇山、長崎の人なり。総髪にて容貌甚だ異なり。華音をよくす。或は長崎の譯者の子にて華人の落し種なりと云ふ。十九にして江戸に来り、徂徠翁推挙にて柳澤侯に仕へ奉り。其時年は二十六なりと申けれども實は十九なり……。」(「蘐國雑話」)という蘇山鞍岡元昌は寛延二年三月六日年七十一を以て没した(柳澤信俊「聞書」水木直箭氏蔵)ことから逆算すれば、その仕官は十九歳の時として元禄十年のこととなる。

                  

○同年八月十五日、同歌書に出座(同「年録」第百二十一巻)。

  兼題は月下交遊、探題略。一座の人々は、

  吉保 吉里 橘氏女子 女子 季吟 湖元 季任 従長 全貌

  正里 儀朝 茂卿 玄具 元孝 根幹 仙甫 光政 貴頼 種貞

  の十九人。各詠歌の記載なし。

 

○同年九月十三日、同歌書に出座(伺「年録」第百二十二巻)。

  常日の兼題は名所月、探題略。

一座の人々は、前條の人々に宗條が加わり、玄笑が鋏座するのみで、他は同。

また、各詠歌の記載なし。

 

    同年同月十七日、於月桂寺。

吉保先考正覚院柳澤安忠(吉保父)十七年忌追悼詩歌書に出座

(同「年録」第百二十三巻)。

  兼題は寄月懐旧、常座略。歌会に一座の人々は、

  吉保 吉里 橘氏女子 藤氏女子 藤原氏女子 女子 季吟

  湖元 従長 季任 種貞 正堅 儀朝 楨幹 茂卿 全故 

  仙甫 元孝 貴頼 宗條 光政

 

の二十一人。次に兼題から二三の詠歌を掲げておく。`

     〔寄月懐奮〕 (以下同)   季吟

  たのしみをきはむる國にすむ人を

酉の雲ゐの月にとはばや

                                                                                 楨幹

  むかしにもかはらぬけふの秋の月

影をし見れは袖そつゆけき

                    茂卿

くり返し昔の秋を思ひ出て

身は下なからあふく月影

                    全故

なき玉のうてなのうへにやとるらし

月の桂のてらす御影も

                    元孝

いかなれやみれはあやしくいにしへの

わすられやらぬ秋の夜の月

                    従長

なき人のかたみと見れは睦ましな 

むかしをかたれ夜半の月影

 

當座にも各詠歌があるが、略。同日、歌書後更に同題にて詩書あり。

一座の人々は、

源朝臣吉保 同𠮷里 臣(以下同)荻深勝久 柳深保誠 松平忠英

酒井勝世 山東勝就 依田種貞 池田正堅 矢野儀朝 賀古長榮

志村楨幹 荻生茂卿 小田政府 小俣弼種 渡逢 幹 澤田正信

村井宣風 津田利行 酒見俊秀 柏木全故 平井玄命 相原興治

立野仙甫 成田玄眞 日間景寛 服部元孝 今立貴頼 關 宗條

都筑春親 村上以成 金子清隣 鞍岡元昌 榊原光政 久志本常道

の三十五人。ここには客分の人は見えず、すべて柳澤家家中の人

 々である。全故その他二三の人々の作を掲げておくと次のようである。

 

     〔寄月懐奮〕 (以下同)     志村根幹

  先君已没十鈴年、去蚤来遅不拜賢、白露焉霜温梁月、明輝今看在高天

                      荻生茂廊

  徳尊不要語驚人、披向月明眼最親、一洗古来懐奮什、遙空雲霽仰孤輪                 

                      柏木全故

  年光好是東流水、萬古勝光限一初、皎潔月明無解老、等閑三五獨盈虚。

                      服部元孝

  浮世萬事多懐奮、歳々如終叉似初、秋夜燈前擡柵願望、半天明月入窓虚。

                      鞍岡元昌

  帳望宇宙歳時流、莫羨月光今古浮、徒教愁人思往事、西東獨自不曽留。

 

彼等の作は、いずれも各三篇宛記録されているが、ここにはそのすべてを掲げえない。

 

    同年九月二十八日、吉保、駒込六義園において新玉松法楽の和歌會を興行

(同「年録」第百二十七巻)。

  當日、一座の人々は、

   吉保 吉里 藤氏女子 藤原氏女子 橋氏女子 女子 季吟

   湖元 季任 直重 従長 勝久 忠英 全故 種貞 正堅 

   槙幹 茂卿 儀朝 光政 元孝 貴頼 宗條 仙甫

の二十五人。即席、菊契多秋。各詠歌の記載なし。

 

    同年十月二十一日、

吉保「招請豊前州前任住廣壽山法雲和尚于駒込別墅」して詩會

(同「年録」第百二十八巻)。

 當日、一座の一々は、

   楽只堂主人 法雲 竺源 鞍洲 竺門 靈海 暁峰 ■宗

  のほか、家臣、

   池田才郎正堅   志村三左衛門楨   荻生宗右衛門茂卿

   小田清右衛門政府 小俣三郎右衛門弼種 渡邊宗左衛門幹

   澤田五左衛門正信 村井源五郎宣風   津田宗助利行

   酒見権之丞俊秀  鞍岡文二郎元昌

の、計十九人。各詩賦の記載あれど、略。

 

    同年十一月二十一日、

山城國下賀茂神官梨木左京権大夫裕之、

去月有願事来于江府、頗嗜和歌且輿公通卿親善。

故招令在吉保宅内、明日當帰洛、因将吉保吉里曽詠和歌各千首

 托祐之、以達于公通卿、使供仙洞御所叡覧

(同「年録」第百三十三巻)。

 

【註1】

野村貴次氏前掲稿による。箱根早雲寺蔵の由。

素龍のものとして次の二首が掲げられている。

     對月思古人 

  百年は二たひ来れと箱根山

月より外の面影はなし   全故

     水 馬    ’

  行水にすむ鳥の跡たえせすも

流れてのよに傅ふ言のは  全故

 

ここで少なからず気にかかることは、この時もし素龍が季吟らと共に箱根に到来していたとすれば、そしてまたもし季吟らの柳澤家訪問が元禄十三年以前に逆上りえなかったとすれば、素龍の仕官は或はこれより以後のことではなかったか、と疑われることである。その方がこの場合適当かも知れないが、確証が挙がるではこのままにおくほかはない。

【註2】 

この中、細井次郎大夫は書家そして最も知られる細井廣澤(享保二十年(1735)十二月没、年七十八)。その仕官は「先哲叢談」によれば廣澤三十六歳の時、即ち元禄六年のこととなるが、本「年録」によれば既に元禄四年閏八月十日、吉保の御前に講釈をした學輩の中に、家臣として「細井次郎大夫知愼」と見えている。同年五月九日の條にも、同じく「細井右平次某」と見えるのは、彼の前名であろうか。後者はともかく、「先哲叢談」の記建は甚だ危いものといわねばならないが、廣澤は柳潭家においては、例えば林鳳岡の門人晩山安見友益(享保十六年(1731)五月没・、年五十一)・拙斎矢野利平義道(享保十七年正月没、年七十一)らとほぼ同時期に、志村三左衛門楨幹・荻生息右衛門茂卿らに先立って、最も早く抱えられた學輩の一人であった。なお、柳澤家の學輩は、元禄初年は主として林泉の學者達がその席を占有していたようであるが、以後次第に改まり、やがて徂徠の登場によって古學の人々と入れ替って行った。

 

ここに「年録」から、本文に加ええなかった元禄十二年(1699)以前の一例を掲げて参考とする。

元禄十年十一月十四日

一、        今日天気好、御成子私亭「(中略)御講釈講論語雍也篇知者楽永章。

(中略、老中五人他拜聞のこと)。

次、吉保講論語于路篇居而無倦章。次、家臣五人、就御講釈奉問疑義。

荻生宗右衛門茂卿、首唱其義。志村三左衛門楨幹・細井次郎大夫知愼

・山東久左衛門勝就・池田才次郎正堅、相継奉難也。

次、家臣五人進講。

渡邊宗左衛門幹・書経堯典第二章、

村井源五郎宣風・論語述而篇子温而属章、

依田十勅種俊俵・孟子盡心篇行而不著章、

立野通庵潜夫・職原抄首段、

矢野仁兵衛儀朝・従然草神無月之比栗栖野一段也。(下略)。

 

因みに、この元禄十年(1697)現在、柳澤侯に属した學輩(「學問教授ノ者」ともある)達を掲げると次のようである。

  細井次郎大夫知愼  井野口左原太正恒  奥野友之助某

  志村三左衛門楨幹  村田平蔵胤草    芦田平助定久

  大原丈右衛門資彌  堀平次郎則次    岡田新平行次

  山東久左衛門勝就  都築又七郎種徳   池田才次郎正堅

  荻生宗右衛門茂卿  小俣三郎右衛門弼種 中村四郎左衛門正基

  濱川興三兵衛直清  酉竹右衛門宗辰   松本佐左衛門勝世

  賀古紋左衛門長栄  澤田五左衛門正信  都築亦十郎春親

  村上権平好賢    河目治左衛門正恒  小田清助政府

  矢野仁兵衛儀朝   依田十助種俊    村井源五郎宣風

  渡邊宗左衛門幹   立野通庵潜夫    金子権七郎清隣

            (「巣只堂年録」第四十五~五十一巻)

 

【註3】

保井文庫蔵、横寫一冊。

表紙に

「元禄七戌年(1694)正月七日壱萬石御加増武州川越御城主之節御家中郷分限」、

初丁表に

「元禄七戌年正月七日壹萬石御加増武州川越之御城初而御拜領御家中御分限之寫」

と夫々あるが、内容はこれよりやや後れるかも知れない。

【【註4】 

「楽只堂年録」第百二十巻・元禄十六年(1703)七月二日の條に、

 一、吉保数年、窃嗜和歌之餘、頃者憑正親町前大納言公通卿

   密々奉願仙洞御所之叡削。公通卿、悉見傅勅許之旨(下略)。

とあり、以後公通との書状往復の記事は同「年録」に夥しくあらわれる。但し、そこには歌人・神道家としてはともかく、狂歌師(風水軒白玉)としての俤は、まだ窺われない。

それは享保十八年(1733)七月十二日年八十一を以て没した、その晩年のことに属する。

公通の妹で近世女流文學として知られる正親町町子(田中氏藤原郷子、享保九年三月三十一日没、享年未詳)は即ち柳澤侯の側室であつたが、柳澤侯との間に生れた、

松平刑部少輔経隆(元禄七年(1694)十一月十六日生、享保十年八月没、年三十二)

同式部少輔時睦(元禄九年(1696)六月十二日生、寛延三年四月没、年五十五)

の生年から、少くとも町子の柳澤家に入ったのは元禄七年以前のこととなる。

【註5】

但し、吉里の「積玉和歌集」(柳澤文庫蔵)によれば、

   北村正立みまかりけるとき再昌院決印季吟もとへつかはしける

     なけくらんみしかき夢のはかなさを

思ひやるゝに世中はうし

 

   正立身まかりし一七日壽量品賓樹多花果衆生所遺業といふ事を

法印季吟もとへよみてつかはしける

     人の世の行衛やいつこわしの山

たのしみ深き花も果も

 

   元禄十六年(1703)八月廿一日法印季吟家にて

正立一周忌追福の會しけるとき同し題(庄、「秋鳥」)を

     かたうつら梅醤さひし此比は

露ふく風の野への夕暮

   

元禄十六年(1703)八月什二日北村正立一周忌に

法印季吟勧進しけるとき月前演曹

     思ひ出るけふ二とせの秋なれや

かたみに飛す袖の月影

等々の作が見え、従ってこれらの機會に素龍も追悼歌を詠じなかったとは考えられない。               

【註6】 

正徳二年(1712)四月改の「柳澤家分限帳」(保井文庫蔵)によれば、

 

彼の名は常時の柳澤家の儒者二人の中に

「一、四百石 荻生惣右衛門」

と並んで、

「一、貳百石 渡邊惣左衛門」

と示されている。幹はその名であろう。のち隠居して一得と称し、享保二十年五月年七十二を以て没した(柳澤信復「聞書」)。

いま、伊藤仁斎、東の「諸生納禮志」天和二年(1682)十月十一日の條によれば、井上長右衛門の同道で古義堂に入門した人に同じ「渡邊惣左衛門」なる人物がある。左注に「有馬左衛門殿家中之人、日向之人」と記す。同人と推定されるが、とすれば徂徠はその仁斎門下の學輩と席を同じくしていたこととなる。

なお、このような人々がいたためか、細井廣澤もまた古義堂の門をくぐっている。「諸生納禮志」元禄十一年(1698)八月二十五日の條に、

「一、細井次郎大夫 柳澤出羽守殿内也、唐本屋善五郎同道」

と見えるのがそれである。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020年11月20日 05時20分31秒
コメント(0) | コメントを書く
[俳諧人物事績資料] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X