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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年11月29日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室

芭蕉の谷村流寓と高山糜塒(ビジ) 

 

『都留市史』通史編5節「人々の教養と遊芸」による・一部加筆

 

市内宝鏡寺の参道には

「目にかゝる時には殊さらに五月富士」(正しくは、目にかゝる時やことさら五月富士)+

また円通院には

「旅人と我名よばれんはつ時雨」   (正しくは、旅人とわが名呼ばれん初しぐれ)

という二基の芭蕉句碑がある。いずれも文化年間(180617)に建立されたものであり、当時の市域に暮らした人びとの俳聖芭蕉への熱い思い、そして俳諧熱のほどがうかがえる(詳しくは後述)。

 芭蕉および俳諧にたいするこうした思いは、現在の都留市民にも受け継がれており、昭和五十八年(1983)年には都留市俳句湯量主催の「芭蕉来峡三百年祭」を記章する句碑が棄山公園に、また富士女性センター前には「芭蕉流寓之跡」を示す碑が、それぞれ建てられた。さらに平成四年(1992)年度の全国健康福祉祭(ねんりんピック)が山梨県で開かれた時、日頃から俳句創作活動の盛んな当市においては「ふれあい俳句大会」が催されている。このように都留市が「芭蕉の里」らしい街づくりを進め、市民が熱心に俳句創作活動に取り組む、その背景のひとつに「芭蕉の郡内流寓説」がある。

 芭蕉のいわゆる「郡内流寓」は、天和三年(1683)と貞享二年(1855)の二回が想定されている。天和三年の「流寓」とは、前年末の江戸大火(世にいう八百屋お七の振袖火事)で焼け出された芭蕉が、弟子である秋元家の重臣高山伝右衛門こと糜塒や高山五兵衛と推測される白豚を頼り、都留に滞在したというもの、貞享二年の場合は、「野ざらし紀行」の旅の帰途に立ち寄ったというものである。

郡内での潜在端には、谷村と初狩(大月市)説があり、さらに潜在期間についても、三~四か月に及ぶ長期「流寓」説と、谷村を拠点に甲州国中地域や信州(長野県)へと足を伸ばす「甲州紀行」だったとするさまざまな見方がある。また芭蕉は、「野ざらし紀行」において蕉風俳諧を確立したとされることから、紀行の直前の「郡内流寓」は「芭蕉が芭蕉らしい句を作るスタート、助走になっている」という評価も見られる(松本武秀「芭蕉俳諧の異聞と郡内流寓」、「蕉風の源流 芭蕉のさと都留」所収)。

 以上のように芭蕉の「郡内流寓」にかんする資料は少なく、さまざまな角度からの推測はなされているが、確実なことはほとんどわからないというのが実情である。とはいえ芭蕉の時代の当市域は、高山糜塒や白豚のような蕉門の弟子が存在していたことは確かで、彼らが都留郡に蕉風の最初の灯をともしたことは間違いない。これから追々縷縷述べてゆくように、近世中~後期の都留の人びとは、その灯を大事に育み、大輪の俳諧文化を闘花させてゆくのである。(中略)

 

芭蕉庵類焼と谷村への流寓

 

 天和二年(1682)十二月二十八日、江戸駒込の大円寺から出火した火事は、本郷、下谷、神田、日本橋、浅草、本所、深川まで類焼し、江戸の七分どおりを灰燼と化した。俗にいう「八百屋お七」で名を残した大火である。

 火はついに江東に及んで、深川の芭蕉庵も急火にかこまれ、芭蕉は潮に浸って危うく難をまぬがれたという。

 この時の状況を宝井其角は「枯尾華」の「芭蕉翁終焉記」の中で次のように述べている。

 

天和三年(正しくは二年)の冬、瀕川の草庵急火にかこまれ、潮にひたりをかづきて、煙のうちに生きのびけん、是ぞ玉の緒のはかなき初め也。爰に猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発して、其次の年、夏の半に甲斐が根にくらして、富士の雪のみつれなければと、昔の跡に立帰りおはしければ、人々うれしくて、焼原の旧草に庵をむすび、しばしば心とどまる(ながめ)にもとて一かぶの芭蕉を植ゑたり。」

【割注】苫=菅(すげ)・茅(かや)などで編んで作ったもの。船などを覆い, 雨露をしのぐのに用いる。

この時、焼け出された芭蕉を谷村の自宅に引き取り、五ヶ月の間世話をしたのが、当時谷村城主秋元喬朝(喬知)の国家老高山傅右衛門繁文(俳名、糜塒)であった。

 芭蕉が甲州郡内に流寓したことは「枯尾花」をはじめ諸書に伝えられているが、甲州へどうした関係から行ったか、また、いかに生活したかについては、これを確かに語るものがなく、要するにいずれも「説」というべきものに過ぎなかった。

 これまでの谷村流寓説の研究とその疑問点については、樋口功氏が『芭蕉研究』の中で次のように誌されている。

「甲州で誰を頼ったかに就いては、『随斎諧話』(夏目成美)や湖中の『芭蕉伝』等には、佛頂和尚の下僕で、目に一丁字は無かったが、得悟が甚だ優れて、六祖と渾名(あだな)されていた五兵衛という者を、同門の縁りで甲州の山棲に訪ねたのであるとある。是等は他に徴すべき材料が無いので、確かとも謂い兼ねるが、亦疑うべき理由も無いようである。初狩村に杉風の姉がいたので、其所を便ったのであろうともいう。是もありそうな事であるが確かかどうか。    

又此の旅行の途中の吟とて

馬ぼくぼく我を絵に見る夏野哉

が伝わっている。是を立句として、脇は滝の句で糜塒(高山氏)一晶との三吟歌仙がある。又

胡草垣穂に木瓜も無家かな

の糜塒の発句に

笠面白や卯の実ら雨

の一晶の脇で、芭蕉との三吟歌仙もあるが、後者の句意から察すると、糜塒が一晶及び芭蕉を我が家に宿しての挨拶の句らしい。そこで糜塒は当時甲州の住人であったとすると、事実がよく疎通するのであるが、又疑問もある。『真澄鏡』に、糜塒の子某の語として

「亡父幻世(糜塒晩年の号)懇(芭蕉と)にて、甲州郡内谷村へも度々参られ、三十日或は五十日逗留す。又ある時は一晶など同道す」

とある語気から察すると、当時糜塒が此の谷村に居たものとしか想はれぬが、又同書に芭蕉の真蹟を掲げて「上野国館林高山氏蔵」と記した処から見ると、少なくとも子某の代には館林に家のあった事だけは判る。すると其の父の糜塒を甲州住と一寸考えられなくなる。けれども右の文は、芭蕉が甲州へ行く序でも館林の高山氏宅に立寄った意味とはどうしても取れぬようであるが如何であるか。或は当時糜塒が甲州に居住していたのではないかと想うが、固より確かでない。」

と考究されている。

 文中の谷村での吟と言われる歌仙については後記するとして、この『真澄鏡』は、安政六年(1859)に守轍白亥が出版したもので、その中に糜塒の男が軸箱の裏に書いた文言の写しと、芭蕉や杉風が糜塒に送った書簡その他のものが誌されている。

 軸箱の裏書というのは、次の文言である。

「傅右衛門子息の認しもの也、今用なきに似たれど、いさゝか証とすべき事のあれば此処に出す。

 

俳諧の宗匠芭蕉桃青翁は、伊賀の国上野の士なり―(中略)―亡父幻世話にて、甲州郡内谷村へも度々参られご二十日或は五十日逗留す。又ある時は一晶など同道す。但し鯉屋手代伊兵衛は桃青翁の甥なり、幻世世話して小普請手代になし、松村吉左衛門と名乗、本郷春木町に住す、其終る処をしらず。高山傅右衛門繁文俳名糜塒、後に幻世と改む。」

 著者白亥の記したものであり、軸箱裏書のほか、所収の尺牘(セキトク 文字を書きつけた短い木の札)に『上野国館林高山氏蔵する処の真蹟なり』と附記してある。編者白亥が親切心で記したものである。

 高山糜塒のことについては、昭和初期頃の一外、鳳二共編の『新選俳諧年表』に「高山氏、名繁文、秝傅右衛門、幻世と号す、芭蕉門人、甲州人、上州館林住」とあるのみで、糜塒の身分、職業等もわからず、また、館林の住人か、谷村の住人であったのか芭蕉研究家を大いに惑わしたのである。

 高木蒼悟氏は、伊藤松宇氏(古俳書の回収家として松宇文庫がある)が在世中(昭和十八年没)松宇氏所蔵の大嵐(明治三年没)の稿本「芭蕉年譜稿本」に糜塒のことがあり、したがって芭蕉の甲州流寓のことが明らかになることの示唆をうけて研究を始め、昭和二十三年頃から雑誌「小太刀」に発表し、芭蕉と糜塒の関係を明らかにしている。

 『芭蕉翁年譜稿本』には、江戸を焼け出された芭蕉が、甲州谷村に半年ほど流寓したのは、誰を頼ったかわからなかったのに、佛頂会下の六祖五平を頼ったという旧説を打破して、谷村藩家老高山傅右衛門繁文(糜塒)を頼ったこと、また、芭蕉参禅の師佛頂の伝記も誌るし、天和三年の条の冒頭に、当時の芭蕉と糜塒の関係を次のように記述している。

 

「世は元旦も元旦の心ならず、焚址の煙だにおさまらざる中なりけり、翁は浜島氏におはして、歳旦の吟だもおもひよせ玉はず、おりおり訪らう門子親友に対話し玉うばかりなり。爰に又秋元家の臣たる彼高山糜塒は、佛頂禅師会下のちなみといい、俳諧に師弟の因といい、ひとかたならぬ情ありて、翁焼庵の時もいちはやく此寓居を訪らい申し、其恙きをよろこびけり。さるに此頃帰国すべき事となりければ、翁に其よしを申て、焚後の乱雑なるを見玉はむより、しばらく甲斐の山中に遊び玉はんいかがおはすべき、事に物に不自由なるは山家のつねなれども、還閑寂の幽趣もありて、此粉々をわすれ玉はむ、さいはい帰国の日も近づけば、御供申候はんとすすめけるに、翁大に喜びて、主浜島氏にも其事をかたり、糜塒にしたがひ玉ふ。

 此事を杉風にも物語るに幸なるかな姉甲斐の国郡内初雁村に稼してあり、秋元の城下谷村にはほど遠からねば、をりくは其許へもおはして滞留したまへとぞ申ける。かくて約束の日にもなりければ、翁は糜塒に伴はれて甲斐の谷村へ趣き玉ふ。此高山糜塒は谷村の重臣にして、其居宅も広やかに、男女多く仕ひければ、ねんごろに翁をもてなし、官事の暇には禅を対話し、又俳を研究して倦む事なければ、翁もしたしく導き玉へり。糜塒が別荘を桃林軒と号せり。翁はつねに其別荘を寓居と定め、心ままに城外にも逍遥し玉ふ。ある時糜塒に伴はれて山川のほとりに漫遊し玉ふに句あり。

  いきほひあり氷消ては滝津魚     芭蕉

此魚は俗にヤマメといふ魚のわざを見玉ひての作なりとぞ。

 又初狩村もほど近ければ、彼杉風が姉の嫁したる許を訪らひ玉ふに、かねてより翁の徳は承りたる事にあれば、懇ろにもてなし申て、その里なる等力山萬福寺といふ寺にも伴ひけるに、主僧の需にしばしば筆をとり玉へり。其真蹟今なほ万福寺に多く蔵すといへり。」

 大虫はまた、六祖五平を高山五平としている。元和元年に芭蕉が佛頂に参禅した事を記述して、その終りに  

「秋元家の藩士に高山五平といふ人ありけり、佛頂禅師に参じて禅機よのつねならず、頗る恵能の風ありければ、師これを渾号して六祖五平とぞ呼れける。桃青も折々会下に面話して其交日々に厚く、五平も俳諧にこゝろざして桃青の門に入、表徳を慶埼と称す」

 註に「後年幻世と改む。又俗称の五平をも後に傅右衛門と改めたり。諸抄此五平を佛頂の僕にして、一文不知の者也とす。そは恵能の事に引当て設たる妄説なるべし」とある。

 大虫が何の資料によったかわからないが、多分に大虫の主観が入っていると思われ、今後の研究にまたねばならない問題が残されている。

 『勢いあり』の句、糜塒邸宅については後記するが、初狩村に杉風の姉が嫁し、芭蕉は杉風の紹介で其処へも往来したらしく伝えられるが、いまだ確証されていない。

 高木蒼悟氏も、かつて杉山杉風伝を雑誌『石楠』に発表しているが、初原村に姉が居たという記述は見出し得ないと誌している。

 芭蕉が初雁村の等力山高福寺に遊んで、そこに多くの墨蹟を残し、それを伝存するという説であるが、この寺は当時等々力村(現勝沼町等々力)にあり、初狩から二十キロメートルの距離でこの間にある笹子峠を越して行かなければならない。芭蕉の墨蹟は残されていないが、高福寺境内には、高福寺住職三車によって「行駒の麦に慰むやどりかな」の句碑が建てられ、翁の真蹟であるとも言われており、願主三車の時代には何か資料があったことも想像される。

この句碑の建立当時のものと思われるが、高桑蘭更が序文を書き、義仲寺の無名庵七世井上重厚(文化元年正月十八日没、年六十七)の跋文で『駒塚集』が刊行されている。

 

    駒塚集 序

「そのかみはせを(芭蕉)の翁、甲斐が根に杖をめぐらし、たきつ魚の水とけそめしより、春も日にうつりつつ、行駒の麦にたはるる露の間のやどり、ことさら旅の哀ふかく、暫時百景の霧時雨は、古人とともに腸をそそぎ、山里の雪の仮の宿に、兎の皮の髭つくれと、童子をも慰め給ひけるよし、風流さまざまなる中に、等力山萬福精舎の五勝世に名くはしく馬蹄馬上玉のよりどころなきにしもあらず。さればかの高詠を碑にとどめ千載不朽の正風をあふぎ遠近の好士の句々をもとめて、駒墳集を遺ん事を告る、三車主人の趣意を含みて、老懶おもき眸をひらき十が一をここに塗沫するのみ。」

 この蘭更の序文は、甲斐を訪れて詠んだ芭蕉の句を、それぞれ四季に取り入れて綴ってあり、『滝ツ魚の水』「行駒の」「雲霧の」は次の三句を意味している。

  勢ひあり氷消えては滝ツ魚

  行駒の麦に慰むやどりかな

  雲霧の暫時百景をつくしけり

 また『兎の皮の髭つくれ』は、甲州での作ではないが、「山中子供とあそびて」と題して『雪の中に兎の皮の髭作れ』という句で、元禄二年の作とされている。

 『馬蹄馬上』は、萬福寺境内にある馬蹄石をさしている。聖徳太子にまつわる伝説があり、長さ二間ほどの石に四個の馬蹄の跡がある。聖徳太子が甲斐の黒駒に乗って富士山・駒ヶ岳に登った帰りに、この石にとどまり、その時の馬蹄の跡と伝えられている。

 高桑蘭更は、加賀金沢の商家に生れ、俳諧は伊勢派の希因に学んだ。芭蕉関係の書の翻刻、注釈等を編著し、芭蕉の昔にかえることを鼓吹して天明俳壇の復興に寄与した。

 晩年は医を業とし、京都に住み東山下の高台寺のかたわらに芭蕉堂を営んだ。門下からは梅室、蒼虹などを出し、特に甲州俳壇では辻嵐外、五味可都里が活躍して、以後多くの俳人が偉出している。天明六年(一七八六)甲斐の差出の磯の石牙の宅に滞在し『宇良不士』を刊行している。

 傅右衛門が六祖五平という説についても、何の確証は得られないが、芭蕉が参禅した佛頂禅師との面識はあったと思はれる。佛頂が常陸国鹿島の根本寺と鹿島神宮との寺領争いの訴訟を延宝二年(一六七四)から天和二年(一六八二)まで九年間、敗訴になっても却下されても、飽まず撓まず執念をもって努力を続けた。天和元年に秋元喬朝が寺社奉行に就任し、天和二年に訴訟が解決して佛頂禅師の勝訴となった。この訴訟に佛頂に参禅した芭蕉が、秋元家の家老職であった糜塒を介して、主君喬朝に進言したことも察せられる。或いは糜塒も芭蕉と共に臨川庵に掛錫中の仏佛禅師に参禅したのではないだろうか。

 傅右衛門の二男が六祖五平だという説も多くあるが、糜塒には嗣子繁扶のほかに一男一女があった。高山家系図には次のように誌されている。

      二男曾雌民部定容(童名養六、後乗馬、内蔵之助、半兵衛)

 貞享二年(一六八五)に甲州谷村に生れ、十五歳にて幕下小従人番頭曾雌権右衛門定男に養わ れて子となり、禄七百石を領し、御書院番に列した。

      女子(喜奈)

 元禄十年(一六九七)甲州谷村に生れ、秋元家臣田中八兵衛道積の妻となり、享保四年(一七一九)十一月朔日、二十四歳にて歿し、江戸芝土器町瑠璃光寺に葬る。

 二男は貞享二年生れで、芭蕉が谷村へ流寓したのは天和二年(一六八二)であり、まだ生れてはいなかった。

 秋元藩中に高山一門は六家あり、いずれも重臣であった。

 総社(群馬)時代から秋元家に仕えた初代高山五兵衛長繁は、高五百石を得て代々五兵衛と称した。長繁は繁文(庸埼)の祖父繁政の弟に当り、分家して秋元家に仕え谷村に培従した人で、天正十七年(一五八九)に生れ、正保三年(一六四六)に没しており、二代玉兵衛繁春は寛永六年(一六二九)に生れ、延宝四年(一六七六)に没し、芭蕉の谷村流寓以前に没している。

 糜塒と同時代は三代目五兵衛公重(のち重輝)で、繁文の弟に当り、五兵衛家の養子となり、繁春の娘と結婚しているが、万治二年(一六五九)に生れ、享保十六年に没している。芭蕉が谷村へ流寓した時は二十四歳であり、佛頂の弟子となった時代をはずれている。

 芭蕉、佛頂時代の五兵衛は此の三人であるが、六祖五平に該当する者は存在しない。

 大虫が、六祖五平を糜塒と同一人なりと言うのは、或はこの高山五兵衛家と錯誤したのではないだろうか。しかし五百石取りの高山五兵衛が佛頂禅師の下僕で一文不知の者であったとは思われない。

 芭蕉が谷村へ流寓した途中、藤崎村(現大月市債橘町藤崎)に宿泊した資料が残されている。文政八年(一八二五)四時館魚水の書いた文書で藤本家に伝っているものである。

 宝歴十一年(一七六一)に刊行された『諸国翁墳(おきなあづか)記』に

翁塚 甲州都留郡藤崎村藤本氏構之内ニ有

   草臥て宿かるころやふちのはな

とある。また綴込みの別紙に

 

此度祖翁塚法縁を以当地へ草創敷度候為粟津本願へ奉納之布施相納魚水長崎の越へ公家事にて被供候帰路立寄り院主閑斉老人へ談、祖翁宿家集と名附る。昔祖翁東武より谷村へ杖をひき玉ふ折柄当地に宿り玉ふ。もっとも発句は此地に懸らずと言へども藤の花のゆかりあればこゝに出せる也。翌日は井倉村谷内氏に宿られ、夫より秋元家の藩中何某之許に逗留ありしと申伝ふるなり。その流れを汲む人々今をさかりと絶せぬこそ尊むべし、尊むべし、依而宿せられたる処をゆかりとして、予が構への内に墳墓をいとなまんと父が志をつぎて、閑斉老人に談し取計ひしものなり。

文政七年三月十一日義仲寺へ詣、翌年酉五月参詣、戌之弥生仲旬東武青山青木小嶋が方へ此壱帖届、甫水出府之時御持参願給也

   対松館漣漪子門人 柳斉漣燕男

              四時館魚水記ス

 

魚水が二回にわたり義仲寺を 訪れ諸国喪墳記」に洩れていた芭蕉の藤本家へ宿泊による句碑建立の件をつけ加えるように願い出たものである。

 間斉は釈氏。吉備中山の人で諸国を遊歴して文政三年(一八二〇)粟津義仲寺(木曾義仲を葬ったと伝えられる寺で、大阪で没した芭蕉を葬った。)の無名庵に入って十世となり、在庵十七年天保八年(一八三七)頃没した。

 芭蕉が谷村へ流寓の途中藤崎村の藤本家に宿り、翌日は井倉村(谷村より四キロ離れた部落、現都留市)の谷内氏へ宿泊し、それから秋元侯の家臣(糜塒)の許に逗留したことが書かれている。

 現在も井倉には谷内姓が数軒あるが、宿泊したという家は不明である。たぶん当時庄屋なり名主をしていた旧家ではないだろうか。

 芭蕉が谷村の高山邸に滞在中の状況を知る資料は少ないが、糜塒の手厚い世話により五ケ月間を過したのである。その間秋元侯の領地である郡内の地を散策し、雄大な富士に接したことは当然のことであったと思われる。

かくて五月、芭蕉は其角の撰集『虚栗』に期待しつゝ江戸に帰って行った。その直後の住居は明らかでない。

 蕉風展開史上に特筆すべき『虚粟』の跋文は、天和三年五月の染筆で、当時の芭蕉自身の俳諧観や抱負が十二分に吐露されている。跋文の要請は、谷村在留中に其角から便りがあったもので、芭蕉の原案はすでにこの頃書かれていたものであろう。

 この「虚栗」には、糜塒の発句五句が入集している。

 

芭蕉の谷村入峡とその作品

『都留市史』通史編5節「人々の教養と遊芸」による・一部加筆

 

 芭蕉が谷村へ入峡したのは、芭蕉庵類焼により谷村の糜塒邸に世話になったときと、甲子吟行の帰り、貞享二年(一六八五)の四月甲斐に入ってわざわざ郡内に寄り道しているときである。多分療考から文通があって勧誘されたものであろう。

 この時の逗留は、帰り道尾張の鳴海を四月十日に立ち、名古屋から木曾路、甲州路を経て江戸への帰庵は卯月(四月)の末であった。その間は二十日ばかりで、谷村の高山邸に泊ったとしても二、三日位であったと思われる。この時の資料として、芭蕉から空水宛の書簡がある。

 

追而申入候。此中はふじに長々逗留、其上何角御世話に成候へば、別而御内方様御世話に候。いそがしき中に、うかうかいたし居侯而きのどくに侯。長雨にふりこめられ候事、とかうに及びがたく候

   行駒の麦になぐさむやどりかな

いずれもよろしく御まうし可被給侯。くはしきは重而々以上

  十三日           桃青

 空水様

 

 この空水については誰であるかわからないが「ふじに長々逗留」とあり、富士に間近なところと推察できる。たぶん山中、吉田、或いは谷村の俳人ではないだろうか。

 甲州における芭蕉の句は、文献では『夏馬の運行』再案の「馬ぼくぼくと、「行駒の」・「山賎の」の三句が正確な吟詠とされているが、それ以外に糜塒と関係して確実と信じられる句もあるので、研究家の発表をもとに整理してみたいと思う。

  馬ぼくぼくわれを絵に見る夏野かな

 「泊船集」許六書入れ、「赤冊子草稿」、『三冊子』、「蕉翁句集」、『続年矢集』、「水の友」などにこの句形で見える。芭蕉庵類焼による甲斐谷村に流寓中の天和三年の作で、『一葉集』付合え部に載せる糜塒、一晶との三吟歌仙の発句に、

    夏馬の遅行われを絵に見る心かな

 とあるのが初案であろう。『二葉集』発句之部には別に『甲斐の郡内といふ所に欲る途中の苦吟』と前書する。

    夏馬ぼくぼくわれを絵に見る心かな

 の句形を収めている。糜塒旧蔵の芭蕉真蹟短冊中に

    馬ぼくぼくわれを絵に見ん夏野かな

 とあるところを見ると、下五「心かな」から「夏野かな」への改稿は、おそらく甲斐流寓中に谷村でなされたものと思われる。「絵に見ん」から定校の「絵に見る」への推敲が何時なされたのかは明らかでない。

 なお『泊船集』には、下五『枯野かな』の句形で収めて、傍に「この句夏野かなともある人申されし」と註をつけてある。また『水の友』に「此句、泊船集に冬野哉とあやまれる故ここにしるす」と訂誤しながら、枯野を冬野にして誤りを再び重ねている。

 

『水の音』には画讃として詞書が載っている。

   画 讃

かさ着て馬に乗りたる坊主は、いづれの境より出て、何をむさぼりありくにや。このぬしのいへる、是は予が旅のすがたを写せりとかや。さればこそ三界流浪のもゝ尻、おちてあやまちすることなかれ

  馬ぼくぼく我をゑに見る夏野哉

【註】「このぬしの」は、所蔵者であるか、画の筆者かいずれにしても不明である。

  「三界流浪」とは、世の中をさまよい歩く者のことで三界坊とも云う。

  「もも尻」は、桃の実のごろごろして尻のすわらぬように、乗馬に拙ない者。

 芭蕉のこの句碑は、大月市猿橋町藤咲久保にあるが、建設年は明治末とされており、「馬保久々々我を絵に見留夏野哉」とある。

  勢ヒあり氷消ては滝津魚

谷村郊外田原の滝、これを根滝、また白滝と言う。谷村流寓中の嘱目吟である。この句の載

明治末期頃の田原の滝

籍は芭蕉時代より後の安永六年(一七七七)堀麦水編の「新遼東」に、春嶮と題して「此句今までの撰にもれたるよし但州より告り」と附記して始めて掲載されている。但馬の国へは芭蕉は行っていないので『甲州』の誤記ではないだろうか。

 文化六年(一八○九)刊行した「暁台句集」に『山賤の』「雲霧の」の旬と共に三句出してある。

   川口にて

 勢ひあり氷柱消えて滝津魚

 また、天明三年(一七八三)の秋、暁台が甲州藤田村の可都里を訪ねた紀行『峡中之記』には、

 「山口(川口の誤りと思われる)にて、勢ひあり氷柱消えて竜津魚」として出ている。

 文政十年(一八二七)刊行した毛呂何丸著の「芭蕉翁句解参考」には、天和中の作で前句の初案ならんと註し、また「勢ひなり」の句を出して句形いづれが是か分らぬと言っている。

   甲州郡内といふ滝にて

  勢ひある山都も春の滝ツ魚

  きほひありや氷柱化しては滝ツ魚

  勢ひなり氷きえては滝ツ魚

 文化六年(一八○九)に、旧田野倉村(谷村の隣村で現在都留市)の枕蛙窟運水の刊行した、『水面鏡九十四人集』の巻首に、芭蕉像と瀑布を描き中七を「垂氷きえて」と異なっているが、その上に題句してある。運水の序に「はせをの翁、そのかみ此の地に杖を曳きて、しら滝の絶勝をのこされし」と記している。

「勢ひあり」の芭蕉の真蹟の所在については、竹堂一峨稿の『諺解大全』(寛政年代刊)に「此句、甲斐郡内谷村に白滝といふ滝あり、又田原の滝ともいふべし。此滝にての句なるよしいひ伝ふ。真蹟谷村森島氏の許にあり」とある。

*『甲斐国志』

 『甲斐国志』の草稿である『両谷村』の田原滝の「名所説明末記」に

「はせをの詠あり、いきほひあり氷桂消ては滝津魚 はせを。深川はせを庵焼失の後谷村に来り、高山傅右衛門の家に暫くやすみしことあり。真蹟利八が家に存せり」とある。

 また、『甲斐国志草稿』には、

「桂川の流にして湯布巌上にかかれり、高さ六丈許、田原滝と云、又は白滝と云ふ」とある。

「甲斐国志」は、文化二年十月編さんに着手して文化十一年(一八一四)に完成した。郡内地方の編纂は森島其進が担当したもので、芭蕉の真蹟を蔵した利八は其進の父である。

 其進は父利八没後、谷村に朋来園と名付けた学舎を開いた。現在森島東三家文書として朋来園蔵書画目録が残されているが、その蔵書は和漢書籍、書画の数実に三千五百余点に及んでいる。その中に芭蕉翁の白滝の発句と消息文、芭蕉帖(写)があったことが誌されている。

*『鳳朗句集』

嘉永三年(一八五〇)刊行の『鳳朗句集』には「甲州谷村の西に白滝といへる有、蕉翁此地に遊びて、いきほひあり氷柱消ては滝津魚、其真蹟某が家に秘蔵す」とあり、実際にその真筆を鑑賞したことを述べている。

 田原の滝を展望できる田原神社の境内に、古くから篆額に「芭翁田原湯布之詠」とあって「勢ひあり」の句を細字で刻んだ句碑があったが、惜しくも道路工事により紛失してしまった。

 現在の句碑は、昭和二十六年に当時の文化関係者により建てられたもので、十月十四日に除幕式を挙行し、雲母主宰飯田蛇笏氏の記念講演と句会を盛大に開催した。碑の書は蛇笏主宰のものである。

甲斐の山中に立よりて

  行く駒の麦に慰むやどりかな

 今日の宿を思いながら馬でゆく途中のありさま、或いは宿に着いてくつろぎ乗った馬を見ているさまと解く両説がある。

 貞享元年(一六八四)八月中旬、二回目の故郷伊賀上野へ行脚のため、隅田河畔の草庵を出発ずるに、折から吹く風の声もなんとなくうそ寒げであった。『野ざらしを心に鳳のしむ身かな』この句の「野ざらし」をとって、この行脚を「野ざらし紀行」また貞享元年が「甲子年」に当るので『甲子吟行』と言われている。

 甲斐で詠んだ句として年代も確奥なものであるが、場所については甲斐「さんちゆう」説と、加古坂を越してきた地名の『山中』説との論義がある。

   甲斐山中

山賤のおとがい閉るむぐらかな

 

あたり一面に雑草の葎が伸びはびこっている山の中で、下あごを閉じて無愛想な木樵に逢ったさまを詠んだものであろう。

 宝井其角編により貞享四年(一六八七)刊行した『続虚栗』にある。また暁台が天明三年(一七八三)に甲州藤田村の可都里を訪れた紀行文『峡中之記』には、「よし田、山中、砂走などといへる所は、裾の野走りに家づくりせし村里也。芭蕉翁武江天和の変にあひてしばらく留錫ありしも此さかひや」として、この句「山中にて、山賎の頤(おとがい)とぢる葎かな」の他に「勢ひあり」「雲霧の」の三句があったと記す。

 甲子吟行の際の甲斐における句だが、この句も句意にあっている前書の「さんちゆう」説と、晋風氏等の「中野村の山中」説がある。『甲斐叢記』に大森快庵、保三が附記した翁の句に加古坂(甲斐山中)とある。

 また、『甲斐国志』古跡部の山中村のところに「山中トノミアレバ他所ニテハ地名トハ知ラズシテ唯サル山中ノ作卜思ヘドモ芭蕉谷村滞留ヨリ駿河ノ方へ出ルトテ此村ヲ過シ時ノ作ナランモ知ルべカラズ」とある。

 大月市初狩町に句碑があり、明治二十九年(一八九六)に初狩村の古池連中が諸国の俳人に呼びかけ、当時高名の春秋庵三森幹雄宗匠の筆を得て建設したものである。側に『蕉翁』と刻んだ碑石のかけらがあり、碑背に安永四年(一七七五)東都松露庵の宇が見えるところから、芭蕉没後八十二年目に、その徳を慕う松露庵三世木耳坊烏明(享和元年六月十九日没。年七十六)によって建てられたものと思われる。

  雲霧の暫時百景をつくしけり

宝暦六年(一七五六)刊行された『芭蕉句選拾遺』に「甲州よし田ノ山家に所持ノ人ありしを、今東武下谷菊志秘蔵なるよし、行脚祗法より伝写して出ス」と頭書かあって「士峰讃」の前文とこの句がある。

 『甲斐国志草稿』にも

「芭蕉翁此地ニ遊テ富士ヲ見て雲霧の暫時百致を尽しけり と詠セシモ此地ナリトテ傍ニ碑アリ 左モアルベシ』とある。

 芭蕉が甲州へ流寓して江戸へ帰ったのは五月であるが、この旬の季は秋になっており、天和三年作と断定することは躊躇されると云う説と、また「甲子吟行」の旅の時に「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」の作があった頃のものとも想像される。という説もある。

 句を作った場所についても、河口湖から見たとは限らず、吉田から仰望した吟ではないかと勝峰晋風氏は書かれている。

 

  士峰讃

崑斎崙は遠く聞、蓬莱・方丈は仙の地也。まのあたり士峯地を抜て蒼天をささえ、日月の為に雷門をひらくかと、むかふところ皆表にして美景千変ス。詩人も句を尽くさず、才士、文人も言をたち、画工も筆を捨てわしる。若藐(もしはこ)()()の山の神人有て、其詩を能せんや、其絵をよくせん

  雲霧の暫時百景をつくしけり  (芭蕉句選拾遺)

 【註】

一、西蔵と新疆との境を東西に達らなる大山系を鬼畜山系といい、崑侖山はその中央部にある。

二、中国の仮想上の山。東海中にあって仙人が住み、不老不死の地と考えられていた霊山。方丈も同じ。

三、雲が破れて日月が渡るのを、富士が雲門を開くように言った表現。

四、「荘子」逍優遊に「藐狭姑射之山、有神入居焉(すめる)」とある。北海中にあって神仙の住むと考えられていた山。

                                (『校本芭蕉全集』抜すい)

 「雲霧の」句碑は、河口湖畔の産屋ケ崎にある。中央に『芭蕉翁』と大書し、その左右に振り分けて句が刻まれ、側面に「川口連中」とある。建設年代は化攻期と云われている。なお、同じ句を刻んだ句碑が清水市鉄舟寺にもある。

 

芭蕉「松風の落葉か水の音涼し」の句は谷村での作か

 

 秋元家は、谷村から川越、山形へと移封しているが、山形市薬師町の柏山寺(天台宗)に芭蕉の句碑がある。

   松風の落葉か水の音すずし  はせを

 これは高さ二尺三寸、巾六寸ほどの自然石で、それに安山石の台石がある。この碑の傍らに添碑があり

「松風の真蹟は、祖翁行脚の折から、武州川越秋元家の臣高山某方にて客中吟なりしを、奉安寺が乞に任せて染筆し給ふ所なりと。そを此所に移りても持て来りて久しく伝へしに、去ぬる 年上州に移転の砌、一ト町吉右衛門へ譲られしとなり、こたびはせを翁の葉風広く後世にも薫らんことを顧ひ、且つは謝恩のはしにもなりなんとおもふ余り、奴某ら所望せしに主のゆるしければ、則柏山精舎の松下に移す所とはなりぬ。

    明治三年庚午四月

                          「南山選寿 俳弟敏速」

 

 とある。この句は、安永五年(一七七六)蝶夢編類題別「芭蕉発句集」には見られるが、創作年代は不明である。

 明和七年(一七七〇)麦水編「貞享正風句解」第四巻に『松風の落葉か水の音清し』とあり、

 麦水はこれに「心耳山間の風に浸す、かの字深意」と附記している。また「芭蕉句選拾遺」にも載っている。

 高木蒼悟氏は、もし此の句の制作が麦水の見るごとく貞享、元禄時代の作とすれば、秋元侯も高山氏も谷村時代であるから、川越秋元家の臣高山某方に客中の吟という事は信じられない事である。芭蕉は元禄七年十月に没している。秋元侯が谷村から川越へ移封になったのは、芭蕉没後十一年目の宝永元年であるから、芭蕉が川越に慶涛を訪ねたことは断じてない。

 もしこれが(谷村客中)の作というなら、麦水も貞享時代の句と観ているので、首肯されぬでもない。それにしても麦水はこの句の出自を何によったのであろう。元禄或はそれ以前の載籍によったものか、句調によって貞享年代のものと観たものかであろう。」と誌している。

 つまり、「武州川越秋元家」でなく、「甲州谷村」の誤りである。

 奉安寺は秋元家の菩提寺で、谷村では秋元素朝が寛永十三年(一六三六)に建てたもので、秋元家が移封するたびに新領地である川越、山形、館林に移築され明治維新の際廃寺となった。芭蕉が染筆したのは磨育邸に逗留した時に、谷村の奉安寺の乞により染筆したのであり、それ以外は考えられない。

 「上州へ移転の砌」とは、弘化二年(一八四五)に館林へ移封のときをさしている。『吉右衛門』は豆腐屋であったという。「譲られしとなり」は、松風の真蹟でなく、高山家の邸内に建てられた碑石であるらしい。その碑を送寿が吉右衛門に懇望して柏山寺へ移建したものである。この芭蕉の真蹟を泰安寺が秘蔵していたものを麋塒が屋敷内に建碑し、それを秋元家の移封の際、高山家がそれぞれの転地に運んだものではないだろうか。

 谷村における高山邸は山裾にあり、秋元素朝時代に開削した谷村堰は、城下町を縦横に流れており、寝ていても水音は枕下を流れるごとく響いてくる。

 句意は「峰の松風は折しも松葉落を思はせ、清流の音は清らかに響きて涼しげに聞ゆる」との意味で、この句を味うほど芭蕉が深川で焼け出されたかなしみを、山峡の麋塒邸において味った哀愁をしみじみと感じさせる。

 松風を聞き、山峡の水音が響く谷村での作であると確信するものである。

 

高山麋塒所蔵の芭蕉遺墨

『都留市史』通史編5節「人々の教養と遊芸」による・一部加筆

 

 白亥の『真澄の鏡』に発表されている芭蕉翁の遺墨や、本式俳諧之次第、作法の伝書等は、芭蕉関係を知る唯一の貴重な文献といわれ、傑作揃いの逸品であると激賞されている。高山家のこれらの遺墨は、惜しくも後年に散逸し、芭蕉図録や遺墨集等にその真蹟の写真が掲載され、伊賀上野の菊本氏の蒐集品に麋塒旧蔵の短冊四枚が発表されている。

 

  馬ぼくく我を絵にみん夏野哉  桃青

  鶯を魂にねぶるかたはやなぎ  桃青

 

『虚栗』には「うぐひすを牌にねむるか嬌柳」とある。嬌柳はしなやかな柳のことで、その眠れるがごとき様に鶯を思い寄せたが、荘周が夢に胡蝶になった故事(荘子・斉物語)を踏まえている。

  三ケ月や朝真の夕べつぽむらん 桃青

『泊船集』「虚栗」にある。満月となりゆく今の三日月は、言わば朝顔が夕方まだつぼんでいるといったようなものだとの意味である。

  夕顔に米つき休む哀かな    桃青

「続の原」等には「昼顔に米つき涼むあはれ也」として出ている。真夏の暑さに米つきをしていた農夫が昼顔の下で休んでいる姿を見て詠んだものであろう。

 

芭蕉の糜塒宛書簡二通

 

 芭蕉句集(朝日新聞社)抜すい

 東京の安藤兵部氏の蔵として『芭蕉図録』に写真版が紹介され、古くは『真澄鏡』に出ているもので、天和二年五月十五日附松尾桃青名義で高山傅右衛門宛である。

 甲州谷村の糜塒から連句の巻を送って批判を乞うたのに対し、連句作法に関する心得を説き、糜塒の参考に供する意味で才丸、其角、芭蕉の付句を附記している。この六連の付句は他に所見がなく、本簡を通じて初めて知られるものであった。新風体が目鼻立ちを整えてゆく頃の俳壇状勢が察知されるとともに、一つ書した個所から芭蕉の俳諧観が伺がわれるなど、資料価値のゆたかな書簡といえる。

 糜塒の俳諧が「古風のいきやう多く御座侯而一句の風流おくれ侯様に覚申候」と苦言を遠慮なく述べ、それと言うのも「久々爰元俳諧をも御聞不被成」と推諒している。

 「爰元」は江戸のことをさし、遠く国詰家老職であった糜塒が俳風の変遷に通じなかった頃の手簡と思はれる。「校本芭蕉全集」では、この執筆年次についていろいろと考察され、一応天和二年としている。

 『真澄鏡』のいま一通は、消息の様式でなく、秘事口訣とされた作法の伝書である。題して「本式俳諧之次第」とある。

 糜塒が本式俳諧百韻の形式について文書で教示を望んだのに対し、懇切に説明的伝書を送ったもので年代は不明である。

 

高山傅右衛門(糜塒)宛

 

  五月十五日高山傅右衛門様

(天和二年五月十五日付) 松 尾 桃 青 書判

 

貴墨忝拝見、先以御無為(に)被成御坐珍重(に)奉存候。私無異儀罷有侯。偽而御巻致拝吟候。尤感心不少候へ共、古風之いきやう多御坐候而一句之風流おくれ候様ニ覚申候。其段近比御尤、先ハ久々爰元俳諧をも御聞不被成、其上京大坂江戸共ニ俳諧殊之外古ク成候而、皆同じ事のミニ成候折ふし、所々思入替候ヲ、宗匠たる者もいまだ三四年巳前の俳諧ニなづミ、大かたハ古めきたるやうニ御坐候ヘバ、学者猶俳諧ニまよひ、爰元ニても多クハ風情あしき作者共見え申候。然る所ニ遠方御へだて候而此段御のミこミ無御坐、御尤至極(に)奉存候。玉句之内三回句も加筆仕候。句作のいきやうあらまし如比ニ御坐候。

 一、一句前句二全体はまる事、古風中興共可申哉。

 一、俗語の遣やう風流なくて、又古風ニまぎれ候事。

 一、一句の細工に仕立侯事不用(に)候事。

 一、古人の名ヲ取出て何々のしら雲などと云捨る事、第一古風ニて候事。

 一、文字あまり三四字五七字あまり侯而も、句の響き能候ヘバよろしく、一字ニても口ニたまり候ヲ御吟味可有事。

      子供等も自然の哀(あわれ)催すに

     つばなと暮て覆盆子刈原(いちごかる)  才丸

      賤女とかゝる蓬生の恋         才丸

     よごし摘あかざが薗にかいま見て

      今や都ハ鰒を喰らん

     夕端月蕪ははごしになりにけり      其角

      といはれし所杉郭公    

     心野を心に分る幾ちまた         其角   

      山里いやよのがるゝとても町庵

     鯛売声(うる)に酒の詩を賦ス

      葛西の院の住捨し跡

     ずいきの声蕗壺の間は霜をのみ

            『校本芭蕉全集』(角川書店)抜すい






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最終更新日  2020年11月29日 05時21分11秒
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