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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年12月08日
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カテゴリ:甲州街道

『甲州夏草道中記』 夏草北山道中

 

第一日(干塚・敷島・登美・穂坂泊まり)

 

  昭和45年 山梨日日新聞社

  一部加筆 山梨歴史文学館

 

夏草北山道中は八月二日国民身心鍛練期間の第二目に、四泊五日の旅に出発した。

起点は西山梨郡干塚村字塩部の開の地蔵前である(甲府市)。

午前八時、甲府ワンドラーの岩田一郎氏指揮により国民儀礼の後、結団式を挙行した。

一行は講師団合わせて三十二名、途中に続々と参加して第一夜の穂坂村へ到着した時は四十七名という盛況ぶりとなった。

 

金剛福聚山法泉寺

道中の第一歩を印した甲府和田町の金剛福聚山法泉寺は、往時は「小松の法泉寺」として、甲府五山の一つに数えられたが、明治末期から練兵場広場の裏に隠れて世人から忘れかけられている京都妙心寺の末寺である。本尊は弥勒尊、開山は夢想国師である。

今から六百余年前後醍醐天皇の元徳二年、わが甲斐の国守武田九世の主、陸奥守信武が月舟周勲禅師に帰依し、倶に協力して創立したという由緒があり、信武は延文四年七月十三日に卒し、墓は現在経堂の近くに在り、五輪塔が存している。又それに隣接して武田勝頼の墓がある。天正十年勝頼は天目山で最期を遂げた時、織田の配下たる滝川一益の軍は、勝頼の首級を、善光寺に滞陣中であった織田信忠の実見に供した後、更に信州にいた信長、市川にいた徳川家康の実見に入れ、最後に京都の六条河原で晒し首にした

のを、同寺の快岳和尚が貰い受けて葬ったと伝えられており、今は両墓碑とも問う人心なく苔蒸し、一

行は昔を偲んで参拝した。

同寺住職は公用のため留守。信武、勝頼両公事績は村松志孝講師によって説明あり、同寺を辞して、いよいよ昔時の穂坂路に夏草の雨しとど濡れたるを分けながら大宮湯村へと急ぐ。

 

  甲府市湯村

 活気ある温泉郷の入り口として甲府温泉の傍らの円墳たる「硝煙庫」を見学した。

昭和十年頃まで陸軍省所有地に編入されていたのであるが、省より千塚村に払い下げられ、ついで甲府温泉経営者松田氏に移ったもので、甲府温泉の厚意により、鍵を開き、石室の中に入れば、奥行二十四尺(七・二七メートル)の窟内は暑さを忘れる涼しさだ。一時此処で椎茸を人工栽培したこともあるが、今は物置同然となっている。

「かかる古墳の創始時代は判然せぬが、宗教的に火葬の礼が始められた結果、廃止されていることは判然しているので、全盛期は仁徳天皇より平安時代である。この硝煙庫はその全盛時代につくられたものたることは疑いない、本県における円形墳中完全に存する一つである」

と、桂川七郎講師は説明した。

徳川時代煙硝を蔵したので現今の名があるわけだが、高さ二十尺(六・〇六メートル)周囲二百二十尺(六九メートル)の円墳は、西が大宮村、南が千塚村、北が昔の相川村、(現在甲府市和田町分)の三角地点に当たっているという。 

 

八の宮良純親王 塩沢寺 厄地蔵

それより湯村に進めば、明治温泉の築山に後陽成天皇の第八皇子、八の宮良能親王が二度目の配流の蹟碑がある。親王は政治上の問題にて寛永二十年十一月、天目山に配流の身となられたが、深雪のため、この湯村に諦居なされたもので、更に八ケ岳嵐を偲び相川村積翠寺に十二年間、その後上野村薬王寺に五年間蟄居されて京都にお帰りになったものである。宮の配流の生活を偲びながら、明治温泉の接待を謝し、福田山塩沢(えんたく)寺を訪う。旧正月十四目のみ耳が間こえるという厄除地蔵尊を祀る堂宇は既に数回講師桂川氏の研究するところであり、また此処の境内湯村山の石彫美術品の散々においても裕に一日の郷土史研究地である。

千年前の藤原時代の形式をとり室町時代に造建された堂宇は桂と貫が当時のそのまま残されているので修理さえすれば准国宝ものと桂川氏の讃える言葉を聞き入って飾り気のない、地味な、どっしりした建築のよさを味わって、すぐ傍らの板碑を見学する。

 

 板碑

貞和六年在銘の日本でも大きさでは他にはない板碑であるが、南北朝時代、志摩の庄(和田から千塚一帯の庄)主の供養のため六百年の昔、多くの人々が結集して建立したものと思われると桂川、塩田義遜、植松又次各権威揃いの講師が一行に説明しつつ、更に引き続き風化されている石面の文字を研究した結果「講衆」「結集」の文字が刻され、また右側面に「大工」散人の姓名が遅刻されていると想像されてきたようである。他日引き続いて研究すると同氏等は意気込み、また宝篋印塔、無縁塔等の実物に移って説明した。

 

加牟那塚

既に時刻は十時半になるに及んで一同、行を急ぎ、湯村山を下山、秋山千塚校長より千塚村の現状を聞き、田圃道を加牟那塚へ――此処は現在満州移民した須藤義虎氏の所有地で、高さ二十四尺(七・二メートル、直径百七十七尺(五三・六メートル)、有段円塔兜状の全面すべて桑畑化しているが煙硝庫と同様大岩石を天井に張り、奥行五十五尺(一六・六メートル)という石室を南面に口開し、すこぶる雄偉、上代貴人の墳墓として壮大なる様は一同を圧し畏怖すること一入(ひとしお)のものであった。付近には埴輪の小破片が散在するのが見られ、湯村山に遣る先人が築いた文化と言い、この辺一帯は、かかる古き時代からの歴史的展問が繰り返されて来たことを結び合わせて、現在の干塚村は今後どういう方向へ進んで行くのであるか。秋山樹好校長に聴けば、次のような話をされた。

 

 明治以後の千塚は、秋山樹好校長 湯村温泉郷

八年に名主制を廃し、戸長役場を手塚の大阪という処においたが、十二年に戸長役場を廃し、大宮村と合併、二十一年に千代田村を加えて三カ村で羽黒へ役場を置いたのであった。二十二年には千代田がまた離村し塩部村と合併しており、戸数七百八戸、人口四千七十人、耕地は手塚村の方が比較的広くて、百八十三町九反(一八三・九ヘクタール)、大宮が百四十二町二反(一四二・二ヘクタール)だ。大宮村の田宮、羽黒は純農村だが、干塚は幾分商業、勤め人を含む農村だ。塩部部落は甲府中学校、御崎神社、袋町脳病院、十一屋醸造場、羽黒国民学校、甲府工業学校等を含んで甲府に接近した発展形態を持ち、湯村は昭和九、十年以来高温度温泉掘鑿から湯口十一個、新興温泉郷に発展し、歓楽郷とまで称されているのであるが勤勉、素朴なる村民の性質は決してこの風に染まらない等の諸点を総合して、農村生活体、甲府接近生活体の真二つにした両面を持っていることによって甲府併合の歴史的運命を持っているのではないか。云々

 

荒川増水によって橋が流失

予定コースに入っていた山宮から敷島村牛句へ荒川渡渉で進むことは、荒川増水によって橋が流失。やむなく山宮を割愛、千松橋から敷島へと、道中は進めば、千松橋には、敷島国民学校長窪田徳造、首席訓導一之瀬勘次、樋口祐策氏等、国婦会長横山佳代子夫人が出迎えており、秋山、大柴同氏に謝して別れ、敷島へと一歩を踏み入れた。

 

 敷島町

敷島村は昭和二年福岡村と松島村と合併、敷島村と名乗って半農半面の生活感が続けられているが、前女子青年団長横山佳代子夫人、並びに小宮山梅治さんの時代に女子教育に力を法ぎ、現在の新組織の青少年団においても引き続き女子練成として礼法に意を注いでいるという。翼賛会県支部常務委員の三井甲之助氏も村長に就任以来、数回付属学校(玉幡、敷島、竜王、吉沢、睦沢、清川)の教員を集めて翼賛精神教導に当たったりしているので、特に音楽や文字の使い分け等においては博学の三井村長の薫陶が侵透し、今では村常会(毎月十五日)部落常会等においても、正しい言葉の修練が積まれていることもゆかしい話と、道々村民から聞きながら十一時二十分、敷島小学校に至れば三井校長をはじめ、学校教員多数の出迎えを受け、道中一行はここで汗を拭いつつ接待のお茶に咽をうるおして、一ノ瀬訓導より、この村の口碑伝説を聴いた。

 

馬の伝説 馬頭観世音

さすがに関屋往還の宿場として往時全盛を極めた荷馬車の往来を偲ぶ馬の伝説が相当残されていることは、一行の興味をそそった。境部落の中程に馬の立て場に格好な所があり、亀沢部落の方面への上り馬や、甲府等への下り馬は皆此処で一休したが、不思議に馬を休めると不吉な事があったり、馬が怪我をするか、狂死したりした。村人が相談して神社に窺うと夢枕に休み場の下に馬頭観世音が埋まっている。それは往年の水害の時に埋まったもので、据って見ると一枚の板地蔵が現われ、早速祀ると祟りがなくなったという話や、牛句部落の燈明寺の奥の院(真言宗)は天正年間織田の兵火に遭ったと云われ、観世音菩薩を安置して木馬を置いたが、この木馬が毎夜飛び出して作物を荒すのでこれを鎖で繋いで馬頭観世音として旧暦の二月の初午に祭典しているという話などその主なものだ。

 

村社八幡神社 大欅

 やがて真昼近く、曇り空ながら蒸し暑き中に、鍛練歩行を続ける北山道中は、学校をあとに村社八幡神社に参拝した。境内には歳月古く貞享年間(約三百年前)からと伝えられる大欅があり、その根元に一基の碑がある。当時間村島上条、外二部落の開発の碑であると伝えられ村民から崇敬されているが、桂川、植松両講師は早連碑面文字の調査にとりかかったところ、あきらかに何人かの供養のために建てた板碑で、室町時代のもので、釈迦二尊が刻まれていることは分ったが他は判然しなかった。

八幡神社から約一町余にして、右折する地点に一里塚の跡がある。関屋往還の北側江島上条、南側は中下条という両側に高さ一丈余(三・三メートル)、広さ十坪(百二平方メートル)の塚があったと伝えられるが、今は開墾されて一面の青田に稲の成育の盛りである。

徳川時代の一里塚とは違い武田古城跡から一里(四キロ)だと言い、武田時代軍用にしたものという。 

 

天狗沢部落 昔時鋳物師の部落 清沢寺

一里塚を過ぎて、坂道を登りつめると天狗沢部落だ。昔時鋳物師の部落と云われ、名高い奈良大仏の壁側に鋳物工の名を連ねたその中に、甲斐国天狗沢村清水彦右衛門の名があったほどだが、大永年間荒川が牛句で決壊し洪水の大害を蒙り大部分天狗沢高地に移住し、あとは甲府横沢、鍋屋町(新青沼町)に移転したと村民の語り草である。

今その面影は知るに由もなく一面の桑畑、養蚕本業の生態だ。清沢寺に立ち寄れば、間寺に一行の来るのを遅しと待機していた県議小屋忠子氏(韮崎)をはじめ、住職長田準道、区長長田吉国、檀家総代今村健二郎、樋幹雄、隣保組長相川義仁氏等外六組合員は前夜、部落常会を開いて一行の歓迎を協議したという熱心ぶりだ。

早速鑑定を乞われ、各講師は同寺宝物、虚空蔵菩薩(高さ約一尺=約三〇センチ)について研究、天長と在銘はあるがはるかに下って室町時代の作と鑑定した。

 

登美村 とみむら 国際電気通信株式会社甲府中継所 登美国民学校

それより道を急いで登美村危地に午後一時十五分入る。

竜泉院、竜蔵院、青竜寺という竜の字の寺三寺あり竜地の名称の因と、村の入口に迎えた長田良治登美村長の話である。

まず北条氏康に嫁ぎ病弱にて離別後二十七歳にて世を去った武田信玄の息女紅梅院の跡に立ち寄り、ついで登美台地に昭和十三年出現した一偉観たる近代建築物国際電気通信株式会社甲府中継所を見学、所長宮川広次氏の案内にて所内の通信科学を誇る各種設備の説明に古き探史の面のみ多かった今迄の世界から一足飛びに近代科学にぶっつかった不可思議な思いに満たされながら、一同驚異の見学を終わった。東京、中野、柏原、大月の各中継所の次に、此処の中継所があり、遠く海底を渡って日満の声が増幅してつなぐ、設備器具の操作に、特に一行に参加している満州国派遣留日教官馬宝竜(奉天)揚黄成(錦州)罹仁(古林)天墨林(安東)の四氏は、深い興味と感動とを顔に現わし、終始熱心に見学したのも、またうなずかれる気持であった。聞けばこの中継所が出現して以来学童等の通信工学への知識も高まっているということだ。

 やがて登美国民学校に午後二時半到着、一同リュックをおろして、女子青年団員の心づくしの接待で昼食をしたためた。道中起点出発以来参加した登美校長浅川耕三講師並びに長田村長より村の現況について講演あり、三時過ぎ、はるばる登美学校まで迎えに出てくれた穂坂村の平賀文男氏や講師大森明氏も加わって、役場、学校に別れを告げて出発した。

 

登美台地 水との戦い 御牧

茅ケ岳の据をひき、火山帯の影響を受け、安山岩の粉末である赤土(粘土)に蔽われ、成分も硫酸アルミニュームが大部分という耕地としては甚だ痩地である上に、高燥水利の使悪く、冬期は西北風強く、このため柱まで土で塗りこめたという家屋の防風様式さえ往時とられて来たものである。

八ケ岳裾野に於ける諸村は分散的に川筋に添って聚落が営まれて来たのであるが、登美高地は、それらと反対に穂坂御牧時代或は甲斐源氏の政治的、軍事的聚落として発展して来たものであった。それだけに水に対する欲求は、村民の最も深く苦悩して来た歴史に繋がれているのだ。寛文六年より天和元年に至る十五年間をもって完成した塩川を取り入れた堰を始め、村内に造られた七ツの貯水池等もそれを物語るものだが、未だに田植季節に水不足を告げる年もあり、さらに貯水池増掘の計画もたてている。道路の掲示板に「祖先感謝の日」として、月に「先輩の苦心ある今日の建設に先ず感謝致しましよう」と常会が触れを出しているのも道中一行の胸を打つものがあった。

菖蒲沢に到る頃用が降り出し、赤土の粘土の粘り愈々度を加えて坂をのぼるのに悩まされたが、四時菖蒲沢部落に坊沢を越えて到着、昔時法印であったという三村喜治氏方に伝わる不動明王(丈一尺=三〇センチ)を拝観、室町頃と思われる逸品であった。かくて法泉寺(日蓮宗)に立ち寄り釣り鐘を調査の上、浅川校長と別れて穂坂村三ツ石部落頂上に到着したのは午後五時十分。






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最終更新日  2020年12月08日 06時49分36秒
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