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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年12月08日
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カテゴリ:甲州街道

『甲州夏草道中記』 夏草北山道中 穂坂村

 

昭和45年 山梨日日新聞社

  一部加筆 山梨歴史文学館

 

此処はまさに頂上という呼称にふさわしい、登美高地よりさらにのぼりつめた台地で振り返る一面は見渡す限りの古の「穂坂御牧」の面影が想像されるなだらかな傾斜面に広々と桑の青畑を続けているのである。頂上は今三ヵ年計画によって農産物資源開発開墾が進められている。三年目に二十町歩(二〇ヘクタール)開墾するのだが、本年度がその三ヵ年目に当たり、既に松林十五町歩(一五ヘクタール)が畑に聞かれた。これは全部私有林、三ツ沢区二十五名の地史が集団活動によって開拓、今年はじめて穂牧村特有のほうとうの原料小麦を反当たり一石四斗(一九万五九キログラム)程度収穫した。そしてその間作に一面の甘藷と馬鈴薯が栽培されてある。五、六百貫(一八七五~二二三〇キロ)の収穫予想ありと案内の平賀文男氏が語った。

此処は畑中に巨大な石が三つ突起して、日本武尊(やまとたけるのみこと)ご通過の際の腰掛石と伝えられている。折り柄三枝

善衛村長を先頭に志村有、横森祐二郎、同保義、平賀久吉、西野高治、中沢竜男各村議、志村幸男警防団長、名取瀬平農会長、平賀匡太郎、保坂繁次郎氏等が出迎えにのぼって来たので、道中第一夜の夢を結ぶ宿泊地三ツ沢へと急いで下る。行く道々の田植えを終了した田は、水量満々として、側の濯漑水路には水声絶えない珍しさである。穂坂付は登美村と同じく、昔時より不足の水と闘いつつ食糧増産を続けて来たのだ。昭和八年には植え付け不能田四十町歩(四〇ヘクタール)出た程で、十四年には七月末日まで田植えの敢行を計ったが不能田十町歩余(一〇ヘクタール余)を生じた。収穫も五割を減ずるに至り、昨年は前年の体験によって尋常の手段では覚束なしと考えた村当局では、県の指導の下に上流朝神付へ労力を移出して或は水利の調整等をなし、植え付けを強行した結果、七月二十八日の天水田一町歩(一ヘクタール)を余したのみで他は全部植え付けを完了するに至ったのだが、養水が潤沢でないため収穫時には結局七割減であった。それが今年は多雨多湿、道にも溝にも水が溢れ、流れる水音が道々高く、溢れて流れるということは穂坂村はじめての一風景で、もち論、田植えも全耕地が七月十九日を以て終了して、今度こそ増産だと意気込む気色があふれているのだ。三ツ沢部落につき、一つの太溜池にのぼって見れば現在は湖水の水の如く豊富で、低地の村で多雨を嘆くときには穂坂付では喜びが湧くのである。

 当村は東西一里十八町(五・九六キロ)、南北一里二十四町(六・六二キロ)面積約二千町歩(二〇〇〇ヘクタール)のうち田畑百二十五町歩(一二五ヘクタール)畑四百四十五町歩(四百五ヘクタール)この高燥なる耕地の営農に、先人の営々苦心して開墾した朝穂堰がある。慶長年間茅ケ岳の南端登美の高地へ渋沢川を誘導した大岱堰(おおぬたせき)が開館され、寛永年間には茅ケ岳の西北据野に於いて塩川を引水、浅尾堰、或いは両村堰の渇水を見るや穂坂の住民は水への欲求を強めたが、生計に追われてこの事業に専念する事が出来ずにいたところ、杉村七郎右衛門か浅尾堰を掘り継ぎ三ツ沢楯無原を通水したが、これは三ツ沢中程で日ノ城鷹巣沢の崩壊が修理出来ず遂に廃堰となるに及び穂坂住民の欲求と渇仰は一段と高まり、たまたま柳沢𠮷保が甲斐に封ぜられたので正徳六年、三ツ沢、宮久保、三ノ蔵(穂坂の各部

落)総代十五人は血判約定の固い決心で嘆願六度、入れられ実地踏査となったが、過大の経費を要する割合に効果があがらずと見なされた。この時村民の窮状を察し起ったのが郡代山口八兵衛政俊で、藩主吉里(吉保の息)に強願し、享保三年二月許可された。そして三月十七日最初の工事の鍬が下ろされたが、労働力に湛え得る老若男女を問わず村民の総出勤で、七月までに八巻より正楽寺(南アルプス市小笠原)まで完成したが、風越部落三百間の据り貫き穴はなかなか抜けず、七月三ノ蔵で大六天社を勧請、三ツ沢で楯無原へ神明社を勧請、同月三カ村連合して風越穴出口には虚空蔵菩薩を勧請、八月宮久保部落で鳥居原へ虚空蔵菩薩を勧請するなど神仏加護の人心作興が行なわれた。しかし日日作業に当たつたが岩盤掘鑿の

難関を突破出来ず「工事中絶なら総代十五名を磔に処す」等の事もあつたが、遂に団結の力強さが征服

し四十五日間を費やし隧道は貫通されたのである。これの君恩の徳は、現在柳沢神社(道路下)として碑に祀られている。

 

 穂坂の古代

道中一行は、この水の歴史の半面、古代先史人の生活の穂坂の姿を、既に夕閤せまる穂坂国民学校に到着して見た。去る二十八日より本格的に校庭を発掘した大山史前学研究所が、巨大な、今までかつて日本で発見出来なかったほとんど完全な住居跡を掘り当てていたのである。更に学校の教室には、これまでに、校庭から発掘した土器の多数を陳列して展観に供してくれた。中に高さ三尺(九一センチ)もある甕、或は把手、石斧類、土器はいずれも大きさ、質において珍重すべきものばかりである。教室内は既に暗かったが、一行の熱心な希望により大山史前学研究所の井出佐重氏(清春村 長坂町)は次のように発掘の結果について語った。

 日本で最も古いという縄文土器は中期に属するものであるが、この辺から沢山発掘されたのは後期が多い。線の太い、蕨の様な芸術的改作香る香炉の様なもの、これで火でも燈したのかも知れない。高さ二尺(六〇・六センチ)以上の甕にしても珍しいものであるが水を入れた形跡はないと思われる。掘り当てた住居跡と対照する時、こうした芸術的なものを部屋へ置いていた彼等の生活が想像される。人形(土偶)などもある。これらの研究で当時の彼等の衣服もまた判るような気がして来るのだ。石製の錘等が発掘され、山地に釣りの道具として狩猟時代の彼等の生活は経済的に富んでいたと見え生活のゆとりが感じられる。また穂坂に住んでいた民族の特徴として縄文土器の中期を追い越して後期に移行し、雄渾な線を持つ芸術を生んだ。従って中期の厚手式がなく後期の薄手が多いのだ。

 道中の第一夜は三枝村長、平賀文男、平賀桓祀氏方並びに役場楼上に分宿したが、夜の食事は、女子青年団の心づくしの代用食、名物の「ほうとう」に舌鼓を打った、山付地として一日一回(夕食)の主要食に古くからしているこの村では、ほうとう祭りが旧来から行なわれていることも見のがし難い一つである。

 

「粉ぼうとう」を食す。

△ 宮久保部落、旧毎月十八日  観音講

 △ 三ツ沢部落、旧七月十日   観音祭

 △ 三ノ蔵部落、新七月二十一日 火六天祭

 △ 長久保部落、新七月二十四目泥岩祭(火祭り)

 

粉ほうとう 縁故節 

粉ぼうとうは味噌汁のかわりに小豆または、ささげの餡汁を用いたものである。

 その夜の座談会は穂村民と道中一行打ち混じて国民学校教室で開かれた。

役場の保坂瀬平氏より、「朝穂堰」について説明、郡農会技師根岸長英氏より「農業について」の話があった。続いて古くから伝わる『縁故節』について平賀文男氏より紹介と共に韮崎町から特に座談会へ披露のため出席した尺八の清水逸映氏、美声の名取いく子さんによって唄われ、平賀氏によって創作された

「炭焼く煙りも伊達には立たぬ八紘一宇と空に書く」

というような歌詞数篇について同村青年団男子部横森喜理ほか五人、女子部横森波江ほか数名によって唄われ、歓を尽くして閉会した。






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最終更新日  2020年12月08日 06時51分42秒
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