カテゴリ:甲州街道
『甲州夏草道中記』 夏草北山道中 風越隧道に朝穂堰苦闘史
昭和45年 山梨日日新聞社 一部加筆 山梨歴史文学館
第二目(穂坂・小笠原・上手・朝神泊まり) 道中第二目目(三日)の朝、宿舎三枝善衛村長、平賀文男、平賀恒祀氏及び役場に分宿した一行は学校庭に午前七時集合、前日夕刻のため足かに見ら牡なかつた大山史前学研究所発据の先住民族住居跡――直径七・五メートル、炉跡二個、柱のあと十二個ある――の巨大さに驚かされた。校庭の関係から石膏にとってあとは埋めて保存する。三枝村長の案内にて地続きの倭文神社に参拝した。神代の昔倭女神、天羽槌姫命が首長となり、殖産興業のため朧械技術を国々にご伝授なされた際、穂坂の地にもご滞留ありその跡を神社として介を奉祀したと伝えられる延喜武内社倭文神社全国十四社の内の一社である。 境内には天然記念物朝鮮五葉松(高さ百一十尺(三九・六メートル)、目通り十三尺(四・二メートル))が見上げると松林の中に一つ空を圧する程だ。往時、朝鮮より渡来した人が薬物として携帯して来ていた 実より成長したという神社と共にまた穂坂の古さを知る一つである。 やがて宮久保法泉寺を訪い、裏山の石棒(長さ三尺一寸=九四センチ、胴廻り二尺二寸=八六・七セ ソチ)の大きさに驚く。三枝村長は恐らく日本一だろうといった。 それより急坂をのぼること二、三町にて往時の北出筋の分岐点に立つ。細い道路を挟んで周囲は松林、回廊は桑畑の青さがひろがっている。道を北に進めば逸見筋三ノ蔵、日ノ城部落に到るのだ。桑畑中に十三塚が並ぶ。その一つ行人塚は土地を持つ横森某、先祖の墓と称し、一年一回横森姓の人達が集りお祭りを行なうというが、他はいずれも無名だ。 この台地より遥かに地面に連なる山肌に唯一つ官有地(七百町歩=七〇〇ヘクタール)が残されている。穂坂牧の名残り? を遠望しつつ三ノ蔵へと下る。午前九時三ノ蔵宝積寺に到着。門前に立つ石幢(六地蔵)の形態の美しさに驚いた桂川、植松両講師が測定すれば、全長八尺八寸(二六六・六センチ)、幢身周囲五尺四寸五分(一六五・二センチ)、宗様の建築を取り入れた鎌倉期か、乃至下っても室町初期を下らざる作品と植松講師の鑑定報告がなされた。 県下に十六ヵ所程この六地蔵があるが、欠損したもの多く完全なるものとして、第一に指を屈する事が出来ると道中初の収穫をあげて、足取りも軽く、朝穂堰開墾の最も苦心、村民一体の共同体勢を発揮した隧道見学に、夏草の繁みを分けて、坂また坂を上下しつつ午前十一時に隧道入口に達した。此処には君恩を忘れずと柳沢𠮷里を祀る碑と共に貫通を祈願した虚空蔵菩薩を祀る石祠がある。一休しつつ三枝並びに植松講師より朝穂堰開墾の歴史を聞き、頂上(小字牛が馬場)に到着、海技七百五十メートル、穂坂と小笠原の村界たる六本松(幹か二本にした赤松、樹齢百年、穂坂御牧の守護神という)の下にて汗を拭いつつあれば、丁度小笠原の出迎え、中沢弥、松坂長蔵両氏が見えられ、三枝村長、平井校長、曽雌、中沢の穂坂村の人々が交驩、道中一行はけ野口山日社長の謝辞と共に穂坂村の万歳を唱えて、小笠原村へ踏み入れた。時に午前十一時二十五分である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年12月08日 06時53分48秒
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