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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年12月30日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

武田信虎の息女 醒醉笑(安楽庵策傳) 

 

甲斐の國武田信虎の息女を菊亭殿へ契約ありしが、

いまだ聟入りなきさきに、

信虎公、菊亭殿  

むこいりをまだせぬさきのしうと入きくていよりもたけた  入道  

 

下御霊社司板垣民部談 遠碧軒記(黒川道祐) 

 

(前略)さて社家は代々春原なり(中略)これが中絶の時に甲斐の板垣信方の子、(信方は病死、子の彌次郎者為信玄被レ害て跡絶ゆ)同彌次郎が遣腹の子が、母とも京に流れ落て後は丹波に閑居す。この子成長して南禅寺の少林寺へ遣し、出家して正寅と云。これを室町より肝煎してをとして社司とす。これが中比の社僧寿閑の親なり。云々 

 

近代俗書真偽 甲陽軍艦 蘿月庵国書漫書(尾崎雅嘉)

 

(前略)百年以後にかきたる印行の記録、

諸家よりいでたるは、各自の事故連続せざるより、

すたり行になるこそ残多けれ。

甲陽軍艦あやまり多しといへども、質にして事実多し。

しかし是は甲州流、北条流、山鹿流など、

小幡氏の跡をふめば今にすたるに、

是さへ武田三代記出るになりぬ。

甲陽軍艦にあはすれば、通俗のもの見るやうにて、

二度とは見るべくあらず、云々 

 

馬場三郎兵衛 閑憲瑣談(佐々木高貞) 

 

(前略)實は本国は三州、生国は甲斐にて、

即ち物奉行馬場美濃守が妾腹の末子、

幼名三郎次と申す者にて候、

領主(信玄)逝去の後、世継ぎ(勝頼)は強勇の無道人、

其上、大炒、長閑の両奸人、国の政道を乱し、

諸氏一統疎み果候始末は、

甲陽軍艦に書記したる十双倍に御座候。

され長篠の合戦の節も、先主以来の侍大将ども、

彼是の諫言を一向用られず、

美濃守を始めとして覚えの者ども大勢討死。

夫より段々備えも違ひ、終には世継も滅亡致され、

其頃私は十歳未満の幼少故に、兄にかゝり罷在候へども、

甲州の住居も難叶、信州に母方の由緒有之故、

山本勘助が末子、八幡上総が甥等申合、

三人ともに、信州に引込、

往々は中国へ罷出、似合敷奉公をも仕らんと、

年月を送り候所へに不慮難波鎌倉鉾楯にて、

難波籠城是天の与えと手筋を以て間も無く城中へ召出され、

千邑繁成が組与力となり、云々 

 

喧嘩傘(武田信玄の冑) 一話一言(大田南畝) 

 

是は武田信玄の家にて號する冑の名なり、天草島原両日記は松平伊豆守信綱の嫡子甲斐守信綱の記されし記録也、予所持なす所也、其日記に 

四日大磯 小幡勘兵衛景憲遂行自江戸来賜ル 冑一首於武田信玄 號 喧嘩笠 。

 

糞を嘗む(甘利左衛門)楓軒偶記(小宮山昌秀)  

 

甘利左衛門尉晴吉は武田家の侍大将なり。

松山の城攻に、

米倉彦次郎銃に中り死んとす。

或云、

葦毛馬の糞汁を飲む時は癒べし。

米倉云、

勇士寧死とも糞汁を飲むべからず。

甘利云、

忠臣は身を全ふするを上とす。糞汁何難からん。

自らころえをとり快飲して曰、味一段よろし。

子宜く服すべしと、

小倉感じてこれを飲む。

遂に痊たり。

其情は同じといえども、

其意は異なり。

人士の黄龍は■通が吮癰に同く、

甘利の快飲は呉越が吮疸に類せり。

豈■通人士と同口して談ずべけんや。

惜哉。

甘利早歳にして歿し、

名を呉起に次ぐ事あたはざるのみ。

 

 萬千代君 草小言(小宮山昌秀) 

 

藩翰譜に、武田萬千代丸後に松平七郎信吉に改むとあり。興亡記にも、初武田、後松平とあり。然れ共瑞龍山の公の碑に、武田氏とあれば、松平に改むと云は非なるべし。

 

武田晴信(信玄)の和歌 北瑣談(橘 春暉) 

 

『集外歌仙』は狩野蓮長に命ぜられ、圖書を添られたるとぞ。                    

晴信(武田大膳大夫)

   松 間 花

 

立並ぶかひこそなけれ山ざくら

   松に千年の色はならはで

 

信玄の玉言の事 松屋叢話(小山田與清) 

 

武田信玄大夫晴信の金言に、

人は大小によらず、七八歳より十二三歳までに、

大名ならば、能き大将の行儀作法を、

りきかせて、育てるがよく。また小身ならば、

大剛のものが、武勇の働き、

其外忠心の善き業作を語りきかせて育つべし。

総じて人の心は、

十二三歳の時聞入て本附たることが、

一生の間失ずして、谷水が川水になり、

川水が海の水になるごとく、

人の智慧も、若輩のとき聞たることが、

次第に廣大になる計也。

十四五歳より後は、婬欲をさへたしなめば、

人になるもの也とぞ。 

 

大河内藤蔵記事、丙戌三月九日異聞兎園小説外集(瀧澤馬琴) 

 

私儀生国甲斐国山梨郡藤木村御代官小野田三郎右衛門様御支配、

百姓甚左衛門忰にて、去々申年中御當地へ罷出、

知人深川八幡前佃町家主彦兵衛世話にて、去酉年八月中、

一橋様御小姓組頭瀧川主水方へ侍奉公罷出、

相勤罷在候處、傍輩中間三平と申者、

常々手荒成者にて口論等仕、其上博奕致候に付、

當三月五日、主人より暇差出候處、

衣類等にも差支候間、差置呉候様取計の儀相頼候に付、

主人方へ取繕いたし遣し差置候處、

主人用向相辨兼候に付、

右體の儀にては難差置候間、其趣當人へ申聞候様、

一昨七日主人申付候間、其段三平へ申聞候處、取用不レ申、

其上今朝帰り不レ申候に付、奥方へ其段申聞候へば、

先私挟箱持市助に草履を為レ持、

両人計、迎に罷越候様申付候に付、

則同道仕神田橋中屋敷へ罷越、主人退散を相待候處、

三平罷越候に付、何方へ罷趣越候哉と承候處、

一旦暇出候身分の儀に付、何れへ罷越候共、

勝手次第の儀に有レ之旨申、

主人始私儀を悪口雑言等申掛候へ共、

平日手荒成者敢不レ申、程能及挨拶候處、

猶々聲高に申募り候故、

種々理解申聞候へ共聞入不レ申、

若年者と侮り、理不盡に打掛り打擲に逢、

殊に主人外聞にも相り候に付、

餘り残念に存、不巳事刀抜放し候處、

猶又罵り打掛候故、腕切落し候得ば、

門外へ欠出し候間、追懸か罷出候處、

又候私へ打掛り、

其上御屋敷前溝の下水へ蹴込候に付、

旁心外に存起上り、無是非打果申候。

此外可申上儀無 御座 候。以上。   

三月九日

瀧川主水家来 大河内藤蔵 戌十七歳 

御徒士目付 依田源十郎殿 

神谷昇太夫殿瀧川主水草履取三平 

戌四十四歳 疵所左り二の腕臂際より切落、 

面部左りの方、竪に三寸程切下げ、

同所横三寸程一カ所、胸に突疵二カ所、

右の腕中指の間より竪三寸程切割、止め咽一カ所、(中略) 

 

一、藤蔵みずからうふ。享保九子年以前は、

 

松平美濃守吉保、同伊勢守吉里、甲州府中領主の節迄、

藤蔵先祖は二百五十石にて家来なりしよし、

柳沢国替以来郷士に被レ成候。   

今は百姓になりしとぞ。云々 

 

文政九年、著作堂展覧目録(抜粋)兎園小説外集(瀧澤馬琴)   

甲州巨摩郡韮崎合戦図 写本   

甲州巨摩郡新府中城図 写本   

武田流采配  写本 

 

異年號辨兎園小説外集(瀧澤馬琴) 

 

甲州巨摩郡布施庄 小池圖書助    

西国三十三巡禮  

時弥勒二年丁卯吉日(文安四年の丁卯か、永禄十年の丁卯なるべし) 

足利の季世、天下に亂れ、菅家の人々諸国に縁をもとめて、流客となり給ひしこと多くありければ、京家の人の甲斐国に住したるならんか。 

武田家の侍の中に、小池主計助、(山懸衆)小池玄審など云人、甲陽軍艦に見えたりといへり。(中略) 

又甲斐国都留郡妙法寺奮記に永正四年を弥勒二年としるしたり。云々 

 

甲州祐成寺の来由 新著聞集(著者不詳)

 

ある旅僧、独一の境界にて、複子を肩にかけ、

相州箱根山をこしけるに、

日景、いまだ午の刻にならんとおぼしまに、

俄に日くれ黒暗となり、

目指もしらぬ程にて、一足もひかれざりしかば、

あやしくおもひながら、是非なくて、

とある木陰の石上に坐し、

心こらして佛名を唱ながら、峠の方をみやるに

究竟の壯夫、太刀をはき手づからの馬のくつ草鞋をちり、

松明ふり立て、一文字に馳くだる。

跡につゞき若き女おくれまじとまかれり。

あやしく守り居るに、壯夫のいはく、

法師は甲斐国にゆくたまふな。

われ、信玄に傳言すべし。通じたまはれ。

某は曽我祐成にてありし。

これなるは妻の虎、信玄は我弟の時宗なり。

かれは、若年より此山にあって、佛經をよみ、

佛名を唱るの功おぼろげにあらずして、

今名将なり。

あまたの人に崇敬せられ、又佛道にたよりて、

いみじきあり様にておはせし。

は愛着の纏縛にひかされ、今に黄泉にたゞよひ、

三途のちまた出やらで、

ある時は修羅鬪諍の苦患いふばかりなり。

願くば我為に、精舎一宇造営して、

菩提の手向たまはれよと、

いとけだかく聞えしかば、僧のいはく、

安き御事に侍ひしかど、證據なくては、

承引いかゞあらんとありければ、

是尤の事也とて、目貫片しをはづし、

これを持参したまへと、いひもあへぬに、

晴天に白日かゝり、人馬きへうせてけり。

僧思ひきはめて、

甲陽に越て、それぞれの便をえて、

信玄へかくと申入れしかば、

件の目貫見たまふて、不審き事かなとて、

秘蔵の腰物をめされ見たまへば、

片方の目貫にて有しかば、是奇特の事とて、

僧に褒美たまはり、頓て一宇をいとなみ、

祐成寺と號したり。

しかしより星霜良古て、破壊におよびしかば、

元禄十一年に、共住持、しかじかの縁起いひ連ね、

武江へ再興の願たてし事、

松平摂津守殿きこしめされ、

武田越前守殿へ、其事、いかゞやと尋たまひしかば、

その目貫こそ、只今某が腰の物にものせしと、

みせたまふに、金の蟠龍にてありし。 






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最終更新日  2020年12月30日 10時10分36秒
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