カテゴリ:甲斐武田資料室
【『武田信玄のすべて』磯貝正義氏編所収 「武田信玄に関する伝説」清水茂夫氏著】一部加筆 大永元年(1521)九月、今川氏親の部将、遠江土方の城主であった福島正成は、一万五千の軍勢で、富士川沿いの河内路を北上して、甲斐に攻め寄せた。十六日には大井氏の属城であった富田城(現甲西町戸田)を落とし、その士気は挙がった。その知らせに接した武田信虎は深夜に、身重の夫人を躑躅ケ崎の館から、積翠寺の要害山の城に移し、難を避けさせた。この危機にあたって、国人層の離反もあり、信虎の手兵は二千ばかり。敵の大軍は登美の龍地台(北巨摩郡双葉町)に布陣し、荒川をはさんで相対した。 信虎は脚戯ケ崎の東南方の夢見山に登って敵情をうかがっていたが、連日の疲労から睡魔に襲われ、松の木陰で思わずまどろんだ。夢に現われた不思議な男は信虎に向かい、「あなたのこのたび産まれる男子は曾我五郎の再誕です」と告げると、信虎は目が覚めた。信虎は十月十六日の決戦で、福島勢を飯田河原(甲府市飯田町荒川の河原)に撃破し、同二十三日には一粂河原で敵将福島正成をはじめ、山形淡路などを討ち取って大勝したのである。 一方、この戟の最中、箭翠寺の要害城では、大井夫人がめでたく男子を出産したのであった。生まれながらに武将にふさわしく容貌魁偉であったという。戦に勝ったので幼名は勝千代とつけられた。これがのちの信玄である。 勝千代は、生まれてから右手をこぶしににぎったままであった。不思議に思った信虎が、天柱和尚に相談すると、和尚は、富士山麓の旅の途中で見た夢を語った。 「私が旅の疲れに草むらに腰をおろし、まどろんでおりますと、いずこからともなく一人の武士が現われて、『私は曾我の十郎です。弟の五郎はいま甲斐の府の君の子として生まれ変わろうとしております。そのしるしには、黄金の目貫を片手ににぎって生まれてくるはずです。これが片方の目貫ですが、あなたにさし上げます。この目貫は私どもの祖先以来伊東家に伝わる宝物です。こうして弟の五郎は武将として生まれ変わることができますが、私はなお生前おかした罪のため苦しんでおります。お願いですから、どうか法華経を私のために供養してください」 と言いました。目を覚ますと、不思議にも、目貫が私の手ににぎられていました。私の見た夢が正夢でありますならば、うぶ児のにぎっていますのも、目貫の片方かと思われます。東の池の水でその手を洗ってみてください」 信虎が和尚のことばにしたがって、他の水で手を洗わせると、はたして目貫を片手ににぎっていたのである。 信虎は天柱和尚に請うて、大泉寺(現甲府市)さっそく導師として、三七日万部法会を修めたいは夢山は、信虎が夢を見たことにより命名さされたと伝えられている。(『裏見寒話』巻二など)。 信玄の幼名を勝千代と称したいわれと、曾我五郎の再生である信玄が武勇の大将であるといわれとを説いているのは、英雄出生譚の特色と目される。幼名も太郎で、勝千代と称したかどうかは不明である。五郎の再生と語るのも近世になってからでほないかと思われる。
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最終更新日
2021年01月03日 20時54分33秒
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