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2021年01月04日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

私たちは武田信玄から何を学ぶのか 
 武田信玄が攻略した城

 

本年は武田信玄誕生から500年で、山梨県内では様々なイベントが計画され報道も始まる。過去にも『武田信玄』『山本勘助』テレビ放映で、一般の人々は多くの虚実を真実のように与えられ、錯誤の中に今でも居る。また歴史家も挙って書き捲り眞實から遠い世界に人々を誘った。そして今でもその後遺症が残っている。現在でも放映されている大河ドラマでもゲームのように人々が殺しあっている場面が続く、戦争とはあらゆるもの奪い合う事である。

現在の世の中に当てはめれば、明智光秀・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康も武田信玄も戦国武将は全て大罪人であることを忘れてはならない。

 

 信玄は確かに偉大な人物ではある。しかし長野県から始まり多くの人々の生活を破壊して、人々の命を数多く奪った信玄が本当に山梨県を代表する著名な人物なのだろうか。

 歴史とはある個所を誇大して論じる伝える面が多々あり、人の命を奪う事が当たり前にテレビなどで報道される。人の命を奪い「人を石垣にして、人の死骸の上に城を建てた」信玄、自分の野望の為に多くの人命を奪い、子供を殺害、親を追放した信玄から私たちは何を学ぶのか。多くの歴史学者に問いたい。 

 

本年は武田信玄誕生から500年で、山梨県内では様々なイベントが計画されている。

 確かに偉大な人物ではある。しかし長野県から始まり多くの人々の生活を破壊して、人々の命を数多く奪った信玄が本当に山梨県を代表する著名な人物なのだろうか。

 歴史とはある個所を誇大して論じる面が多々あり、人の命を奪う事が当たり前にテレビなどで報道される。人の命を奪い「人を石垣にして、人の死骸の上に城を建てた」信玄、自分の野望の為に多くの人命を奪い、子供を殺害、親を追放した信玄から私たちは何を学ぶのか。多くの歴史学者に問いたい。 

 

武田信玄が攻略した城 海ノ口城攻略

 

天文5年(1536)16歳

長野県南佐久郡南牧村

城将 大井貞隆 援将 平賀源心

 

  十一月二十一日、父信虎に従い初出陣。

八千余の武田軍は海ノ口城を包囲。大雪と必死の抵抗に阻まれて三十四日間、数回にわたり攻撃したが落城せず、信虎はあきらめて甲府に帰館する。途中、晴信は三百余騎を引き連れて海ノ口城へ引き返し、油断していた大井軍の虚を衝いて一瞬にして城を攻め落とした。

 

〔注〕晴信初陣の記録は後年作の『甲陽軍鑑』『武田三代軍記』によるもので確証はない。

 

韮崎合戦 天文7年(1538) 18歳

 山梨県韮崎市韮崎町塩川河原

  相手の城将 諏訪頼重・小笠原長時

七月十九日、信州の諏訪板重、小笠原長時、伊那の豪族の連合軍九千六百余が甲州へ越境、韮崎(昔は川原部村)の河原で晴信の武田軍と合戦。一日に四度激突したが武田軍の猛攻の前に信州軍は2748人の遺体を置き去りにして退去した。

〔注〕晴信二番手柄は『甲陽軍鑑』の記載が原本になっている。

 

 小荒間の合戦

 

  天文9年(1540)20歳

  山梨県長坂町小荒問

  城将 村上義清

 

二月十八日、北信・葛尾城主村上義清の属将清野、高梨、隅田の侍大将が率いる3500余人の信州勢は甲州に越境、八ヶ岳山麓の小荒間の番所を攻めた。武田軍の足軽大将多田三八(のちの多田淡路守満頼) の手勢は夜更けを待って残雪の原野を徒歩で敵陣に忍び込み、晴信ら武田方の本隊が駆けつける前に首七十二の首級をあげて信州勢を敗走させた。

 

注〕『甲陽軍鑑』のみ記載。

 

 海尻の合戦

 

天文9年(1540) 20歳

長野県南佐久郡南牧村

城将 平賀源心

 

一月十六日、晴信は板垣信形ら約5000の武田軍を統率して三方から海尻城に攻め込み、難なく城を奪った。小山田信有を城将とする武田軍五首余を残して甲府へ引き揚げたが、同月三十日未明、敵勢が城を奪還しょうと攻め寄せた。

奇襲を知った晴信、ただちに行動を開始して正午ごろ、城を包囲した敵軍に攻め入り313人を討ち取って追い払った。晴信、警固のため城に数日逗留して二月七日ごろ甲府へ帰陣した。

 

 佐久攻略

 

天文9年(1540) 20歳

 

長野県南佐久郡・小県郡・佐久市・上田市周辺

城将 海野棟綱・真田幸隆

 

 五月十一日、信虎・晴信父子は、約八千の騎馬隊を率いて急速、信州佐久地方を襲い、一日に三十六の城を攻め落とした。さらに武田軍は小県郡の海野、真田、滋野一族等を攻め、同月十三目、尾山城(小県郡丸子町)を落とし翌日、海野平(同郡東部町)を占拠した。

この合戦で海野棟綱、真田幸隆は上州平井郷(群馬県藤岡市)の関東管領上杉憲政を頼って逃げた。佐久の豪族繭津元直、矢吹綱重らは武田軍に降伏した。

 

〔注〕『甲陽軍鑑』が原本だが、『塩山向岳禅庵小年代記』『妙法寺記』にも詳しく記述されている。

 

 瀬沢の合戦

 

天文11年(1542) 22歳

長野県諏訪郡富士見町瀬沢

城将 諏訪頼重・小笠原長時

 

瀬沢の合戦を否定する学説が多い。

信虎追放後、21歳で甲斐守護職を継いだ晴信。その機をねらって諏訪頼重、小笠原長時ら信州の豪族が連合して甲斐進攻作戦を画策、その第一陣の諏訪勢2000余が三月九日、甲信国境へ迫った。国境警備の甘利虎泰、飯富兵部の武田軍は不意を衝かれて300余人討死、甘利らも負傷した。

大軍を率いて国境に到着した晴信、信州側の瀬沢に陣をしき、隊列を整えて反撃に出て、平沢、大門峠へ追い込んで合戦、大勝して二十三日、本隊は甲府へ帰陣した。

 

〔注〕『甲陽軍鑑』が原本。晴信の諏訪攻略を正当化するため後年創作したものと推測される。

 

 諏訪攻略

 

  天文2年(1533) 22歳

  

長野県諏訪市一帯

  城将 諏訪頼重・頼高兄弟

 

 信虎追放後一年、沈黙の晴信は六月二十四日、諏訪攻めの号令を出した。諏訪領の諏訪頼重・頼高兄弟と同族 の高遠、諏訪上社の矢島満清、下社の大祝金剃ら禰 宜一党の反乱に便乗し、晴信は高遠派と結託して妹の夫君である頼重を滅ばすための出陣であった。途中、大熊口などで諏訪軍と対戦、諏訪方の重臣千野伊豆入道、千野南明庵らが戦死した。

七月四日、諏訪氏の居城桑原城 を包囲した武田軍は頼重に和議を申し入れ、頼重兄弟を甲府へ護送した。晴信は諏訪攻略の緒戦で成功し、信濃通の板坦信形を上原城(茅野市上原)の城主に命じ、諏訪守護代に任命した。晴信独立して初めての合戦だった。甲府へ送られた療重・頼高兄弟は東光寺で謀殺され  た。

 

上原城(かみのはら)

 

天文2年(1542) 22歳

 長野県茅野市上原

 城将 高遠頼継

 

晴信の諏訪攻略に荷担した高遠頼継は、諏訪領を占領した武田方の処遇を不服として諏訪上・下社の禰宜一党と伊部の藤沢頼親とひそかに謀議して武田軍に反旗をひるがえした。

九月十日早朝、武田軍が警備する上原城を襲い、諏訪社の実権を取りもどした。

翌十一日、府中館の晴信、騎馬隊を集結、諏訪頼重の遺児虎王(生後六カ月)を先頭に晴信はその後見人という陣立てで信州へ入り、抵抗する信州勢を追い払って上原城を奪還。

さらに諏訪領全域で掃討戦をくり返して完全に諏訪領を占領した。

政治の具に供された虎王は間もなく死亡、未亡人になった軒重の妻滴々も翌年一月十九日、十六歳で薄幸の生涯を閉じた。






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最終更新日  2021年01月04日 06時15分01秒
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