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2021年01月04日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

信玄(晴信)、父、信虎公を追出の事

 参考資料-

『甲陽軍艦』吉田豊氏著…吉田。

『甲陽軍艦』腰原哲朗氏著…腰原。

《『甲陽軍艦』   品第三》

 原文

 甲州の源府君武田信虎公、秘蔵の鹿毛の馬、たけ八寸八分にして、其かんかたち、たとへは、むかし頼朝公の、生食摺墨にも、さのみをとるまじき馬と、近国まで申ならはす名馬なれば、鬼鹿毛と名付。嫡子勝千代殿、所望なされ候所に、信虎公事之外の悪大将にてましませば、子息とても、秘蔵の馬などを無相違進ぜらるべき御覚悟にて更になし。但又嫡子所望を、いやと御申被成候事も、ならず、先始の御返事には、勝千代殿未だ若年にて、彼馬は以あはず候、来年十四歳にて、元服あるベく候間、其時武田重代の義広の御太刀、左文字のが刀脇差、二七代までの、御旗楯なし共に、奉るべきよし、御返事に候。

 

又重而勝千代殿の御訴訟には、楯なしは、そのかみ、新羅三郎の御具足、御旗は、猶以、八幡太郎義家の御旗也。太刀、刀、脇指は、御重代なれば、それは、御家督下さるゝ、時分にこそ頂戴仕べきに、来年元服とても、傍(かたがた)に部屋住みの躰にてはいかで請取り申べきや。馬の儀、只今より乗習て、一両年の間にいづ方へも、御出陣におひては、御跡備えを、くろめ申べき覚悟にて、所望申処に、右の通の御意共、更に相心得申さず候と、被仰越候(おおせこしなされそうら)へば信虎公、たゝ大方ならぬ狂気人にて、ましませば、大に怒って、大声上げて、被仰候は、家督をゆずらんも、それがしの存分を、たれ存候べき、代々の家に、伝はる物ども、譲候はんと申に、いやならば、次郎を、我らの惣領に仕り、父の下知につかざる人をば、追出して、くれ候べし。

其の時諸国を、流浪いたし、我等へ手をさぐる共、中々承引申まじきとて、備前来光の三尺三寸を、ぬきはずし、御使の衆を、御主殿さして、切はしらかし給ふ。然れ共、禅宗・曹洞宗のちしき、春巴と申和尚、御中なをし玉ふにより、大事は少もなかりけり。

 

《訳…吉田氏》

 甲斐源氏の国守武田信虎公のご秘蔵の鹿毛の馬は、身の丈四尺八寸八分、その性といい姿といい、かの頼朝公の「生食」「摺墨」にも劣るまいと近国まできこえた名馬であったので、「鬼鹿毛」と名付けられた。

 嫡男の勝千代殿はこの馬をお望みになったが、信虎公は並はずれて非道の大将であられたので、たとえ我が子であろうとも秘蔵の馬をそのまま与えるおつもりはさらになかった。とはいうものの、ご嫡男の所望をただことわるというわけにもいかぬため、最初は「勝千代殿はまだ若年のため、あの馬はふさわしくない。明年は十四歳で元服することとなろうから、武田家に伝わる郷義弘の太刀、左文字の刀、脇差、二十七代伝わる御旗と楯無の鎧ともどもあの馬を贈ろう」とのご返事であった。

 これに対して勝千代殿はかさねてお願いするには、「楯無は、むかしの新羅三郎義光の御鎧、まして御旗は八幡太郎義家公より伝わるものであります。また太刀、刀、脇差はお家代々の品それらにつきましては、ご家督を下さるときにこそ頂戴すべきものであり、来年、元服であるからといって、いまだに部屋住みの身としては、どうしててお受けすることができましょう。

 これに対し、馬につきましては、いまかこれを乗りこなし、一年ののちには、父上がいずれかへご出陣のおりは、御うしろにつき、警固申し上げるつもりで、所望申し上げたのです。それに対して、あのようにいわれることは、なんとも納得がまいりません」とのことであった。

 

《訳…腰原氏》

 すると信虎公はひとかたならぬ狂気の人であられたので、おおいに怒って大声をあげておおせられるに、家督を譲るも譲らぬもこの胸三寸にあることだ。先祖代代の物を譲ろうというのに厭だというならば、弟の信繁を武田家の惣領にする、この父の命令をきかない者は追放してやれと。その時、勝千代殿は諸国を流浪したり、ほかに何か方策を考えても、なまじ父は承諾すまいと考えて、備前兼光の三尺三寸の刀を抜き放ち、使いの者を信虎公のもとへ迫い払われた。けれども禅宗曹洞宗の賢者、春巴と申す和尚が仲裁にはいられたことにより大事にはいたらなかった。

 

《原文》

 其後互に、御心ほどけず、やゝもすれば、勝千代殿に、信虎公、こめみせ、まいらせられ候故家中の衆へ大小兵に、皆勝千代殿あなづりがほにぞ、みへにける。勝千代殿、此色を見付玉ひ、猶以うつけたる、ふりをして、馬を乗りては落て、背につちを付け、よごれながら信虎公の御前に御座候。物をかけ共、悪くかき、水をあびても、深き所に入て、人に取あげられ、石材木の、大物を引共、舎弟次郎殿は、二度引玉へば、勝千代殿は一度なり。なにもかも、弟におとりたる人にて候とて、信虎公の御そしり候によって、上下皆勝千代殿、譏(そし)りと申と聞へけり。

 

《訳…腰原哲朗氏》

 その後互いにわだかまりはとけず、ややもすると勝千代殿を信虎公は苦しい目に合わせられた。で、家中の多くの人達は皆、勝千代殿を馬鹿にした感じでみていた。

 勝千代殿はこの軽んじられた表情を御存知だったが、なおのこと愚かなそしらぬふりで、落馬して背中に土をつけ汚れた姿で信虎公の前に出られたりした。書もむりにまずく書き、水を浴びても深い所でおぼれて助けられ、石や材木の大物を引く場合でも弟の次郎殿は二度引けても、勝千代殿は一度きりでだめだという風であった。何もかも弟より劣る人というわけで、信虎公が勝千代殿をそしられるのにならって、家中皆それになびいたという。

 

《訳…吉田豊氏》

しかし、それ以後は、お互いに心が通わず、信虎公は、ともすれば勝千代殿を冷遇したので、ご家中の人びとも、大小ともに、みな勝千代殿を軽んじるようになってきた。

 勝千代殿は、この様子を見られて、なおさら愚かなふりをされ、たとえば馬に乗れば落鳥して、背中に土をつけたまま信虎公の御前に坐っていたりした。また、字を書けばへたに書き、泳ぎをすれば深みにはまって人に救われ、大きな石や林木で力比べをさせれば、弟の次郎殿が二度持つものを、勝千代殿は一度しかお持ちになれない。何をさせても弟に劣った者であると信虎公が悪口をいわれるので、家中の人びとも上下を間わず、勝千代の悪口を申していたという。

 

《原文》

 され共、駿河今川義元公、御肝入にて、勝千代殿十六歳の三月吉日に御元服ありて、信濃守大善太夫晴信と、忝(かたじけなく)も禁中よリ、勅使として転法輸三条殿、甲府へ下向し玉ふ。即ち勅命をもって三条殿姫君を、晴信へとて其丼年の七月、御こし入れなり。

 又同年の霜月、晴信公、初陣にて候。其敵は海野口とて、信濃の内に城あり。是へ信虎公発向なされ、取つめられ候所に、城の内に人数多、又平賀の源心法師が加勢に来て、こもり居候。就中、大雪ふりて中々城の落べきやうさらになし。甲州の衆、打寄談合申され候は、城の内に、人数三千程候由申候へば、がぜめには、如何にて候。又味方の人数も、七八千にはよも過候まじ。けふは、はや極月廿六日なれば、年もつまり候。

 先御国へ御帰陣被成、来春の事に可被成侯。敵も大雪と申、節季と申、跡をしたふ事、ゆめゆめ思もよらず候と申上候へばさらば、信虎公御合点にて、さらば明日早々引とるべきと、栢定らるゝ所に、晴信公御出有て、さらば、殿を被仰付候へと御望候。

 信虎分聞召、大きにわらひ、武田の家のなをりを、被申物哉、敵のつくましきと、巧者共申侯に、従(たとえ)某殿と申付候共、次郎に被仰付候へなどと申てこそ、惣領共云うべきに、次郎ならば、中々斯様のことは、望申まじきとて、御叱被成候へは、晴信公荐(しきり)に御望、殿を申請られ候。其儀ならば跡に引候へとて、信虎公二十七日の晩、うち立御馬を被入侯。

 

《訳…腰原氏》

 けれども駿河の今川義元公の肝煎りで、勝千代殿は十六歳の三月吉日(一五三六)に元服なされて、信濃守大膳大夫晴信と命ずる旨の勅使が宮中より参った。勅使転法輪三条殿(三条公頼)が甲府へ下向なされ、そのおり勅命をもって三条殿の姫君を晴信へということで、同年七月お輿入れということになった。

 その年の十一月は晴信公の初陣であった。敵は海野口(長野県佐久郡南牧村鳥井城とも)といって信濃国に城をもっていた。ここへ信虎公は出陣なさって、敵を追いつめたが場内の兵は多い。平賀の源心法師とい者が加勢に来て籠もっている。とりわけ大雪が降って攻めにくく、城はとても落ちそうな気ない。甲州勢はそこで内々相談して、城内には三千ほどの人数ということなので我攻(無理押しの攻め)ではまずいということになる。味方の兵もよもや七、八千には達していまい。それに今日はすでに十二月二十六日で幕れもせまった。ひとまず甲州へ帰陣されて、来春攻めてはいかがであろうか。敵も大雪であり、年末であり、追撃するなどということは決して考えられないことですから……と申しあげると、信虎公は納得して、では明月早々に引き返そうと決心しておられた。そこへ晴信公が参られて、それでは私にしんがりを仰せつけられたい、と所望されたのであった。

 信虎公はそれをお聞きになって大いに笑い、武田家の不名誉になることを申すものだ。敵は追撃すまいと戦いの巧者がいっているのだ。たといお前にしんがりを申しつけても、それは次郎に仰せつけていただきたい、といってこそ惣領というべきなのだ。次郎がお前の立場ならけっしてそのような望みは申し出まい、とお叱りなされたが、晴信が非常に強くしんがりを望まれたので、実現した。それではということで、信虎公は二十七日の晩に先頭にたって軍馬を引かれた。

 

《訳…豊田氏》

 にもかかわらず、駿河の今川義元公のお世話によって、勝千代殿は十六歳の三月吉日、元服なされて、信漉守大膳太夫晴信となられる。任官のためには、かたじけなくも宮中より、転法輪三条左大臣公頼卿か甲府に下向された。また勅命によって、三条殿のご息女を晴信公にめあわせられ、その年の七月、お輿入れとなった。

 また同年十一月には、晴信公の初陣となった。

 そのときの敵は、信州海野口(佐久郡)の城にこもる村上勢で、信虎公はそこにご出馬、城をかこまれたのだが、城中には多くの軍勢がおり、しかも平賀源心入道という勇猛の者が加勢にこもっていた。そのうえ、大雪が降り、城が落ちる様子はいっこうにない。

 そこで甲州勢は集まって相談のうえ、「城の中には三千もの軍勢がおり、速攻をしても見込みはありません。味方の人数も七、八千を越えぬ状態であります。今日はもはや十二月二十六日で、歳も押しつまりました。このところはお国へご帰陣なされ、攻撃は来春のこととされるべきです。敵方としても、大雪のうえ、歳末のことでありますから、迫撃をかけてくることは決してございますまい」と申しあげた。信虎公も賛成なされ、それならば、明日早々に陣をひくことに軍議が定まる。

 そのとき、春信公が出てこられ、「さらば、殿(しんがり)を仰せつけられたい」とお望みになった。

 これを聞かれた信虎公は、大いにお笑いになり、「武田の家の恥辱になるようなことを申すものだ。老巧の者たちは、敵が迫撃してくることはあるまいと申しておるのだから、たとえを申しつけられても、いや、次郎に仰せつけられよなどといってこそ、惣領というものではないか。次郎であれば、まさかそのようなことは申すまい」とお叱りになった。だが、哺信公がさらに殿を希望なさったので、それならばあとにつけと仰せられ、二十七日の暁、信虎公はご出発になって陣を引かれたのである。

 

《原文》

 晴信公は東道三十里ほど跡に残り、いかにも用心したる躰にて、漸々三百ばかりの人数下知して、其夜は食を一人にて、三人前計こしらへ、早々打立ん支度をし、足袋脛巾物具をも、其儘きこみにし、馬に物をよくかふて、鞍をも置づめにし、寒天なれば、明日打立時分は上戸下戸によらず、酒をすごし、夜の七ツ時分にならば、罷出べき分別仕候へと、自身ふれられ候。

 内衆も、晴信公の深き御分別をば不存、まことに、父信虎公の、御そしりなさるゝも御尤も也。此寒天に、何として敵、跡をしたひつき申べきやとて、下々にて皆つぶやき申。

 さて七ッの時分に打ち立て、甲府へは不行跡へ帰り、もとの帰きたる城へ取懸、廿八日の暁、其勢三百計にて、何の造作もなく、城を乗取玉ふ。城の内には平賀の源心計、己が内の者も、はや廿七日に返し、源心は一日心をのべ、寒天なれば廿八日の、ひる立にいたすベきとて、ゆるゆるとしている。地の侍共年取用意に、皆さとへ下りて、城にはかち武者、七、八十あり、さて源心をはじめ番の者共五六十討ころし、高名も無用、平賀の源心が首ばかり、是へもちてまいれとて、晴信公の御前に御置、ねごやを焼はらひ、こゝかしこに油断したる侍共、一所にて、廿三十づゝ討てすつる。よそより加勢の者は、在郷にいて、此程の休息一日いたし、帰らんと申て罷り在候。此者共は、猶以取あはず、にげて行。

 敵の中に剛の者ども数多あり上いへ共、はや城をとられ候、其上晴信公一頭とはしらず、信虎公の返して、働給ふと存知、一万に及ぶ人数が、押こみたらんに、何の働きも成まじきとて、女子をつれて、にぐるを、本にせよと云て、山のほら、谷に落てしぬる。中々晴信公の御手柄、古今まれに有べし、よその女中迄も、申ならはしたり。

 

《訳…吉田氏》

 さて晴信公は、城から東、三十中ほどの場所に残り、ようよう三百人ほどの軍をひきい、きわめて用心した様子で陣をはった。その夜は糧食を一人当り三食分ずつ整え、皮足袋、脛巾、甲冑も着たまま、馬にはしゆうぶんにかいばを与え、鞍も置いたままにして、明日は早朝からの出発という支度をさせた。そして「寒天のこと故、明日出発の際は、上戸下戸によらず酒を呑め。夜七つ(午前四時)ごろには出発のつもりでおれ」と、ご自身でふれて歩かれた。

 味方の人びとも、晴信公の深いお考えがわからず、「なるほど、信虎公が悪くいわれるのも当然のことだ、この寒空に、なんで敵が追撃してくることがあろうか」などと、互いにつぶやきあっていた。

 ところが晴信公は、七つごろに出発されるや、甲府には行かずに、もと来た方へと戻り、城に攻めかかって、総勢三百ほどの人数によって二十八日の早朝、なんの造作もなくこれを占拠してしまわれた。

 城中にいたのは平賀源心入道だけで、その配下の者たちも二十七日にはすでに帰っており、源心は一日の休養をとって、寒さのおりから二十八日の日中には出発しようと、ゆったりとしていたのだった。また土地の武十たちも正月の用意をするといって、みな里に戻っており、城中には足軽が七、八十人いただけであった。

 かくして、源心をはじめ五、六十人の警備の者たちは討ち取られた。晴信公は「首級をあげることは無用、源心の首だけをここへ持ってまいれ」と命じられ、首を御前に置かせた。そして、城付近の家々を焼き払い、不意をつかれた侍どもを、そこここで二十人、三十人と討って捨てる。

 よそから加勢にきていたものは、すでに村落にくだり、今日は一日休息して帰ろうとしていたのであるから、応戦しようともせず逃げていった。

 敵の中には武勇のすぐれた者たちも多くいたのであるが、すでに城は取られたうえ、まさか晴信公の部隊だけとは気づかず、信虎公が引返して戦っておられるものと思いこみ、一万にも及ぶ軍勢が攻めかかってきたのでは、とてもかなうまい、女子供をつれて逃げるのが第一……と逃げ散り、崖や各に落ちては死んでしまった。

 まことに晴信公のお手柄は、古今まれなものであると、他国の家中の人々までも賞賛したことであった。

 

《訳…腰原氏》

 晴信公は東道甲州方面へ三十里ほどあとの地に残って、いかにも用心したようすで、ようやく三百ばかりの手勢を指揮して、その夜は食を一人あて三人前ほど作って、早々に出発の準備をする。足袋、行纏(脚絆に似たもの)、兵器をそのまま身に付けて、馬はよく養い、鞍も置いたままである。寒空なので、明日出発するという時、上戸下戸ともども酒をふるまい、夜七ッの時分(午前四時)になったら出かけるつもりだ、と自分で触れてまわった。

 内衆(家人・召使い)も晴信公が深慮なされているとは知らない。ほんとうに信虎公が悪く言うのもごもっともだ。この寒天にどうして敵が追撃などしてこようかと、部下の人々皆がつぶやくのだった。

さて七ッの時分に出発したのだったが、甲府へは行かずにとってかえし、あとにしてきた城を攻略し、二十八日の暁にわずか三百あまりの兵力で、あっさり敵城を陥してしまわれた。城の内では平賀の源心法師が、側近の部下をすでに二十七日には里にかえし、源心だけは一日くつろいで、寒天なので二十八日の昼にでも発とうとのんびりしていた。他の侍も年越しの用意に自分の家に帰り、城に歩武者七、八十人のみであった。

 晴信公の軍勢は、源心をはじめとして番兵を五、六十人討ちとり、功名も何のその、平賀の源心の首だけをここへ持って参れと命じて前に置かせ、根小屋に火を放ち、あちこち油断していた侍どもを一からげに、二十、三十人と討ち捨てる。他からの加勢の者は村々におって、この度は一日休息してから帰城しようとしていた矢先だったから、なおのこと戦わずに逃げて行くのだった。その中には剛の武者がかなり居るにはいたけれども、すでに落城し、そのうえ晴信公大将一人とは思わなかった。信虎公が引き返して戦っていると思っているから、一万人によぶ人数が攻めているのだから何の応戦もできまいというわけで、女子を連れて逃げるのに急で、山の洞谷に落ちて死ぬ有様であった。

 まったく晴信公の手柄は古今まれなことだと、他の国の家臣にまで評判がたった。

 

《原文》

 さて又此平賀源心法師は、大剛強の兵者にて、既に力も七十人力と申ならはし候。定めて、十人力もこれ有べし。四尺三寸斗りの刀を、常に取持仕る、廿大人にて数度の、あらけなき、はたらきの兵にて候。是を晴信公、初陣の手柄にて、討取給ふ。是信玄公の十六の御年也。

 それをも信虎公御申侯に、共城に其まゝいて、使を越候はで、捨て来るは、臆病なりと、そしり給ふ故、内衆十人の内、八人は、ほめずして、時の仕合也、其上加勢の者も皆ちり、地の侍共も、年とり用意に、在所へ下り、城はあき城なりといふも有、浅からざる御はたらきと、感ずるものは少し。信虎公への軽薄に、舎弟の次郎殿を、ほむるとて、心によしと思へ共、口にてそしる者ばかり也。弟の次郎殿、後には典厩信繁と申人也。

 

《訳…腰原氏》

 ところでこの平賀源心法師は、非常に剛の対で、力も七十人力との評判であった。きっと十人力はあっただろう。四尺三寸ばかりの刀を常に所持している大人で、数回の激しい戦いで働いてきた強兵である。これを晴信公は初陣で討ちとり手柄をたてたのだ。これが十六歳の時のことである。

 ところがこのことも信虎公がいわれるには、城にそのまま居て使者もたてずに城を捨ててきたのは臆病者だと批難されたこともあって、内衆十人のうち八人は晴信公の戦功をほめなかった。時の運だったとし、その上敵方は加勢の者もいなくなり、地元の侍も年とりの用意に城から在所に降りていて、あき城になっていたのだから勝利も当然だと、晴信公の武勲を認める者はすくなかった。信虎公へのおせじもあって、弟の次郎殿をほめる手前、心では晴伝公を讃しながら、口先ではそしるものばかりであった。弟の次郎殿とは、後に典厩信繁と申された人のことだ。

 

《原文》

 さても、晴信公奇特なる、名人にてまします。左様の事をなされ候へ共、おごる色もなく、猶以てうつけたる体をして、時々駿河の義元公へ、たよりまいらせられ、次郎殿を惣領に立て、我らをそしに仕べしと、信虎公の御申、此段は偏に、義元公の御前に御座侯とて、様々頼被成候により、義元公も又、欲をおこし、信虎公は舅といひ、我らよりさきからの、剛の人なれば、甲州一国にても、我手下に成人にて更になし。あの晴信を取立候はゝ、まさしく、我ら旗本にきはまり候間、左様候はゝ、子息氏真の代迄も、全旗本に仕るべしと、おぼしめし、晴信公と御組ありて、信虎公を駿河へよび、御申なされ、跡にて、晴信公をばしめすまゝに、謀反を、なされすまし給ふこと、偏に今川義元公の分別故如件。

 是とても、又、信玄公の御工夫不浅候。信虎公、次郎殿を、惣領可被成との儀、千万の御手違にて候故、そのかみ新羅三郎公の、御にくみをうけ給ひて、あのごとくに、御牢人かと奉存候。前車のくつがへすをみて、後車のいましめと、申ならはし候へは、必勝頼公へ、あしき御分別なされざる様に御申上尤に候。

 扨又信玄公、初陣の御覚なる故に、平賀の源心をば、石地蔵にいはひ、今に至迄、大門峠に、彼地蔵を立をかれ候。刀は常に、御弓の番所に、源心か太刀とて、御座候。

 武士は只、剛強なる計にても、勝はなきものにて候。勝がなければ、名はとられぬ物にて候。信玄公のなされ置候事共を、手本に遊ばし候はで、たゞ勝たがり、御名をとりたがり候により、今度長篠にても勝利を失、家老の衆、皆御うたせなさるゝこと、勝頼公はわかく御座候、方々の分別の違故也。我等相果候はゞ、此書物を御披見候へかし。

 右御父子のこと、信虎公四十五歳にて、御牢人也。信玄公十八歳の御時なり。如件。

 (品第三)

 

《訳…腰原氏》

 とにかく、晴信公は奇特な不思議な魅力をもつ名人であられた。このような武勲をたてられてもおごること気配もなく、そらとぼけた様子で時々駿河の義元公へ書信を寄せた。次郎殿を惣領にたて、自分を嫡子からはずすと信虎公は申されるが、そのおりは義元公だけが頼りですからよろしく、といろいろお頼み申されたのだ。

 だから義元公もまた欲をおこし、信虎公は舅(義元の妻は信虎の女)にあたるし、自分より前から剛者としてきこえているから、今は甲州一国であるが我が配下にはとてもなりそうにない。だから晴信をとりたてておけば、確実に我らが統治下に入り、そうなれば子息(今川氏真)の代までも旗下に仕えるかたちになるだろうと考えられて、晴信公と組んで信虎公を駿河へ招かれたのだ。そのあと晴信公が思いの通りに謀反をおこして成功なされたわけだが、それには今川義元公の以上のような思惑がはたらいていたの

だ。しかしこの謀叛も信玄殿の御工夫が大きくものをいったのである。

 信虎公が次郎殿を物惣領にたてたいという意図は、重大な手ちがいであったから、先祖の新羅三郎公の御憎しみをうけて、あのように御牢人の身(浪人)になられたのかと思われる。前車をくつがえすをみて後者のいましめ(前人の失敗は後人の戒め)といわれるように、勝頼公はこれに学び、まずい判断をけっしてなされぬよう申上げる次第です。

 さて信玄公の初陣のしるしに、平賀の源心を石地蔵として祭り、今でも大門峠に碑を建ててある。刀は常に館のお弓の番所に「源心の太刀」として置いてある。

 武士はただ剛強なだけでは勝つことができない。勝利がなければ評判をとって有名にはなれぬ。信玄公のなされた業績を手本になされず、ただやたらと勝利と名声を望まれるから今度の長篠の戦も失敗し、家老衆を多く失ったのである。これは勝頼公の若気のいたりであり、おのおの方の配慮が浅く誤っていたからである。

 我らが死んだあかつきには、この書物をどうか御覧になっていただきたい。右のような御父子の事は、信虎公が四十五歳で浪人になられた時のことである。信玄殿は十八歳の時であった。

           天正三年乙亥六月吉日

                                           高坂弾正

 

《訳…吉田氏》

 ところで、この平賀源心入道というのは、すこぶる剛勇のもののふで、その力は七十人力と呼ばれていたが、事実、十人力はあったであろう。四尺三寸ほどの大太刀をつねにたずさえた大男で、たびたびの勇猛な働きを重ねた強剛であった。晴信公は、この者を初陣の手柄に討ち取られたのである。これば信玄公が十六歳のときのことであった。

 ところが信虎公は、これについても、「その城にそのままいて、使をよこすということもせず、城を捨ててきたとは臆病なふるまいだ』と悪くいわれたため、ご家中の者も、十人のうち八人までは晴信公をほめずに、「たまたま運がよかっただけだ。加勢の者も散り、地元の侍も里へおりていたのだから、城は空き城だったのだ」などという者もあって、なみなみならぬお手柄と感じるものは少なかった。そして、信虎公のご機嫌をとるためには弟の次郎殿をほめるのか第一と考え、心では晴信公に感心していても、口では悪くいう者ばかりであった。弟の次郎殿というのは、のちに典厩信繁と呼ばれた人である。

 ところで晴信公は、まことに珍しい大人物であられた。これほどの手柄を立てられながら、おごる様子もなく、なおさら愚かなふりをしておられた。そして、たびたび駿河の今川義元公に手紙を送られ、「信虎公は次郎殿を惣領に立て、自分を庶子にしようといっておられますが、このことについては、義元公のお考え次第できまることであります」などと、いろいろと頼みこまれた。

 そこでまた、義元公も欲を起こされた。

「信虎公は百分の勇にあたり、年長の、しかも勇猛な人であるから、領地は甲州一国ではあっても、自分の家来になることはよもやあるまい。あの晴信を引き立てておけば、間違いなく家来となり、息子の氏真の代までも武田を従えておくことができよう」と考えられたのである。かくして、義元公は、信虎公を駿河に呼び寄せておき、その留守に晴借公に謀反を起こさせ、信虎公を追い出させたのである。

 これはひとえに、今川右元公の計画によるものであった。以上。

 だが、これについても、信玄公の深いお考えがあったのである。信虎公が次郎殿を惣領にとお考えになったことは、もってのほかのお謀りであったがために、ご先祖の新羅三郎義光公のお憎みを受け、あのようなご浪人の身分となられたものと思われる。

 前車のくつがえるのを見て、後年の戒めとする」との教えもあることゆえ、勝頼公に対しても、決して悪いお考えをお持ちになることがないよう、申しあげていただきたい。

 また信玄公は、初陣のご記念として、平賀源心を石地蔵にまつり、いまに至るまで大門峠にこれを立てて置かれている。また源心の太刀は、つねにお館のお弓の番所に〃源心の大刀〃として置かれている。

 武士というものは、ただ勇猛なばかりでは勝利は得られぬ。また、勝利を得なければ名誉をあげることはできないのである。

 信玄公のなさってきたことを手本に遊ばそうとせず、ただ勝ちたがり、名をあげたがるところから、今度は長篠の於て勝利を失い、家老の人びとをみな討死にさせてしまったのである勝頼公はお若いのであるから、これは各々方の判断の誤りによるものである。もし自分が命を終えたならば、この書物をご覧になっていただきたい。

 右の父子のことは、信虎公が四十五歳にて浪人となられ、これは信玄公が十八歳のときであった。以上。(品第三)

 

《参考》

 

天文 7年(1538)  信虎-45歳 信玄-18歳

天文10年(1541)  信虎-48歳 信玄-21歳






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最終更新日  2021年01月04日 13時55分17秒
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 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
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