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2021年01月05日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

甲州金の歴史 武田時代の庶民と甲州金

 

 「慶長見聞集」巻之七の「日本に黄金はじめしこと」

 

 泉昌彦氏著『信玄の黄金遺蹟と埋蔵金』「甲駿の巻」

  一部加筆 白州ふるさと文庫

 

推古天皇の六〇五年、高麗国の大興王が造仏の勅を聞いて黄全三百両を言上したにつづけて、「……しかるところに当君の御時代に金山できて、金銀の御運上を車に引きならべ、馬につけならべて毎日おこたらず、なかんずく佐渡島はただ金銀をもってつぎ立てる宝の山なり。この金銀を箱に十二貫目入りあわせ、百箱を五十駄積の舟に積み、毎年五十艘づつ、よい波風に佐渡島より越後の港へ着岸す。これを江戸(城)へ持ち運ぶ。おびただしきこと、むかしいま、たとへとてもなし、民百姓まで金銀とりあつかふこと、ありがたき御時代なり……」

 

とある。

 

 「慶長見聞集」は、小田京城の北条氏政の臣、三浦浄心が入道して筆録したもので、永禄八(一五六五)年に生まれた作者は、天正十八(一五六五)年に二十六歳で小田京城へ罷城したが、城が落ちたあとは江戸に住み、「順礼物語」「見聞軍砂」「北条五代記」などの諸文集があることで有名だ。

 

同記巻之六の「江戸にて金の判あらたまること」で、

 

「江戸町にて金に判する人、四条、佐野、松田とてこれら三人也。砂金を吹まろめ、壱丙、弐朱、朱中などと。目方をも判をも紙に書つけ取渡すること天正寅の歳より未まで六年用いきたる。この判自由ならずとて、後藤庄三郎という、京より下り、おなじ未の年より金の位定め、壱両判を作り出し金の上に打刻ありて、これを用ゆる。

また近年は壱分判出来て世上あまねくとりあつかへり。されば愚老の若い頃は、壱両弐両、道具よりはづし金を見てもまれごとの様におもひ、五枚十枚持たる人をば、世にもなき長者、うとく者などいいしが、今はいかようなる民百姓にいたるまでも、この金を三五両十両持ち、また分限者といわるる町人達は五百両、六百両持てり。比金、家康公御時代より諸国に金山出来たり。万民金持ちの事は秀忠公の御時より取扱かへり」と。

 

以上は、戦国時代に成長し、江戸へ出てからは上野不忍池付近に住んで、徳川三代にわたる社会情勢を見ながら書き続けて、八十歳で没する正保元(一六四四)年までの実録であるから、甲全研究にとっては注目すべき一級の側面資料である。

 

これで天正十九年ごろの万民は余り金を持てず、二代将軍秀忠の時代(慶長十年 一六〇五~元和元年  一六二三)に至って、はじめて平等に企を売買通貨として、普遍的に持てるようになったとある。この点、浄心自身が江戸において初めて通貨としての金判を手にした実感を筆録したもので、文中の十八年は十九年の誤記と思う。

 

家康は関東受封の翌十立米年から文禄四(一五九五)年まで、小額の鋳造を行ったが、

甲斐国志では「慶長以前ノ金ハ大判ノミデ小判ナシ。壱両十匁ニテ慶長小判ノ弐両金ニ当タル…」

とある。

 

家康が文禄四(一五九五)年に、後藤光次を京から下し、小判座二十七人を定めて、駿河、武蔵判を吹かせた頃に甲州金はどうであったかは、「坂田清九郎古券集」、青木昆陽の「甲州略記」「昆陽漫録」「甲州古文書集」「甲陽軍鑑」「甲斐律令雑輯」「裏見寒話」「甲陽旧尋録」「古山日記」「歴代譜」など、二十指に余る古記を整理しながら、「慶長見聞集」等の中央文献とも比較したいが、武田以後のものをざっと拾う。

 

 「慶長見聞集」は、陸奥の藤原氏の栄華を伝えたあと、

「……天正年中の頃、金壱両に米四石、永楽は壱貫、但し、びた四貫に当たる。是は三十年余以前の事なり。其頃、金壱両見るは今の五百両、千両見るより稀なり。然れば国治り、民安穏の御時代、皆人金たくさんに取扱ふといへども、あたいは古今同じとて、めでたからなり…」

と、「吾妻鏡」にある鎌倉初頭の物価を挙げて比較している。

 

なお「是は三十余年以前」とあるのは浄心の在世中の永禄五(一五六二)年頃にあたり、この頃の民百姓はまったく黄金など拝むこともできないことを示すものだ。

土肥金山など日本有数の金銀山をもっていた北条氏の臣たった三浦浄心すら、金判などみることさえまれであったとの述懐でもある。

 民百姓まで金銀がもてるよきご時世にしたのは、大久保長安という金銀山開発の鬼才天才と、これを援けた金掘りの力量才覚とみるべぎところだが、その長安一族の末路は憐れを極めている。

 

浄心ですら、壱両の金をみることのまれだった戦国時代の情勢にてらしても、甲州だけ黄金が通貨として民百姓の聞に社会性をもっていたかどうか。これを否定する資料は充分ある。

 家康が天正十九(一五九一)年の十二月から小判の鋳造を行う以前は、ほとんど貴族、社寺、高級武士のみがもつ寄進物・恩賞用とみて大過はあるまい。

 ことに、青木敦書(とんしょ)が、天正十(一五八二)年に、甲州から掻き集めた三十万両を吹き替えたという記録など、昆陽の目がくらんでいた、と「甲斐国志」はコキおろしている。

  

甲州金の歴史 四ツ~七ツ時まで石打ち、甲金の吹床から埋蔵金出る

 

泉昌彦氏著『信玄の黄金遺蹟と埋蔵金』「甲駿の巻」

   一部加筆 白州ふるさと文庫

 

甲州金は、叔父が甲斐の北杜市武川町柳沢の出身で、老中に昇進した柳沢吉保が宝永元(一七〇四)年に甲府藩十五万石に封ぜられた際に公許を得て、同四年から享保十二年まで、十一年間にわたり吹替えをおこなった。

甲金の吹床については、「兜嵩雑記 とんがざっき」に

「……佐渡町(甲府市)にて慶長小判を吹出す。是を佐渡小判といふ。甲州も同小判、これより佐渡町という。その後、宝永年中、甲斐守(柳沢吉保)殿、甲重全、甲安金を佐渡町にて御吹出しこれあり。また、天和年中の頃までは、東は金手町、一条町、和田平町、東光寺村、西は工町、伊勢町、近習町二ツにわかれ、東光寺村に場所をたて、四ツ時(九時)より七ツ時(四時)まで石打ちいたし候。貞享のころより御法度に相なり」とある。

 

この東光寺からでた埋試金は後記の通りだ。

 

元文四(一七三九)年には、横沢町でづく銭がつくられた。元文五年七月から翌年の五月まで飯田町でもづく銭が鋳造された。これが「飯田銭」といわれることは述べるまでもない。

 

江戸時代の歴史年表である「武甲年表」(斉藤月岑)にも、天正十元年の項で、

「十二月関八州通用のため大判小判を造らしめたまう」

とあり、以後も慶長金など貨幣の記録があるが、また異色の見聞集である津村涼庵 (一七一一~八八)の「譚海」にも、おおく貨幣の筆録があるので、貨幣研究の重要参考になる。

 

「(前文略)甲斐には、武田氏の時製ありし金、いまなお残りて甲州の内にては、いま時も文金、古金にさせ通用する事とぞ、壱朱金、二朱金、壱分金と三品なり。壱朱金といふは二朱の半金にあたるものなり。三品とも金にて鋳たるものなり。世に甲州金と称するものこれなり。いま時はこの金、甲州にても不足になりて、百両のうち二分ばかり甲州金を混ぜ使ひて、八分は文金、或は二朱銀を用ひる事になりたるとぞ、……」

 

なお「譚海」から拾うと、

「大判をはじめ吹立てられたるとき、壱万枚を限りとせられて、いま天下に通用するはこの数のほかかし。大判所持してもたしかかる持主書付などさしださざれば、両替屋みな引替へす。両替ことのほかむずかしきことなり。ただし大判の書判少しも墨色はげおつれば(落ちれば)通用せず、それゆえ墨色落消するときは後藤方へ相願い書判を書面しもらふなり。この書直し料大判壱枚に付金壱歩づつなり。今時は壱両も弐両も書き換え料取るなり。

古今は引替のこと両替屋にて難ぜず、但百両つき元文小判百六十五両に引替ふ。六割半の増なり。元文小判壱両に付き目方は三位五分あり、古金は壱両目方四分八分、当時南鐐(りょう)壱片の目方三匁七分なり」

 

と、江戸中期にすでに古今は稀少価値をもっていた。墨が剥げれば両替えが効かぬとあっては、湿気も持ち運びも不便なもので、通用の便には程遠いお宝であったようだ。

 

同記の甲州金と江戸判金の種類もくわしい。

 

「江戸に下金商売免許の者六十六人あり、上より符をたまわりおるなり。世問に流布する所の金の品三百六十五種ありとぞ。このうち古今と称する品四十三種、慶長金も此品のうちなり。慶長いらい通用金は四十同種より段々ありという。今世、通用の小判は銀を同歩ほど交へたるなりとぞ。甲州金壱歩たりとも潰す時は、公儀へ訴へ潰す事なり」

 

 以上のほかに、中国地方の銀札の不便や貨幣についての筆録は貨幣研究に重要な資料だか、またにゆずり、甲州金は金細工にかなり化けていたものだろう。

 万民が金銀を普遍的に持てるようになる以前の戦国時代は、甲州においても、ほとんど高級武士の恩賞用、寺社への寄進、兵器鉄砲などの交易通貨であった。






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最終更新日  2021年01月05日 14時07分25秒
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