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2021年01月07日
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カテゴリ:甲斐武田資料室
武田の女性たち

大井夫人 信玄の母

 信虎の正室で明応七年(1498)生まれ。父大井信達(さと)は信虎の領国統一に対抗したが、武田に降り、女を信虎に送り和を結ぶ。夫人と信虎の間に、晴信・信繁・信廉の男三人、女二人がいた。子供の教育には厳しく、また慈悲深い母でもあった。天文十年(1542)、夫・八の身に思わぬことが起きた。
わが子晴信「父を駿河へ追放」という事件であった。夫人は思い悩み、長禅寺の岐秀元伯にすがり読経三味、夫とわが子の無事を念じた。天文二十年(1552)五月七日、再び夫信虎と合うこともなく、五十五歳で世を去った。
法名は 瑞雲院殿心月珠泉大姉」である。
信玄の正室 都の名門三条家の姫君
夫人は京の公家で天皇に仕えた清華(せいげ)七家の一つ、極官(ごうかん)は太政大臣という名門三条家に生まれた。父は三条公頼(きみより)で、姉は細川晴元に嫁し、妹は本願寺顕如の裏方となった。
 信玄との間に義信・信親・信之の三人と、女子二人がいた。男子三人とも薄幸で、嫡子義信は父とのいさかいで自殺。信親は盲人、信之は早世した。女子は北条氏政と、穴山信君に嫁した。夫に先立つこと三年、元亀元年七月二十八日、五十歳で波乱の一生を終わった。
法名は「円光院殿梅岑宗大禅定尼」で、墓は甲府市岩窪町の円光院である。
                                      
戦国の悲運のヒロイン 諏訪御科人 信玄側室 勝頼の母

 夫人は諏訪頼重の側室小見氏(麻績)の生んだ子であり、天文十一年(1542)、十二、三歳で甲府に迎えられ父頼重を殺した信玄の側室となった。まさに戦国の悲運を一身に背負った女性である。しかし信玄の寵愛をうけ、やがてその胤を宿し、同十五年(1548)、武田勝頼を生んだ。夫人は後世、絶世の美人とうたわれ、小説などでは、由布姫・湖衣姫などの名まえで知られる。
 夫人は勝頼が十歳の弘治元年(1555)、二十四、五歳という若さでこの世を去った。・項墓は長野県・高遠町の臨済宗・建福寺にあり、法名は「乾福寺殿梅巌妙香大禅定尼」である。

武田勝頼正室 北條夫人 情感あふれる額文

 相模北条民政の妹で、天正五年(1577)一月、武田勝頼のもとへ嫁いだ。北条・武田の縁組みは劣勢の武田家に活力を与えた。しかしそれもつかの間。義弟木曽義昌が信長に通じ戦局は一変。夫人は武田家の行く末を案じ、武田八幡に願文を捧げ、勝頼に加護あれと念じた。同十年(1582)三月織田・徳川軍は大挙して甲斐に侵入。三日勝頼は新府城に火を放ち、小山田信茂の岩殿城をめざした。信茂も途中で離反。勝頼はもはやこれまでと、十一日、大和村棲雲寺を死地に求めたが敵襲にあい、田野の里で一族は命を断った。勝頼三十七歳、夫人十九歳、信勝十六歳であった。

武田信玄、三女 見性院 穴山信君室

 生年は不明である。母は三条氏といわれ、信玄の二女。武田親族の穴山信君に嫁ぐ。夫の母は信玄の姉。信君とはいとこ同志の結婚である。信君は武田滅亡の前、勝頼を離れ、武田の家名存続を願い家康に従い、京都に上り本能寺の急変で帰国途中、土民の一揆で横死。天正十五年(1587)わが子勝千代も病死。夫人は二重の不幸にあい仏 門に入る。家康は隠居料を与え見性院を保護した。二代将軍秀忠の四男幸松丸(のちの保科正之)を七歳までわが子同様に育てた。見性院は元和八年(1622)五月九日、波 乱の一生を閉じた。墓は清泰寺(浦和市)・平林寺(新座市)にある。

武田信玄長女 黄梅院

 天文十二年(1542)の仕十まれ。母は三条氏で、信玄の長女である。天文二十三年(1554)十二月、十二歳で相模、北条氏政のもとへ、甲・相のきずなとして嫁いだ。氏政は十五歳であった。
 信玄は息女黄梅院の安産を祈念して、弘治三年・永禄九年の二度にわたり、富士浅間社に願文を捧げている。信玄の親心を知る資料である。氏政との間に嫡子氏直ら四人の男子を生んだが、武田・北条両家の破綻で、永禄十二年、黄梅院は甲斐へ帰された。そして同年六月十七日、二十七歳でこの世を去った。法号は「黄梅院殿春林宗芳大禅定尼」である。
信玄の三女 真理姫 木曽儀昌室
 信玄の三女で生年は明確でない。弘治元年(1555)木曽義康は武田の軍門に降った。信玄はその子義昌に真理姫を嫁がせ、武田親族衆に加え木曽谷の守衛を命じた。信玄没後義昌は勝頼をきらい織田信長に通じた。真理姫は実家に対する離反と武士に有るまじき夫の行為を怒り、義昌の末子義通を連れ、木曽御岳に身を隠した。信長は義昌を先導に甲州に侵攻。勝頼は義昌の母、嫡子千太郎・長女三人の人質を斬った。義昌はやがて信長・秀吉にきらわれ領地を没収された。真理姫は御岳黒沢に隠棲すること六十余年。正保四年七月病没した。

信玄の四女 上杉景勝室菊姫

 永禄元年の生まれといわれる。母は油川氏で、信玄の第四女。織田信長対抗策として、信玄が結んだ長島顕証寺佐尭との婚約があったが、信長のために佐尭は滅び婚約は解消。松姫とともに信長によって心の傷を負わされた。兄勝頼の長篠敗戦で、甲・越同盟の政略として上杉景勝に嫁ぐ。上杉家では、甲斐御前・御寮人様と領民の親しみをうけ、家中に諸費倹約を奨励するなど、戦国女性の鑑といわれた賢夫人であった。慶長九年(1624)、京都伏見の上杉別邸で死去。四十七歳。法名は「大儀院殿梅岩周香大姉」

信玄の六女 松姫 信玄の六女

 没年から逆算すると永禄四年(1561)生まれ。母は油川氏で信玄の六女(一説には五女)。於松・新館御科人。仏門に入り信松尼とよぶ。七歳ころ織田信長の嫡男奇妙丸(信忠)と婚約。信長は信玄四男勝頼と、養女遠山氏を結ばせたが、夫人は信勝を生み死去。信長は武田との緑切れを恐れ、松姫との婚約を信玄に懇請した。元亀三年(1571)、三方ケ原合戦で信長は徳川方を救援。信玄は信長の行為責め断交。松姫の婚約も破談となった。武田滅亡後、八王子にのがれる。八王子に織物を広めた。元和二年(1616)、五十六歳で死去。墓は八王子市の信松院にある。





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最終更新日  2021年01月07日 05時20分29秒
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