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2021年01月07日
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カテゴリ:甲斐武田資料室
武田氏滅亡と社会混乱
 県史19『山梨県の歴史』山川出版社 飯田文弥氏著 一部加筆

 逃げまどう人々
戦争時に行なわれる行為に略奪があった。これはとくに武士に従った恩賞にありつけない者たちの大きな取り分であったため、参陣した者たちにとって魅力だった。中世には人身売買が日常的に行なわれ、隷属する人々が数多く存在した。こうした人々が供給される大きな契機が戦争だった。
天文五(一五三六)年甲州軍が相模の青根郷(神奈川児津久井町)を攻めたときには、足弱を一〇〇人ばかり捕らえた。
天文十五年に武田信玄は佐久の志賀城(長野児佐久市)を陥落させたが、このとき男女を生け捕りしてことごとく甲斐へ連れてきて、親類のある人は二貫、三景、五貫、一〇貫で請け戻された。
また天文十七年の田口城(長野輿臼田町)攻めにあっても、男女の生け捕り数を知れずという状況だった。
天文二十一年には安曇郡の小岩岳城(長野県穂高町)を攻め落とし、五〇〇余人を討ちとるとともに、無数の足弱を捕らえた。生け捕った者たちは奴隷として売れば金になるし、そのまま奴隷として働かせることもできた。まさに戦争は人を狩るときであった。
 武田信虎が国内を統一してから、天正十(一五八二)年の武田氏滅亡に至るまで、約五〇年間にわたって甲斐は戦場にならなかったため、結果的に略奪され、人狩りをされることはなく、甲州人はもっぱらこれを行なう側であった。それが逆転して、略奪をうける側になったのが織田・徳川連合軍による甲州攻めだった。武田氏滅亡の際の混乱は、長いあいだ平和を楽しんできた甲斐の住民にとっては青天の霹靂(へきれき)だったのである。
 全体としての混乱時期は一年という短いものであったが、その刻印は現在に至るまで甲斐の歴史に染みついている。領主である勝頼も、それにしたがった武士たちも、さらに百姓たちまでが混乱のなかで逃げ回ったのである。
 避難する場所
打ち続く戦争に際して、人々はいかにして命や財産を守っていたのであろうか。その一つが神社やお寺に財産をあずけたり、ここに逃げこむことであった。理由の一端は宗教施設がアジール (聖域・避難所)としての性格をもっており、ほかの者たちが手出しをしないとの社会的観念があったからである。
 ただし、そうしたアジール性を否定しないと、戦国大名は領国を均等にできないので、寺社への権力浸透に武田氏も努力した。天正九 (一五八一)年七月四日に武田勝頼が善光寺にあてた走書のなかでは、信濃の本善光寺から集まってくる僧侶や俗人が、罪科人を守ったり、そうした者の罰銭などをだすことを禁止し、盗賊をかくしたり国法にそむいたら厳科に処すとしている。禁止されている内容こそ善光寺のアジールとしての性格で、これを勝頼は認めなかったのである。
 武田氏滅亡に際して、恵林寺の快川紹善が織田信長に敵対した者たちをかくまったために、三門において焼き殺されたことは有名である。快川の意識からするとアジールである寺に逃げこんできた者を助けるのは当然のことであったが、天下を統一しょうとする織田信長にとってこれを見逃せば、また彼らが反乱する可能性があった。全国統一するために信長は権力の手のおよばない場所をなくさねばならなかった。山梨県で信長の評判がきわめて悪いのは、寺社に火をかけた
ことに一因があるが、信長の側には理由があり、それは武田氏の政策をさらに推進したものともいえる。
 寺社が財産をあずけたり逃げこむ場所でなくなり、武田方の城に逃げこめば城が落ちたときにどうなるかわからないなかで、地域共同体は領主の争いとは無関係な逃げこむための場や装置をつくることがあった。いわゆる村がもつ城、百姓のもちたる城であるが、城を築くには資金が必要で、動員する人足も多くなければならなかった。それができない村では、山に避難小屋を用意して急速逃げこんだ。いわゆる山小屋である。
 甲斐や信濃において、とくに山小屋の姿がみえるのは、天正十年の武田氏滅亡のときだった。『甲陽軍鑑』によると三月三日の朝、地下人はことごとく地焼きをして、山小屋にはいるといって、西郡・東郡、北は帯那(甲府市)にはいり、御岳、さらには勝頼に謀反した穴山信君の知行地にしりぞく者もあったという。韮崎市の風越山には、この混乱のなかで藤井の諸村の人々が兵乱をさけたという伝承が残っている。
 『信長公記』によれば、二月に信州伊那谷の百姓たちは自分の家に火をかけて、織田氏のもとにでていった。家を焼くという行為は犯罪などをおかした場合の処罰にもあり、自分がこれまで領主としてきた武田氏との緑を切ったことを明示するための手段だったのであろう。甲斐の百姓が行なった地焼きも同じことと考えられる。
 反乱する民衆
山小屋に逃げこんだのは百姓ばかりではなかった。武士たちもこの混乱のなかで、百姓たちが日頃年貢をとられているので、この機会に地頭の財宝をかすめて取り返そうとし、あるいはその妻や子を奪おうとしたので、西郡に知行をもつ人は東郡の山にはいり、東郡に知行をもっている人は逸見筋に逃げたという。
 武田氏滅亡の折、初鹿野伝右衛門は川浦(東山梨郡三富村)という恵林寺の奥山にはいったが、鶴瀬(大和村)に進もうとしたところ、村人たちが伝右衛門の妻を捕らえて越してはならないといった。このために彼は鶴瀬にいけなかった。こうした民衆の反乱は勝頼のもとでもおき、天目山でも辻弥兵衛が大将になって郷人たちが勝頼に謀反をおこして、彼に矢や鉄砲を打ちかけた。
 民衆も武田氏滅亡の混乱に乗じて、少しでも自分の立場をよくしようと、このような行動にでたのである。当時の百姓たちは現在の我々が考えるほどには、武田氏との結びつきを感じていなかったのかもしれない。
武田氏を滅亡させた織田信長は、甲府に着くと、武田家の侍大将衆は皆お礼を申せと申し触れ、さらに甲州一国をくれようとか、信濃半国あるいは駿河を与えようといった書状をだした。勝頼の親類衆をはじめとして引きこもっていた者たちが、これを信用してお礼にでていった。この結果、跡部勝資は諏訪で殺され、信玄の弟の信綱は府中の立石で殺された。最後に勝頼を裏切った小山田信茂、信玄の弟の子である武田左衛門佐、信茂の一族の小山田八左衛門、小菅五郎兵衛は甲府の善光寺で殺された。一条氏は市川(市川大門町)で徳川家康によって殺された。長坂釣閑斎父子は府中の一条氏の館で殺された。その他の者たちにも同様の運命が待っていたのである。
 ところで、この混乱のなかで武田氏時代よりも上昇していく者たちもあった。その一例として九一色衆の場合をみてみよう。武田氏を滅亡させてから、織田氏本隊や徳川家康軍は中道往還を帰還した。徳川家康が帰る折、九一色郷の人々は駿河の根原(静岡豊島士官市)までお供したという。とくに本栖(上九一色村)は信長の宿泊地に選ばれ、家康がその御座所づくりにあたったが、ここの領主は渡辺囚獄佐守で、すでにこのときには家康と結びついていたのであろう。
 天正十(一五八二)年六月二日、信長が本能寺の変で亡くなると甲斐は混乱におちいった。七月三日、家康は甲斐にむかったが、このとき九一色衆は率先して彼に属した。七月六日に家康は渡辺守に、のちに九一色衆十七騎とよばれる一七人と、歩行同心二〇人を付属させ、甲斐と駿河のあいだの通路の警護を命じた。そして七月十二日には九一色郷の村々に諸商売免許の朱印状が与えられたが、これは近世九一色郷商人が広く活躍する根拠となった。
一方、九一色衆に対しては九月以降に所領が安堵されたり、あらたに付与されたりしている。渡辺守を別とすれば、地元民のほとんどが武田民時代は九一色郷に住んだ名主クラスの者で、本来的な武士ではなかった。それが天正十年に徳川氏と結んだことによって武士となっていったのである。
 宝永元(一七〇四)年に甲斐を領有した柳沢吉保の先祖は武川衆である。武川衆は本来武川筋に住んだ土豪で、武士の家は少なかった。武田氏の滅亡の折にはそれぞれ山小屋にかくれた。吉保の先祖の兵部は餓鬼の嗌(のど)という場所に兵火をさけたという。武川衆も本能寺の変後に徳川家康に仕え、甲斐を北条氏直と家康がとりあったときに忠節をつくし、武士にとりあげられた。
 武士やその下に位置する者たちにとって、武田氏滅亡は大きな変化をもたらしたのである。





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最終更新日  2021年01月07日 05時48分54秒
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