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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年01月07日
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カテゴリ:甲斐武田資料室
武田勝頼の最期を綴った比類の手記 理慶尼手記
この書は後世の作である。(山梨県歴史文学館)

理慶尼という人

 理慶尼は勝頼の乳母にあたり、武田信虎の弟次郎五郎信友安芸守の娘で「松の葉君」とよばれた。父信友はいまの葡萄郷勝沼町に屋形して「勝沼殿」といわれた。信玄は叔父にあたる信友の女に手をつけて、この女を古籠屋小路に
妾宅をかまえて因っておいた。これは甲斐国志にあるのだから間違いはない。これが松の葉君かどうかは不明である。古籠慶小路というと、ぶどうと関係があるようだが、その頃の古名は失われている。
 理慶尼の父信友は、永禄三年に、敵方の武州藤田右衛門に内通したかどで、同年十一月三日、信玄に討たれた。本によって信虎に討たれたとあるが、信虎はすでに天文十年に駿河へ追われているので、信友の命日からおして信玄に
討たれたとみるのが正しいだろう。
 理慶尼は、信友が討たれたとき、雨宮某氏に嫁いでいたが、夫は逃げ去りじぶんは相州へ走って出家していた弟(信友の男子)を頼って、相州の寺に身をかくしていた(甲斐国志)という説もあるが、理慶尼は父が討たれると、大善寺の護摩堂で慶紹を師として髪をおろし「桂樹庵」と号した。理慶尼はこのとき懐妊していて間もなく一子を生みおとした。この子供の子孫は江戸時代の享保年中に断絶した。いまの大善寺門前の数戸はそのとき理慶尼に従って来た従者の末である。
天正十年三月三日、新府城を焼いて岩殿城へ向かった勝頼と夫人北条氏は、一夜桂樹庵へ宿をとり、のち間もない十一日に、武田氏は亡びた。この最後の模様を描いたのが「理慶尼手記」といわれるもので、二巻のうち一巻は喪われ、一巻は写本、いま高野山引導院に一通、大善寺に一通残っている。
理慶尼は慶長十六年(三五九年前)八月十七日八十一才で死亡し、基は大善寺にある。この理慶尼手記を通読すると、室町末期-江戸初期にでた御伽草紙風に書かれている「楊貴妃李夫人いかでかこれにまさるべき」といった模倣が目立っている。後世の偽作という点、文中いろいろと疑点の多いことは確かであるが、これはひとまず置く事にしよう。
 田野から逃れた武田一門

 さて現大和村田野は、一般に武田終焉の地といわれている。しかし勝頼の亡んだとき、田野から遁れた武田氏に武田重石衛門尉がある。重右衛門尉はいまの能代市福浦村の海岸へ流れつき、一族は、檜山城安東方の城代大高相模守に助けられ、大高の女と重右衛門尉の嫡子が婚を通じている。結局重右衛門尉は慶長十年(一八〇五)に、一揆のために襲われ自害した(以上は菅澄遊覧記巻四にある。)武田氏が終焉したということはこれで訂正しなければならないし、四集、筆者の秋田県の取材でもっと明らかにする。このように郷土史のひろがりはどこまでも涯しない。
 土屋惣三昌忠

 勝頼のさいごを見守った忠臣といわれる惣三は昌恒、昌雅などの名も見える。理慶尼手記中に、惣三が、じぶんの男子を刺し殺し、二歳の幼女をつれて女房を馬に押上げて逃すくだりがある。惣三の女房は、駿河の実家岡部丹後守のもとへのがれて、岡田竹右衛門(松平周防守家臣)へ再婚した。惣三の女房が田野から、連れて逃げたうち男子平八郎は、岡部忠兵衛真規に育てられ、天正十六年六月十二日、家康に拝謁し「阿茶局」がそののち平八郎を養育した。無類の忠節者惣三の遺子平八郎は、のち民部小輔忠直と名のって総州久留里となりその子孫は栄えている。惣三の没年二六歳。なお手記にある千寿の前は平垂衡の妾で駿河の手越にいた遊女で、重衡の斬殺後は善光寺の尼となったとある。(東遊雑記)
 以上のように分明している文献の上からみて、理慶尼手記は勝板の最期を正確にとらえた手記とは言い難いのである。結局江戸時代の庶民文学として「勝頼草子」ともいうべきものである。冗文が多くわずらわしい点で、源氏物語、栄華物語のような独特のかおり高い古典とは言いがたい。しかし勝頼の最期を綴った古文献として一読の価値はある。参考のため一部原文を載せた。なお
文章の繋ぎにおかしなところが目立つが、これは原文のままにした。

理慶尼手記 原文のまま 句読点加筆

此たけた殿ともふをしに、てんき五年ミ川のとのみ、志ゆちゃくいのたいし、のちの連いせんゐん七十代の御加とのをんとき、むつおくにさたとう、むねとうほこり、十二年のいくさあり、そのときのたい志やうぐんは、いよのかみよりよし、御ちやくし八まん太郎、二なん加も二郎、三なん志んら三郎む加わせたまひてまろばしたまふ。加のむ弥とう、さだとうともふをしハ、おもて三ぢやくよほう、声百厘にきこうるものなり。加ゝるあくじのものうしないたもうとて、ものふというちをたまわり、志んら三郎の御ちやくしにてましませば、たけたの太郎ともふすなり。加川よりまて三十一代にてわたらせたまふと、もふしつたへけるとかや。ゑいくわをきわめ、世をたもちたもふ事またたくい阿り加たや。御いたわしや、きたの御阿そびにはせいようの、阿したには花鳥に御心をそミ、いろ弥をおしミ、このもとを志たい、うたをよミ、志を津く里、
又なつきにけ連ばうの花ほとゝきす。すすしきかたをもとめ、まつ加弥のいわいのミつにたちよりたまひて、たちくるなミにことのはをよせ、阿きハさやけき月をともと志、ひわこと、こんぢやう、ひち里きそ路へ、おもひおもひの
屋加具の阿そび、津まをとけだ加く引ならし、てんにんも屋うかふなす屋とば加りな里。阿き加ぜこ加らしうちすきて、ゆきのころにもなり志かは、加ゝらんときのものまとて、きゝのこすゑに津も連るを、はなまちおそしとな加め
たもふ。されども加川よりハ姉とうのことわすれたまわず、うちふしたもふにも、よろいのそでまくらとし、おきふせたもふにも、そのことのみ、けんとうそうせつふううをいとわず、ゆミ屋のかたゑとおもむきたまへ志かとも、
ときうつりうんめいつきはてたもふに屋、きそとのむほんのおこし、おわりのくにをたの加つさの加ミのふなかへ、ちう志せるあいだ、ミ屋このせいを引くし、きそどのをさきとしてうってくたり、天正十年みつのゑうま三月十一日たのの山辺のかっせんに、うちまけたもふそ阿われなり。御いたわしやな、むけなくも、御うちの人のかわらすハ、たとゑ天下勢きたるとも、五とせ十とせのそのうちハ、かかるほどにはましまさし。彼加川よりともふせしは、心たけたのいゑなれハ、人にはすくれてましませとも御内のさふらいことこと御心加わりをもふされければ、ちからにおよばせたまわずされどもたてを御まくらとさためさせ、たへてい従加たへもおちさせたもふべき御心はゆめほどもましまさ佐りしに、ここにくにうど、お屋またともふせし人、ははのにかうを人ちゝにとられまいらせ、それ加へさんは加りことに、おふせは、さこそそううらえとも、御身をまたくもりたまえ、みつからか阿里所、徒流のこふ里ゆわとのさんと申すは、およそ天下そむき候ともひともちもつ遍き山にてあり、それへ御こし志あ留遍き 以下略
 理慶尼手記 意訳文
 この武田殿と申しますのは、天喜五年(九一三年前)、朱雀院の太子でのちの冷泉院七十代の御門の御時、陸奥の奥に阿部貞任、宗任という悪者がはびこり、前九年と後三年にわたるいくさがありました。そのときの大将軍は伊予守源頼義、御嫡子八幡太郎源義家、二男加茂二郎義綱、三男新羅三郎源義光が攻めつけて、ついに亡ぼしました。かの宗任、貞任と申す者は、顔が三尺四方、声は百里に聞こえるという者でした。そのような悪事をはたらく者を滅ぼしましたので、武という字をたまわり、新羅三郎の御嫡子でしたから、武田の太郎と名のりました。勝頼までは三十一代にわたると申し伝えているということです。
 栄華をきわめ、世の中を平和にたもったことは、たぐいのないありがたいことですちそれなのに、御労(おいたわ)しいことには、北のお遊びには青陽の(春)あしたには花鳥に心をうつし、色音を惜しみ、木のものをしたい、歌をよみ、詩
をつくり、又夏がくれば卯の花、ほととぎす、涼しいところを求めて、松が根の岩井の水のもとに身をよせて、たちくる波にたよりをよせ、秋は冴えた月の光を友とし、びわ、こと、こんじょう、ひちりきをそろえて、おもいおもいの
楽器をとっての夜のあそびは、爪おとも気高く弾きならす管弦に、天人も影さすばかりでした。秋風、木枯もすぎ去って、雪の降るころともなるとこのような退窟の間は、大木のこずえに積もった雪をながめて花咲く春のおとずれを
お待ちになりました。
そのようなくらしをなさっていても、勝頼は、武道のことを片時も忘れず、寝るにつけ起きるにつけ、鎧の袖をまくらとして、そのことだけを心掛けておりました。厳冬、霜雪、風雨をいとわず、何があっても弓矢をかたわらからはなさないように用心しておいでになりましたのに、時がうつると、運命が尽きたのでございましょうか、木曽義昌が謀反をおこし、尾張の国の織田上総介信長に内通し、都から軍勢を引き連れて、木曽殿を先として討って下り、天正壬午年(十年)三月十一日、田野の山辺の合戦で負けてしまったのは憐れのことです。お痛しいことにはなんのわけもないのだから、内々の侍たちさえ心変りしなければ、たとえ天下の軍勢が一度に攻めてきたとて、五年や十年は、このような負け方はなさらなかったでしょう。勝頼と申すのは、心は武田の伝統を継ぐりっぱな家の人ですから、人にはすぐれておりましても、身内の侍がすべて心変りしようとも、力をふるうようなことはせずに、館を枕に討死を定めて、どこへでも落ちていくような醜いことは夢ほども考えませんでした。
ここに田舎者の(国人)小山田(信茂)と申す人があって、自分の母尼公を勝頼の人質に捉えられているのをなんとか取り返さんとして、そのはかりごとがあって申すことには、この新府城にて、討死しようという勝頼に対し、
「おおせはごもっともの道理でしようが、御身だけは安全にまもってください。私の居ります都留郡の岩殿山と申すのは、およそ天下を敵にしたとても、ひともちは持つような要害城です(関東三名城)それへお越しなされ。」
と申されたところ、この土壇場にいたって、どうして仇に後ろを見せようぞ。ここにて敵を待ちあわせようと、大変にお腹を立たれました。
 小山田が重ねて申すのは、
「恐れながら、命を全うする亀は、必ず蓬莱に会うという中国の故事がございます。さあかの岩殿の城へお越しください。その方が危ない外に居られるほどのことはありますまい。」
と申し勧めましたが、勝頼はご返事もありませんでした。小山田は偽の涙を流して申しますのに、
「御大将はそのように申されましても、御台所(夫人北条氏)はまだ蕾のように梢で春を待ちたもうほどの若さ、また若君さまはいま咲いたばかりの花、御台所さまといい、若様と申せ、お心を強くもたれるにも、折によりけりでございましょう。」
とかきくどき申し上げますと、勝頼も、げにそうかもしれないとおぼしめして、韮崎の館(新府城)を立ち出でました。
 御労しいのは御台所さまです。古府中から新府城(韮崎)へお移りの時は、金銀珠玉を散りばめたお輿車はあたりに輝くばかり、御使いになっている供の老は数しらず、古府より新府の間三百余丁という沿道をよびつるさしつる、賑わしく移らせたまわりました。まだ頃は十二月二十四日であったというのは、早くも明ける弥生(三月)には、このように城から落ちていくほどになろうとはなんという変りようでしよう。御台所は、お名残りおしそうにそう申されると御床に倒れ伏して、涙を流して仰せられますよう。ここにありし日のことは、さながら春の夜の夢ほどにもおぼつかないつかの間でした。とこのように詠じたまわったのでございます。
 うつつには覚え難きこのところ、仇にさめぬる春の夜の夢。とあそばして、城を出られるときは輿車にものらず、まだお名残り惜しかったのでしょう。
 春霞たちいずれどもいくたびか、あとをかえして三日月の空
弥生三日のことであったから、このように詠ってゆかれたのです。この頃から人人の様子がただならぬ気配に、勝頼はご心配になられ、御馬も召さずに立たせられたあと申しますのに、私はこのようにきいている。
法華経五の巻に、変成男子ということばがある。かたちこそ女人に生まれあわせても、心は男子には決して劣ってはいない。勝頼がすわと申すなら、まず我れさきにとおっしゃれ、お守刀に御心をかけさせ(この辺がおかしいつなぎ)、落ちていかれる道すがらはむかし源平両家の落合うと申すのも、これにはどうしてまさっていよう。その日暮れ方になった頃、柏尾(勝沼町大善寺)と申す所へ着かれました。御台所の仰せられますようは、この寺の御本尊は、薬師如来と承け賜わっています。こんやはここにて通夜をして、のちの世を祈ろうと思います。南無薬師璃瑠(るり)光如来。自ら最期のすでに近付いたことを悟ったご様子でした。
のちの世には極楽に咲くハスの花のひとつに結ばれる経となしたまえと、柏尾は、韮崎の東なれば、東方浄瑠璃光世界を心にかけたまひて、このように詠じたまわれました。
 西を出で東を出でて後の世の宿か(借)しわ(柏尾にかけて)をと頼む御仏。夜もすがら祈らせたまわる所に、ちど里堂の者共(大善寺の山伏房)が、じぶん達で家に火を放って、御心を騒がしたまいますと、その火の光に驚き、たまたま召連れてきた人も、妻子のことをおもい、論ぜんけんは、(互に論じ合って落ちるか、勝頼に従うかで争った。)論じ合った末に、身を忍ばせてそれぞれ落ちていきました。ややあって、勝頼は、誰かあるかと、声をかけましたが、すぐに御返事する者もありませんでした。重ねて呼びましたので、土星惣三昌忠が、なへ(すぐそば)にございますと申しますと、誰と彼はどうしていると、部下の消息を尋ねますと、誰はいつ頃より見えず、この者ほ何時頃から見えませんと、逃げ失せた者の名をあげると、居合わせたものたちはいずれも心細くおぼしめしました。すでに夜も明けましたので、駒こういわみかやど
(駒飼岩見宿は現大和村)へ、いで立つことになりました。
 お痛わしいことです。女房達(家臣の妻子を伴っていた)は昨日まで馬に乗って落つることさえも憂いかなしい事と思われたのが、今日はその馬の轡をとる者さえ落ちてしまったので、みんな徒歩や裸足のまま歩みました。(大和村に勝頼みずから馬もなく徒歩で歩いたという山の横手があっていまそこを御徒横手という)
 お供の人もなおまた少なくなったので、お心細くおぼしめしたのでしょう。路次にてこのようにうたいたまわれました。
 行く先も頼みぞうすきいとどしや心弱身が宿りきくから
註、行く先も頼みぞうすきいとどしや(いとわしいこと)
心弱身(岩見宿へかけて)が宿りきくから。

とあそばし、三月の四日には、駒飼岩見宿へ着きました。心変りをしてい
た岩殿城主小山田信茂の思うことに、よい機会もなし、母とともに、都留郡へ行かねばとおもっている所へ、土屋を奏者(口上)に、ここまで御こしなった以上は、かくごがあってのこと、かの都留の郡の岩殿山にお越しなさるのが
当然と存じますと、申して頼みたてまつりました。それにつきましては、信茂の母の御暇(人質解放)のことをよろしくお頼みいたし、もっともの仰せとお許しあれば、御先に参って、御台所の御座の問をしつらえ、御迎いに参りますと申されて、信茂の口上をつたえますと、きこしめした勝頼は、嫌嫌(不安で)渋っていたが、信茂がああまでいっているその心を損じてもいかぬからと、仰せ有って許されました。信茂は母もろとも七日の夜半に紛れて去り、御迎いに参るかと持ち詫びていましたが、そのまま見えません。それもその筈です。笹子峠の上には、あまたの武士が陣取って防備し、都留の郡へは一歩もいれなかったのでした。御使いにいった者が帰って、このことを申上げると勝頼はこれを聞いて、信茂にたばかられたことの口惜しさよ。と、天にかけ上り、地に沈むばかりにお腹を立てられましたが、もう後の祭りでどうにもなりませんでした。
 小山田心変りの由を伝えきいた、陣中は、にわかに騒ぎ立って味方は当たりの家に火をかけるなど、気の狂ったような様子にて、目も当てられない状態となってしまいました。まったく了簡のない有様に、天目山へ御越しなされてひともちもたせようと思召し、すでに駒飼をい出させ賜わりました。村の小屋の中の者共らは、こなたへお越しなされんこと思いもよらずと、あまたの百姓口をそろへて勝頼方の軍勢がこないよう払防ぎました。(百姓たちがこぞって戦火を避けるために、殿さまを追い払ったのである)勝薪軍は、その様子をみて、ここかしこに戸まどって立ち竦みうごけません。これこそ籠のうちの鳥
か、網代の中の魚さながらに、洩れて落ち行く方もありませんでした。
田野のさいご
 ここにわずかながら身をよせられる田野と申す所があり、勝頼はそこへ御馬を寄せてやすらっておりますとき、御台所さまが仰せます様は、このような野原の有り様は思いもかけませんでした。こんな有り様になると知っていたならば、韮崎の新府城においてどんな風になろうともよろしかったものを、これまで来てしまって恥の上に恥をさらすことはなんのくやしいことでしょうと、御涙を況しておおせられますと、勝頼もそれを聞いて、じぶんとてそう思わぬではないが、あの小山田にだまれたとは申せ、それも御身がお痛わしいと思うてのこと。その次第はどうしてかと申すに、かの都留郡と申す所は、相模に近い所、どんな風の便りにも、御身をふるさとの相模(勝頼夫人は北条民政の娘) へおくりとどけたなら、わが身はどうなろうともと思いしゆえですと、おっしゃられると、御台所はこれをお聞きになると、これは又どうしてそのようなことを申されまする。たとえ人をつかわして、輿車で古里へ送ってくださろうとも、帰ろうなどとは思いもよりませぬ。あの世までもご一緒の縁とおもい定めた心のうちは、紫に染まった天国の雲の上までかわりませぬ。その固い契りは、玉をつづる強い緒のように、ある限りはもちろん切れて後とてもかわりましょうぞとおっしゃられますと、勝頼はこれをお聞きになって、
「見上げた心掛けを申してくれたものよ。御身のおこころに二心がないからこそそのようにりっぱなことを申してくださるのだが、そのりっぱな心掛けのそなたのいまあるところは、このように見苦しいところであるとは、と仰せられ、なおある文でこんなことをいっている。三界に安らかなところはなく、火の中に住んでいるようなものだ。いづれをみてもむなしいものと思えば、どこに定めて身をおくところがあろうや、ただ迷いの中の戯れにすぎないものよ。」
とおっしゃられました。御台所はこれを聞かれて誠にごもっともですと、この上うに詠じられました。
 野辺の露くさばのほかに消えてのち、たいあらばこそたき所いる
(体があれば露とちがって香をたいてくれる墓所へも入ることができるといった意味)
勝頼はこれを聞き、喜んだり、また嘆いたりしていられるところへ人が来て、敵ははやくも善光寺辺まで参りましたと申されると、最期のお盃をと申しました。さし上げますと、まず御台所が取りあげたまわり、勝頼に酒をさしたまい、勝頼は御台所へ御盃をさし、御台所の御盃を御子信勝にさしたまいました。信勝の御盃は土屋昌忠にくださいました。最期の盃がすんだあとは、おのおのの心もさまざまに酒もなかばになったころ、土屋は自分の子供を近づけて、徳利をたてなおして申すことに、このように惨めな野末の御ありさまをみたてまつっていると、も乱れ、いくじもなく肝も潰れて眼も眩むばかりです。
このようになったのもどういうことかと申すに、武田家の御身内の方々のお心変りのためです。
そんなことでわたくしめの心も変りはしないかと心にかけていられたでしょう。わたくしも朝夕そのことばかりに気を使ってまいりました。そんなことがない証拠をお目におかけいたしましょうといって、五つになったばかりの総領に向かっていうことに、おまえはいまだ幼少の身なれば、人がつれにならなければ歩むことはできまい。御先に冥途へ罷りこし、六道(仏教でいう迷いの世界、ここでは来世)ちまたにて、殿さまを待ち奉れ。父もまもなく殿に御供していくから、西へ向かって手を合わせよ、それから念仏を申せと言いつけまし
た。さすがにりっばな父の子であったので、若は承知いたしましたと申しまして、楓のような手を合わせ、念仏三べん申しますると、腰の刀をひんぬいて、心もと(心臓)に押しあて、分別のある顔に笑顔を浮かべてその子を投げす
てました。勝頼はこのありさまを御覧になって、あまりにも可哀想なことを致したものよ、そんなことをするなら最期の言葉をかけてやったものを、とおっしゃられて御泪を流して申されますると、殿の御前にいる人々まで、みな小手のくさりを濡らして涙を流しました。
 御台所はこの由をきかれ、なんと土屋がおさな子を害しつるか(殺してしまったか)あわれなることを……とおっしゃられて御衣裳の袂を顔にあてたままわれて、しばらくは身な投げたままでいらっしゃいました。ややたって御台所は、子供には甘い母の心のうちを思えば、なんと不憫のことでしょうと、その子のことを心にかけて、母の方へつぎのような歌をおくられました。
 のこりなく散るべき春の昏れなれば、こずえの花の先立つは憂き
と、たまわりますと、まだ土屋の女房はわが子が父の手にかかったことを知らずにおりましたが、御詠歌の由を承け賜わって初めてそのことを知ると、おどろきとかなしみの心をすこしでも立直して三度頂き、次にくれるあいだに、おそれながらも御返歌申しますと、このように詠じられました。
 甲斐あらじ つぼめる花は先立ちて 空しき枝の母のこるとも
 そののち土屋は女房に向って申しますのに
「死んだ若の妹二歳になったのは、おまえにくれよう。いず方へでも連れていって、もし命があるならば、尼にでもして父兄の忘れがたみといたされよ」
と言いますれば、女房このことばを聞いて、
「それはおろかしい人の言いごとです。あの若に死なれ、御身に捨てられて、どうしてこの先世の中に永らえていられましょうぞ、おなじ道を行かせていただきます。」
とかき口説いて怨みを申しますると、土星重ねて言うことに、おうな(女) のわけへだてのつかない女とはこのことをいうのか、あのみどりごを養育し、草葉のかげの父兄のもとを訪ねさせる方が、どれだけりっぱな忠義か、と言いましても、女房はさらに聞きいれませんでした。すると土星は頼もしい下僕をよび、
「あの女の親子をつれていづこへでも忍びおき、尼にでもした上この土星の草葉のかげを問わせよ」
と言いつけますと、その男の申すことに、
「これは無念のことをおっしゃられまする。どこかへ行ってしまっては、いつの用に立ちましゅうぞ、おもいもかけぬことです。
とききいれずにいますと、土屋は自分で馬に鞍をおき、女房を抱き乗せ、馬の三途に鞭をあてて十町ばかり追出してから戻ってきました。
 また御台所も御最期が近づいて参りましたので、御心細くおぼしめしたのでしょう。ふるさと相模へこのようなみじめなありさまになったたよりを、たとえ雁に托しても伝えなければと、おぼしめされてこのように詠じたまわれました。
帰る雁板むぞかくの言の葉を、持ちて相模のこうへ落とせよ。
註、こう(向こう)
またどうにかなってしまわれたのち、御兄弟の御嘆かれることをお考えになって、
音にたててさぞな惜しまんちる花のいろおつらぬる枝のうぐいす
註、音にたてて(声を立てて)
と、うたわれますと、御前なる女房たちも、ご最期の御供申さんとてこのようにうたわれふるまいました。
 咲くときは数にもいらぬ花なれど、散るにはもれぬ春のくれない
そうこうてしいる間にも敵はまじかく来たよしを申しますると、御台所は、法華経五の巻を奉れと経を手に、御心しずかに読経いたしました。
夫人の壮烈な最期
 既に御経もすぎますると、勝頼、土屋を召され、御台所のご最期のご介錯をと仰せられますると、土屋は承け賜わりましたと申して御前に出ましたが、はじめて見奉るに、御歳の頃ははたち前と見られる年頃にて、いろいろの
装束を召された容顔美麗のありさまは、むかしの楊貴妃、外織姫、吉祥天女といえども、これほどには艶めいた容貌ではなかったでしょう。どこへ一体剣を突き立てたらよいのでございましょうと、夫人の美しさに、呆れ果てて因っていられますと、御台所は御みずから御守刀を御口に含ませたまいまして、うつむきに伏したままいました。勝頼はこのありさまを御覧になると急ぎ立って御介錯をいたし、その御死骸に抱きつき、しばらくは物もおっしゃられずにいられました。土星三兄弟は、御供をしてきた女房連の介錯とりどりにいたしました。
 この算を乱したありさまはたとえようもございませんでした。昔平治元年三月十五目、待賢門の戦のとき、平家は十八万旗、源氏はおよそ三百余旗にて討ちなされた時、御子の千寿の前が、竹の小御所を忍びでて、父義朝の御前にでて仰せられましたのは、
「両家を見くらべまするに、平家は出る日、咲く花ですが、源家は出ずる日散る花です。義朝のどうなってしまわれたあと、名もない者の手にかかるのもくちおしいので、義朝の御手にかかっても助かろうとは思わず、最期の装束を着てまいりました。」
とおおせますると、義朝これを聞いて、立派のことを申す千寿かなと、自分もなるほどと思ってか御涙をながしました。しばらくして義朝は乳人の鎌田はどこか政清参れと呼び召されて、南表さんごのさくらの元に敷皮をしき、千寿の前をうつしたてまっておおせまするに、わが子であるが美しいものだ。満月の山の端に出る月の影もどうしてこれにまさろうかと、りっぱな翡翠の簪まきあげてさしあげました。義朝は千寿のそばにさしより、申しますことに、おまえはどういう因果で義朝の子なぞに生まれて、このような辛い目をみるのであろう。こんど生まれかわるときは、どんな小やしい男の胤で、いやしい女の胎内にでも宿って、百年のよわい(とし)を保つようにとおおせられ、電光のうちにつるぎを振らせられたとみるや、花のようなる千寿の御首は前の方へ落ちました。義朝はその首に抱きつき、しばらく消え入るようにがっかりなされました。
また元暦元年三月七日、一ノ谷のおちたおなじ十八日には、讃岐の八島が墜ちましたが、このときどれほどの人が死んだと申したとても、これにはどうして勝りましょう。ようよう勝頼御死骸に別れ賜わって申しますのには、いかに土屋、自分も最期は同じ時刻にと思うが、敵を待合わせようと思う。じぶんから討ってでるのは、家法に背くことだけれども、このような状態ではそれが赦されないこともあるまい。と申しました。又御子信勝にむかい、人の家が栄え又亡ぶのは、春秋のようなものであるが、おまえはなんと無残な運命よ。まだ齢も若いので、武田の名跡を継いではいないさきに、こうなったのは、まだつぼみの花が春にも会わずに嵐にもまれて落つるようなもの、まことに無念であ
ると申されますると、信勝はこれを聞いて、にっこりと笑い、
「いやそんなことはなんでもございませぬ。たとえていうなら、どんなに専念してもとうとう朽ちしまったのです。橿花が一日咲いてしぼんでしまっても、じぶんでは栄えたつもりなのです。早くもおそくも、どちらにしても永久にのこるものは一つもございません」
と、このように詠じました。
 まだき散る花と惜しむなおそくともついには嵐の春のゆうぐれ
註、まだき(早々と)

 勝頼この言葉きかれ、無言で感じ入ってしまい、誰に似てそのような力強い心をもっているのかと、ふかく御涙にむせびたまわれて、御返事もできないでいるところへ敵が来ましたので、何れも刀を抜いて立ちむかい、さんざんに戦いました。土星兄弟三人もおなじく戦いながら先へと進み兵どもをことごとく滅ばしますと、うしろにひかえていた軍勢もこれをみて、支えていますと、自害にはよい時刻ぞと仰せられて、さあ土星敷皮をなおせと申して腹召されようとおおせられると、土星は承知しましたと敷皮を奉って御介錯に参りました。
 勝頼はこれに直らせると、ご辞世と思う歌をこのように詠じました。
 おぼろなる月もほのかに雲かすみ、晴れてゆくへの西の山の端
とあそばされますと、土屋もとりあえずこのように一句参らせました。
 おもかげのみおし離れぬ日なれば、出ずるも入るもおなじ山の端
そののち、毎自作是念、何以令衆生、得入無上道。即成就仏身、この経文を唱えられて、年三七と申す若さで、田野の草葉の露と消えてしまわれました。土屋は御死骸にいだきつき、やがてお供申しますとて、深く涙に沈みました。
土屋兄弟の討死
 信勝の御介錯には土屋の弟があたりました。信勝の辞世は、
 仇にみよたれも嵐のさくら花、咲き散るほどは春の夜の夢
弟の土屋はこの歌をかえして、
 いるほどもおくれて世の中に、あらしのさくら散るは残らじ
と申しました。弟の土星は信勝に、いつもより美しいことです。面映ゆく、眉に薄化粧をし、いろいろの装束を召し、楊梅桃李の花がひらき、今張月が沈む風情、ただただこの世の人とはとうてい見えません。さながら天人のかげさすようにおぼえます。雪のように白い肌えが顕われ、何処へ剣をお立て申しましょうと戸惑っていると、願似此功徳、普及於一切、我等与衆生、皆施倶成仏我人成仏とこの経文をとなえたまわれ、御歳十六歳にておなじ野辺の草葉の霹と消えられ賜いました。弟の土屋は御死骸にいだきつき、しばらく消え入るようにいたしたとか、そののち土屋の兄が申されるのに、勝頼、信勝御腹を召されてしまった。思い置くことはない。いざ敵の中へ乱れいり、討死しょうと、うち分かれて三人打物抜き、敵中へ乱れ入り、火焔のようにすさまじく戦い、多くの者を亡ぼしましたので、向う敵はありませんでした。兄の土星が言うことに、
「とてもながらえられる身ではない。あまり人を殺しては、わが身がのちの世に罪をうけよう。いざ刺しちがえて死のうぞ。それがもっともよ。」
と、兄が二十五、そのつぎ二十二、三男十九にて刺違って失せてしまいまし
た。三人の老共のいさましい振舞いは、見る人の目をおどろかし、昔の、張里、楊雄、雄加(三国志)もこれにはどうして勝っていよう。一旗当千とはこの者共のことをいうのであろう。歳といい、心がけといい、惜しまぬ人はありませんでした。その後あのほとりこのほとりに忍びいた人人もご最期の由をきいて嘆き悲しむ有様は譬えようー恥胡はく、上代のことではあるが、三界一の徳尊釈迦牟尼如来の御入滅のきさらぎに、十大弟子、十六羅漠このほかの人々、五十二類、鳥類、畜類、有情、非情のたぐいまで、嘆き悲しむも、これにはどうして勝りましょう。このようにして敬威たてまつりましたが、国のうちは皆敵ですから、その目を気兼ねして、御重を建てる人もありませんでしたが、ここに一夜の御宿をとられましたので、人目を忍んで御墓へゆき、あまりにお痛わしくおもいましたので法号詩歌を詠いたてまつる。
△なお竹の林の花のみな散れば、世を鶯の音おぞなきぬる
△紫の雲に月影いりしより、心はやみのよにぞ迷える
△あわれなり、あり明ならでうき雲のかかればともにいざよいの月
△みなそこの心は清きかわ竹の世に濁りある事ぞかなしき
△たれゆきてとわぬ御墓の秋風に、うらみや深き田野のくずはら
△ふりぬともきてやとわんあとたえし田野の山辺の苔のした径
△罪もみなあるとはなにをいとわまし、よくより見ればくうの海原。
この法号のうたはじめに、竹のはやしとは、竹の武田の御親子様の御事、花はつねのこと、ちるとほ、かくれさせたもうと、みなみとは御一門の事です。下の句のかみによわうぐいすということは、それにつけても世の憂きという事です。また竹のふしなるべし。いずれも文のその品々あることです。

その後滝川、勝頼さまの御首もちて、信長の前に来たところ、おしるしにむかっていろいろのことを申しましたので、後気に召さないとみえておもてをそむけ、御うしろに向かってしまいました。信長城之介殿この由を見られて申しますようは、それは道理です。弓矢をとるならいで、人をこのようにしても、又じぶんもそうなるかも知れぬ身であるから気になさるな。その条には、こんどこころ変心いたしたひとびとを皆朱ってしまうでしょう。といぅと、御前に向かいました。
信長と申すのは、むかし頼朝、義経御不仲により奥州の秀衡をたのみ、高館と申す所に、御所を建てて御入りになっているところへ、鎌倉より押しかけ御申しのあったとき、頼朝への御恨を書きたまわって、その文を口のうちにおさめ、お腹を召されました。
御乳人の兼房みずからが腹を割き、御首を押入れ、御館に火をかけて死にましたとき、焔のしずまったあとへ、鎌倉の人々乱れ入り、焼けた首のなかで義経の御首を見つけて供養申そうと、畠山殿が見られますと、御口の中よりかの
ふみを吹き出したということです。それよりのちは、義経の霊がここにあらせられるとて、七段の段をつき、七重にシメを張り、そのうちに納めたまいました。その後御約束のように、御心がわりのした人々はことごとく絶えさせて
しまいました。又尾張より、攻めて来た信長城之介殿始めとして七十五日の内にみな絶えられてしまいましたことは、関東や京の都で誰一人知らぬ者はございますまい。唐土の虎は毛を惜しみ、日本の弓取りは名を惜しむというたとえがございます。この武田殿、御名はこれまでのいきおいとちがってしまいましたが、天下に御名をひろめ、きっと後代に名を揚げるであろうと、申さぬ人はございません。
又この世のできごとを取集めたものは、柏尾で一夜の御宿をとられたときのもようです。世をみるに、人間五十年流転のうちを譬えるに、雷光、朝露、石火、夢まぼろしのような営みにうち迷い、末の暗路をどういたしましょう。誠の道に入ろうとおもいたち、その頃のたっとい人慶紹と申せし人の御弟子となり、元結いを切り、墨染の衣に身をつくりなし、室のとばりその明けくれに念仏申し、経を読み、心意をすましてその暁を待つところに、武田の御一門落人とならせられて一夜の御宿をと仰せられましたので、宿を奉つりしに、そのまま世にいでることもなく、ついにはかなくならせてしまわれ、御痛わしいこと限りのないことです。せめて御名ばかりもとどめておこうと思い、草葉のつゆと消えぬ間の、わすれがたみにも見奉りたいと思い、このようにしるしおきまいらせけるとかや。先の名号歌詠み奉りしもの尼なり。
  甲州柏尾山野 理慶比丘尼 けいじゅ庵文を集む。





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最終更新日  2021年01月07日 06時10分00秒
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