カテゴリ:甲斐武田資料室
武田勝頼の首級の真実とは
勝頼の首は信勝の首とともに伊那浪合の山村まで出向いてきた信長の実検に供され、小諸城で殺された武田信豊の首とともに京都の下御霊社前の獄門に晒される。 甲府法泉寺の僧侶が、恵林寺に住むなど武田家と縁が深い妙心寺の南化玄興の協力を得て信長から三人の首をもらい受け、妙心寺で葬儀を執り行う。 勝頼らの墓地は妙心寺の中心、玉鳳院の裏手にある。法泉寺の僧侶は葬儀に参列し、勝頼の歯髪の一部をもらい受けて帰国し、その境内に手厚く埋葬する。 3月11日 徳川家康・穴山信君、甲斐国甲府の織田信忠を訪問。 武田勝頼・武田信勝、天目山の戦で織田軍に敗北。田野に於いて一族・郎党と共に自刃。長坂光堅らも殉ず。 武田勝頼、甲斐国天目山にて敗北・自刃。〔理慶尼記〕 信濃国高遠城以下を織田信忠自身が攻略したこと、仁科盛信・武田信豊が討死にしたことを知らせる。〔兼見卿記〕 3月11日 勝頼、小山田信茂の叛を聞く。天目山の途中田野において織田方の挟撃を受け,北条夫人・信勝と共に自刃,勝頼(37)・夫人・信勝,従う者,土屋昌恒・小宮山内膳・安倍勝宝・小原忠継・同忠国・麟岳長老らを始め士46人,侍婢女23人〔国志〕 天童山景徳院 主従牌子死者名 景徳院殿頼山勝公大居士 武田勝頼 三十七歳 北条院殿模安妙相大禅定尼 同 夫人 十九歳 法雲院殿甲巌勝信大居士 武田信勝 十六歳 3月11日に討ち取られた武田勝頼・武田信勝・武田信豊の3首を見物す。武田信豊の首は落ちてしまった。〔晴豊記〕 3月11日 徳川家康・穴山信君、甲斐国甲府の織田信忠を訪問。 3月12日 信忠及び家康は、甲府において勝頼の首に対面(翌日か?) 勝頼の首級、甲府へ ◇信長 勝頼の首は直ちに信長の本営に送られる。 30月14日 進軍中の信長の元へ勝頼の首級が届けられる。信長は勝頼の首級を杖で突き、足蹴にしたという。[常山紀談] 3月14日 織田信長、信濃国伊那郡波合に着陣。 3月16日 織田信長のもとへ武田勝頼・武田信勝・武田信豊の首級が到来した。 3月17日 徳川家康、信濃国諏訪に織田信長を訪問し対面。 3月20日 織田信長、信濃国上諏訪に於いて木曽義昌・穴山信君・小笠原信嶺らを謁す。 3月22日 甲斐国より武田勝頼・武田信勝・武田信豊の首級が上洛。 京都に於いて3つの首級が「獄門」に架けられた。〔言経卿記〕 3月22日 山科言経は、武田勝頼・武田信勝・武田信豊の首級が近日中に播磨国へ送付され梟首されることを知る。〔言経卿記〕 山科言経の『言経卿記』 山科言経の『言経卿記』天正十年三月二十二日条には、武田氏が滅亡し、勝頼・太郎信勝・左馬助信豊の首級が京都に送られてきたことが記してある。 〔多聞院日記〕 3月23日 多聞院英俊、織田軍が甲斐国を「悉落居」させたことを知る。 多聞院英俊、去3月22日夕方に武田勝頼・武田信勝・武田信豊の3首級が京都に到着し、3日間梟首された後に播磨国へ送付されることを知る。〔多聞院日記〕 高野山の供養塔 また天正17年3月27日高野山に墓が建てられる 勝頼の菩提寺は ❖高野山 大和村田野の天童山景徳院 泰山宗安大禅定門(高野山引導院) ❖京都妙心寺 玉山龍公大禅定門(妙心寺) ❖甲府市の金剛福聚山法泉寺 法泉寺殿泰山安公大居士(法泉寺) ❖甲州市景徳院 景徳院殿頼山勝公大居士(景徳院) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月10日 14時09分07秒
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