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2021年01月11日
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カテゴリ:甲斐武田資料室
武田信玄伝<誕生から初婚まで>
1、生誕地の生年月日
武田信玄は大永元年(1521)十一月三日、甲府の武田館(躑躅ヶ崎館)の要害城(要害山)で生まれている。
2、父と母
父は武田家十六代の信虎(父二十八歳)。母は甲府盆地西郡の武田氏一族である大井信達の娘((母二十四歳)。
3、誕生地
『高白斎記』で、「九月、九島ノ凶(戸)事、十六日乙丑、亥刻富田落城、寅刻御前御城へ御登り、十月十六日丁未、於飯田合戦御勝利、同十一月三日辛亥、戌刻晴信公誕生、蟇目曾根三河守縄長相勤」
《註》これによると、大永元年の九月に、駿河今川氏の重臣である遠州土方城主の福島正成らが大軍をもって甲州へ攻め入り、十六日には大井夫人の企家である西郡の富田城(甲西町戸田)が落城したので、慎妊していた夫人は大事をとって、館の裏手の要害城へ避難し、飯円河原の合戦で信虎が勝利した直後の十一月三日戌刻(午後八時頃)に晴信、(信玄)が誕生。
《註》蟇目役
蟇目役とは祝儀の使者であって、曾根縄長は、後に活躍する昌長の父であろうか。
4、信玄誕生の模様
『高白斎記』十一月二十三日の上条河原(中巨摩郡敷島町)の合戦で、信虎が大勝。後の二十七日に、積翠寺より母子が武田館へ戻った。
《註》文中に積翠寺とあり、同寺に産湯跡などがある。晴信の誕坐地を同寺とする意見もある。
《註》要害城は、その地名から積翠寺城(石水寺城)とも。山頂には現在でも城郭遺構残存する。
《註》駿河勢との飯田河原・上条河原合戦は、信虎の領国経営上での最大・最後の危機で、移転間もない甲府館はいまだ未完成で、周囲の反乱も続発していた時期。信虎は、この合戦の大勝利を記念し、合戦の最中に誕生した子の幼名を「勝千代」と称した(『甲陽軍鑑』)。

○勝千代(信玄)出生のこと
【『武田信玄のすべて』磯貝正義氏編所収 「武田信玄に関する伝説」清水茂夫氏著】一部加筆 

 大永元年(1521)九月、今川氏親の部将、遠江土方の城主であった福島正成は、一万五千の軍勢で、富士川沿いの河内路を北上して、甲斐に攻め寄せた。十六日には大井氏の属城であった富田城(現甲西町戸田)を落とし、その士気は挙がった。その知らせに接した武田信虎は深夜に、身重の夫人を躑躅ケ崎の館から、積翠寺の要害山の城に移し、難を避けさせた。この危機にあたって、国人層の離反もあり、信虎の手兵は二千ばかり。敵の大軍は登美の龍地台(北巨摩郡双葉町)に布陣し、荒川をはさんで相対した。
 信虎は脚戯ケ崎の東南方の夢見山に登って敵情をうかがっていたが、連日の疲労から睡魔に襲われ、松の木陰で思わずまどろんだ。夢に現われた不思議な男は信虎に向かい、「あなたのこのたび産まれる男子は曾我五郎の再誕です」と告げると、信虎は目が覚めた。信虎は十月十六日の決戦で、福島勢を飯田河原(甲府市飯田町荒川の河原)に撃破し、同二十三日には一粂河原で敵将福島正成をはじめ、山形淡路などを討ち取って大勝したのである。
 一方、この戟の最中、箭翠寺の要害城では、大井夫人がめでたく男子を出産したのであった。生まれながらに武将にふさわしく容貌魁偉であったという。戦に勝ったので幼名は勝千代とつけられた。これがのちの信玄である。
勝千代は、生まれてから右手をこぶしににぎったままであった。不思議に思った信虎が、天柱和尚に相談すると、和尚は、富士山麓の旅の途中で見た夢を語った。
「私が旅の疲れに草むらに腰をおろし、まどろんでおりますと、いずこからともなく一人の武士が現われて、『私は曾我の十郎です。弟の五郎はいま甲斐の府の君の子として生まれ変わろうとしております。そのしるしには、黄金の目貫を片手ににぎって生まれてくるはずです。これが片方の目貫ですが、あなたにさし上げます。この目貫は私どもの祖先以来伊東家に伝わる宝物です。こうして弟の五郎は武将として生まれ変わることができますが、私はなお生前おかした罪のため苦しんでおります。お願いですから、どうか法華経を私のために供養してください」
と言いました。目を覚ますと、不思議にも、目貫が私の手ににぎられていました。私の見た夢が正夢でありますならば、うぶ児のにぎっていますのも、目貫の片方かと思われます。東の池の水でその手を洗ってみてください」
 信虎が和尚のことばにしたがって、他の水で手を洗わせると、はたして目貫を片手ににぎっていたのである。
 信虎は天柱和尚に請うて、大泉寺(現甲府市)さっそく導師として、三七日万部法会を修めたいは夢山は、信虎が夢を見たことにより命名さされたと伝えられている。(『裏見寒話』巻二など)。
 信玄の幼名を勝千代と称したいわれと、曾我五郎の再生である信玄が武勇の大将であるといわれとを説いているのは、英雄出生譚の特色と目される。幼名も太郎で、勝千代と称したかどうかは不明である。五郎の再生と語るのも近世になってからでほないかと思われる。












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最終更新日  2021年01月11日 07時44分26秒
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