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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年01月15日
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カテゴリ:歴史さんぽ

旅 父への回想 一

 

 『中央線』1973 第9号

    河西百一氏著

    一部加筆 山梨歴史文学館

 

明治二十四、五年頃の秋、私の父は直く隣り一つ年上の河西東一さんと示し合わせて東京へ出稼ぎに行った。共の頃の村の風習で二十迄に農閑期の一冬を恵坦に出て奉公して来なければ一人前に扱って貰えなかったらしく、陰暦の十月十日(とうかんや)秋農の終了を祝って鴇く餅の音が部落から消えると出奔するのであった餅を鱈腹喰い道中の飢を凌ぐために切餅にして風呂敷に包み背中に斜めに背負って腰に履替用の手造りの草靫をぶら提げ薄汚れた手拭の頬舷り姿も夜の寒さへの備えである。

 「とうとう昨夕(ゆんべ)行きやした」

と祖父が隣家へ声を掛ければ

「あれ!、前(めえ)の家(ええ)でもかい。俺んとこの野郎も」

など知らない振りをしながらも

「偉いもんだ、あの年で、東京へ行ったっちゅうよ」

と村人の称讃の言葉が達って来る頃二人の父親は

「夜明けは甲府づら」

と、囲炉裏端で渋茶を呑みながら子供らの足どりに気を配っていたらしい。

 雨で農仕事のないとき、雪の降る夜など、途切れ途切れではあったが、その東京行の苦心話を父から聴かされたが、不思議に記憶に残っているのは、猿橋での宿賃が十七銭だったことと、高尾の峠下から八王子迄の馬車賃が七銭だったと云う二つである。

 猿橋の宿で随分大食したらしい、其のため宿の女中さんがご主人から

「百姓の子はうっかり泊められないよ」

と御小言を云われたのを洩れ聞いて首を縮めた話、

「おい小僧八王子迄五銭にまけてやるから」

と云われた暇者の小僧呼ばわりに反感があって疲れた足を曳きながら八王子の駅まで歩いた話など実感があった、父も東一さんも小僧と呼ばれるほどのチビッ子であった。

 急行が韮崎に停車するようになって、穴山東京間は三時間そこそこ、その道を二日がかりと云うが其の歩行時間は三十時間を越えている、其れも征子とか小伝とかいくつかの峠を越えての旅である。

嫡出には恐らく二日そこそこしかなく、その金が有る間に就職しなければと云う焦りが、東京での一夜を過した二人が桂庵(私設職業紹介所)から二人一緒の口はないと断られ、四谷見付の草土堤で昏れゆく街を眺めたとき本当に淋しかったとも云った。

 折があったら父遠の歩んだ街道を気まゝに歩いて見たいと考えて三年、其の一年目は高尾から与瀬(相膜胡)迄二年目は相膜胡から藤野迄歩いて見た、僅かに藤野の昔の宿場の面影が追って居るだけ道は舗装されたり、路線が変っていたりして往時を偲ぶことも出来ない。

 三年目の今年は猿橋に下車して上野原迄と考えて家は出かけたが、駅から甲州街道に出るまでの二百米ばかりは中央線が開通してから建てられた家、その家並にすら滅びゆくものの哀れがあって軒は低く埃を彼っている。

 甲州街道に歩道橋がある。渡らずに右側を往くと新建材の家ばかり、向側に平家の大きな空屋がある。甲斐絹の盛んであった頃のものであろうか、平家の半ばは街道の下になって覗いても薄暗い、父達が泊った宿屋とあちこち見渡しても一軒も宿屋は見当らない、とうとう猿橋のたもとまで来てしまった。柱は破損して交通止の柵があり左側の坂を下って下から眺める。小学校四年生の修学旅行から私はこの橋に三回来た。然し橋を越えて向うまで往ったことはない、猿橋の街はどこか中心なのか今だに判らない。

 道行く老人に聞いても昔の宿屋に興味のある人はなく、

「知らんねえ」と事務的なの返事だけ、休憩所、食堂も兼ねて居る大黒屋が宿屋とは知らなかった。其この女主人らしい人に猿島に昔からある宿屋の名前を尋ねたが、土産物を売る方に心を奪われて話に乗ってくれない。

 名物だと云う『忠治そば』を直食べ終わると、私は私の考えが間違いであることに気がついた。

 町役場が土地の旧家を訪ねなければそのような資料の残っている筈はない、鬼が笑っても来年は甲府の図書館に通って甲州街道の全般と其の宿場に関する資料を抜き書きして改めて出直すことにして待合室の人目に左側に一本大きな梨の木があって実もたわゝにつけている。

駅員に尋ねると明治三十五、六年頃植えられたものだと

云う、明治三十六年に私は生れた。この樹と同じ年代の風雪を振り返りながら、駅と街との消長をじっと見守って来た梨の本に私は異常の親近感をもった、抱えて丁度私の二つの指先が触れる太さである、この本の植えられる十年前、この街道を希望と不安を交々に抱きながら歩んで行った父達の青年時代を回想すると急に眼の中が熱くなって来た。汽車を待つ一刻、駅前の観光案内図に『雁の腹端山』と云う珍らしい山名を発見して再び旅人に戻った私の眼に雑草の中に数十本の百日紅が鮮かな花をつけて駅の向側で西日を浴びていた。






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最終更新日  2021年01月15日 17時14分43秒
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