カテゴリ:甲斐武田資料室
『八切止夫 日本史裏返し』 昭和46年七月二十八日 刊
一部加筆 山梨県歴史文学館
甲州人の武田信玄への人気というのを、今では彼個人の魅力のように誤解されているが、あれだけ戦をして人を殺している者を慕うということは、有り得るわけはなかろうと想える。つまり真実は、今の甲府市の府中でさえ、 「武田信玄に散々痛めつけられた徳川家康」が政権をとったとき、 「おのれ″憎っくきやつらめ」ということになり、関が原合戦までは、浅野幸長二十二万石の領地だったのを、家康は九子の義直の領地にしたり、のち三代将軍家光の時は、「甲府宰相綱重」を入れ、吉宗将軍の時は柳沢吉保を入れたが、享保九年(1724)からは廃藩処分。伊丹家の徳美藩も元禄十一年(1698)から廃藩。秋元家の都留藩も廃藩。 つまり甲斐一国はどこの大名に礼属さぬ徳川家庭直轄の天地として、かつて「反体制」であったことへの報復を何百年もやっている。 どんな領主でも決ったのが居れば、あまりカレン誅求をすれば江戸への聞えもあるから手加減されるが、甲斐のように直接に江戸から役人がきて搾れるだけ搾るのでは救いようもない。 江戸時代に旗本が甲府勤番をいいつかると、水盃をして赴任していった位に、甲斐は陰惨な目にあってしたらしい。 幕末に、天狗党が甲府を狙い、近藤勇が甲陽鎮撫隊と名のっておもむいたのも、圧迫されつづけの甲州人が、きわめて反体制だったせいなのである。つまり、「武田信玄」に人気があるのも、かつて独立の栄光に輝いていた良き日の思い出のために、その象徴として、信玄に対して、郷士の追慕があるのである。 これは信長や秀吉を産んだ尾張の人間は、幕末まで徳川義直の末を代々頂いて、あまり苛められていなかったせいか、てんで信長熟や秀吉熟がなく、かえって大坂の方が、「太閤はん」として人気があるのと同じで、彼征服者の末孫のレジスタンスといったものが根底にあるのは否定できないだろう。
武田信玄とその妻
さて武田信玄が色々な女人を愛し近づけるのは、あれは映画やテレビの嘘である。 信玄といわれる武田晴信は、初めは自分の父親がおのれを追払おうとしているのに気づき 「さて、この武田家で俺と父が争ったとて、誰も此の方へ味方してくれるものはあるまい」 よく考えたあげく山梨県から静岡へ流れている大きな川を見詰めながら、しみじみ水の流れに身を占って、静岡で覇をとなえている今川義元に目をつけ、その姉をぜひにと求め結婚した。 そして信玄はその嫁に対し、 「妻よあなたは強かったという言葉もある。今のままでは、俺は父から追われるに決っている。そうなれば其方も寄るべなき浪人の徐になるんだぞ……なんとかしてくれ」おお愛する妻よと相談をもちかけた。
女性というものは大きくなってオバアになると意地悪にもなるが、若い頃はみな純真きわまりないから、すっかり心配した。 「私め、が此方へ嫁にくる引換えに、私の弟の許へ、此方の長女さまが緑づいていられる。きけば近く、その姉娘さまに逢うため、父の信虎さまは駿河の城へ行きなさるとか……」 「そうじゃ、そこじゃ。おのれの上の娘のところへ顔みせにゆくのゆえ、きっと父も油断していようし、旅へでての寄り道だから供廻りも少ない。そこでな」 「なんとしまする」 「お前がすぐ弟の今川義元の許へ使をだして、そちらへうちの親爺さまが行ったら、巧く虜にして貰いたいのじゃ」 「幼児誘拐でなく、親爺さま誘拐でございますのか」
びっくりしたが、夫のいう事である。そこで駿河ヘもの旨を言い送った。だから何も知らずに、嫁に来ている娘に逢いに行った父親は捕えられてしまった。 「そんな馬鹿な」と脱出しようとしたが、甲斐へ戻る口は、すでに信玄の手勢に封鎖されていて、動けなくなった。 このため武田信虎は戻れなくなり、生涯を駿河や京都で過し、 「わしが当主である」 と武田信玄が甲斐の国をまんまと乗取ることになった。
女より男を 現在の民法だと、妻が夫と協力して築いた財産は、半分は妻が貰える権利があるが、昔はそうはいかない。やがて今川義元が織田信長に討たれて落ち目になってくると、信長は仏教勢力に目をつけ、本願寺から嫁を貰い直して、自分も、「権大僧正」という位を貰ってしまった。さて映両やテレビでは、色模様ということで、諏訪の姫やいろんな美しい女性を、信玄がおのれの側へひきよせることになっているが、あれは、みな出鱈目な作りごとである。 「ホモでも結婚できるし子供は作れる。だがホモの男は、それらを愛することはしないもの」 と、いう定理があるが、信玄も駿河から貰った最初の嫁から生れた長男太郎義信に対し、 「おまえは邪魔だ」 表むきは白刃。実際は暗殺させて処分。次の子は寺へ入れて坊主。その次の子は盲目ゆえこれも出家させ、四男の武田四郎勝頼も本当からいえば、自分の跡取りにすべきなのに、 「おまえは好かん。だが其方の子には尾張の織田信長の姫を貰うことになるから、それを立てる。おまえは後見人で我慢せいや」 と、いうことにした。 信玄は女性である妻へも、その産んだ子に対しても、すこしも愛情はみせていない。 ただ利害関係で、自分の計算だけでしか計っていない。周囲の色取りに女人を配するのは、江戸時代になって、 「すべての事は色と慾とから始まる」という考えが流行しだした時からである。 つまり忠臣蔵というのも、事の発端は、高師直(こうのもろなお)が風呂に入った顔世御前(かおよせごぜん)の裸姿を見染めた。だからフリーセックスでどうかと申しこんだところ、夫の塩谷判官が「オウ-ノオ」と断った。そこで松の廊下で独占禁止法案を掲示した。すると判官が、妻を愛して居りゃこそ俺はと抜刀した。だから刃傷となりそれが仇討に進展したのだ。 といった具合に判りやすく舞台にかけられていたからつい武田信玄も女好きにさせられた。 しかし依田武将というのは、戦をあけくれしておらねばならない。そんなに女色に溺れていて、自分だけ美女を側へおいて、やに下っていられたかどうかこれは話が作られすぎている。 では信玄は誰も愛さなかったかというとちゃんと一人いる。 ただし女ではなく男である。 「春日源助」とよぶ色浅黒く眼もぱっちりとした、すがすがしい少年であった。 どの戦いにも連れて行き露営の仮寝にも、ひしと抱きしめ添いふしていた。が少年も次第に大きくなった。出身が信州川中島なので、彼は信玄に、「あすこへ城を築いて貰い、そこの城主になってみたい」 甘えられると信玄も、愛するものの為だから、すぐさま、「よっしゃ」承諾した。 当時の千曲川は海みたいに広かったから、それを要害と見立て、川のこちらへ源助のために城を建て、これを海津城となづけた。もちろん名前も、「春日源助」では貧弱ゆえ、「高坂弾正」と改名させた。 しかし信玄は弾正を愛して居れば、その身の安全を図ってやらねばならぬ義務を感じた。 「甲斐の信玄めが、寵童高坂弾正存在を弾正の為、千曲川対岸に海津波を築いたはよいが、川向うの我ら と討伐に向ってくるが、如何致すか」 そこで信州の大名どもは一致団結して、攻めよせてくる信玄を防いだ。だが敗れ去った。 「かくなる上は是非に及ばん」 恥を忍んで、みんな新潟県の春目山の上杉の許へ援助を頼みにいった。 しかし上杉の重臣どもは、いろいろ協議したが、 「信州の川中島などという土地は地味も悪く、百姓でさえ年寄りなど食させてゆけぬと、みんな背負って行っては山奥に置いてくるとかで、オバステ(姥捨)山というのもあるし、また農地がなく、田ごとの月といって山に登ってまで田畑をつくるような荒地。あんな所のために我らが血肉を流しても無駄なことである」 頭ごなしに断って謙信に取り次ぎもしなかった。 ところが、ある日。 いまは追われて流浪の身であるが、かつては信州嫌いな葛尾城玉村上流清か、せっかく上杉を頼ってきたものの、なんともならず悲しさのあまり、 「今日もくれゆく異国の丘に」 と春日山の三の郭あたりを散歩していると、向うから頭巾を被ったのが、大勢の家来をともなってきた。 さて初めて義清は謙信をみたとき、見るから豪壮ゆえ、 「はあ″」立ち止って最敬礼したところ、向うもそのとき、(一二目みたとき)といわんばかり立ち止ってしまい、じっと村上義清をみつめた。そして、 「ついて来なされ」 近習がそっと耳打ちにきた。義清は、 「かしこまって」と供をした。 上杉謙信は現代では男と間違えられている。しかし、本当の名は阿虎《おとら》と呼び、対外的には父の名を取り、景虎(北条政子にあやかって政虎。将軍から名を貰って輝虎などの別名もある。謙信というのは死んでからの戒名)という女城主であった。 そして、その夜。 「わたし幼い時、父為景の死後。この春日出に家臣の叛乱があって、長兄の晴景はいち早く逃げたが次兄三兄と男の子はみな殺しにされ、助かったのは姉の阿亀とこの身だけ」 お高祖頭巾の中から訴えられた。 「長兄の晴景が病弱ゆえ、姉の阿亀とこの身・阿虎のいずれを女城主にたてるか、母じゃも迷われたが、幼い時かかった痘病の痕のすくない姉が、上田城へ嫁にゆき、私かここへ残った。だから私はそれから男でもない女でもない身の上になり、酒で心を紛らわせ、かっかとすると戦場へ出て暴れ様る様になった」 打ちあげてから、さめざめと泣いてみせ義清の側へにじりよると、ひしと手を握りしめ、 「が、そなたを見た時より稲妻に打たれたように、この身は震えてしもうた。姿かたちは男にやつしていても…胸にたぎるは女の想いぞ、のう」 手をおのれの胸の隆起におしあて、そして、むせぶがごとく、 「信州川中島を取り返して欲しいという其方の話は聞いた。よって聞き届けて進ぜる代りに、この女心もなんとかしてたもれ」かき口説いた。村上義清も、 「この身でかない申すことなれば」すぐこの取引を呑んだ。 (歴史は夜創られる)というが、この夜の二人の接近から、あの凄まじい川中島合戦の幕は切って落されることになる。
敵に塩を送って
この川中島という土地が、はたして武田と上杉が死力を尽して奪いあいしなければならぬような、地味豊かな良い土地であったかどうか。半世紀の後でさえ、 『寛敬語』によれば、 「福島左衛門大夫正則は台徳院(二代将軍秀志)さまお怒りを請け、広島城主その領地一切を没取され、信州川中島へ流罪おおせつけられた」 とある。 つまり流罪人が居られる八丈島位の価値しかなかったのは、これでも明白である。 テレビや映画では双方が、 。 「義のために」 川中島を奪いあいした事になっている。だが、どうして「義」の為に多くの将兵が戦に明け暮れして死なねばならなかったのか。どこにもそんな事実はない。そもそも、 「義理がすたれば、この世は闇だ」 という発想は昭和になってから、人生劇場の唄からである。この時代は、武田が北条や今川と戦をして、太平洋岸の塩が入らなくなると、 「そりゃ儲かる」 と上杉方では越後ねじ谷から日本海岸産の粗塩をだしている。たしかに、 「上杉謹信は敵の武田信玄に塩を送ったが、当時一俵百二十文の塩を、たんと四倍の五百文で売っている」のである。 そして、この儲けで、また武器中馬を買って川中島へ攻めこんでいることは、当時の、『弥彦神社願文』にさえ残っている。また信玄が死んだと聞き、 「よき好敵手を失った」 食車中だった謙信が箸をおいたとの話もある。
だがあれも、『上杉家譜』では、 「好機なり今を逸するべからずと、箸を置き法螺貝を吹き直ぐ出陣」となっている。 テレビや小説の出鱈目な作りごとは、話としては面白いが、うっかり「歴史」などと誤認すると、知らず知らずに見ている方が白分も白痴化されてしまって、人間、が生きてゆく上に一番大切な、判断力というものさえ失ってしまう恐れかおる。
「謙信頭巾」は女風俗だ
なにしろ汪戸時代の宝暦元年(1751)大坂の名女形中村富十郎が江戸下りをするとき、紫縮緬の頭巾を被ってきたのが「おこそ頭巾」の流行のはじまりといわれる。 男子用としては、宗十郎頭巾、袖頭巾、目ばかり頭巾というのがあったから、この、御高祖頭巾は女性専用とされ、後には「お高祖頭巾」と当て宇をされ、目蓮上人の木像についている頭巾が似ているからと、今では説明されている。しかし、この頭巾の原形は、長方形の布地の裏へ、耳へかける糸をつけた、今のマスクに頭がついたようなもので、「すっぽり被る」という穏やかなものではなく、活動に便利にできていたものである。だから、戦国時代などでは合戦用ではなかったかとも思われる。 また、庶政年代の百井禱他用の詰草には 「京の西に桂村あり、ここの桂女(かつらめ)は桂川にて獲れた鮎を京へ持ち行売るが、白布をもって頭を包み眼のみを山車、これを(おこし)とよび、わらべ唄にいう(桂帽子)とはこのことにて、これ吾国古来の女風俗」とある。 これをみると、関西では「おこし頭巾」といわれたものが、関東へはいってからは、おこそ(御高祖) と訛ったこともはっきりしてくる。 さて現在の石川、富山、新潟などは江戸時代までは、越前、越中、越後とよばれ、もっと昔は込みで、「越」と北陸は称され、そこで古川古松軒の旅行記『東道雑記』のなかにも 「大昔の名残りでおがらや麻布を刺子とし寒中は三枚を重ね着して暮らすが、女人は越頭巾というをかぶりて外出する」とある。 つまり「おこそ頭巾」というのはナマリであって、越の国の女人風俗が各地に広まった物らしい。また「鞭声粛々」などの頼山陽作ものや、また「霜は軍営にみち」といった詩吟が一世を風靡した幕末になると、御所御用の御装京師の、京鳥丸下立売上ル高田公雲考案という「信玄袋」がまず売り出され当時のボストンバッグとして明治大正まで流行したが、「謙信頭巾」というのも、ついでに売り出され、これが京みやげとして若地に広まった。さて「こし(越)の国の頭巾で、古米よりの女風俗」とわかっていて、謙信の名をつけたものなら、頻山陽の川中島の詩吟が流行しだしたばっかりのころは、まだ一般的に、 「謙信とよばれた武将は、女城主だったらしい」 と、みな承知していたのではなかろうか。 その謙信がいつから男に決められたか、となると詩吟の流行とあいまって、いまでも本に出てくる新潟県林泉寺所蔵という無精髭をはやした画像がひろまってから「髭が生えてるから男じゃろ」となった。 もちろん、これは明治にはいってからの模写で、原画というのは明治二十一年の火災のおり、奉納先の無量院で焼滅している。 だから、養子の上杉景勝が画かせて納めたようになっているが、高野山諸寺院記録では、 「宝永三年(1706」上杉綱憲公御内色部長門守永代供養」となっている。つまり、高野山で焼けた原画も、江戸中期の絵空ごとでしかない。 そして、謙信の死後百二十年もたってから、なぜ今日まで伝わるような想像画までこしらえ供養したかというと、上杉綱憲というのは吉良上野介の伜。景勝からの血統が絶えた上杉家へ養子に入ったところ、実家の本所松坂町へ赤穂浪士に乱入され、そのとばっちりで米沢三十万石を半分の十五万石に減らされた。 これでは、上杉景勝が佐渡金山を召し上げられ、交換に会津百万石へ転封されたときと比較すると七分の一の没落だから、 「なんとか家運隆昌」を」と想像画で我慢してもらうことにして、莫大な回向料とともに納めた。しかし泉下の謙信が、つむじを曲げて 「私としたことが、なんぼなんでも髭なんか生やしているものか」 そっぽを向いてしまったのだろう。百石のご利益もなく幕末まで十五万石に減じたままだった。
では、本当の謙信の画像はなかったかというと、画工をよびよせ、写生させたのがある。それは現代と違って「輪廻 りんね」という思想、が信ぜられていた世の中なので、 「人間はなんども生まれ変わってくる」 ものとして次に生まれ変わってくるときの目標に、当時の武将は、「後影」とよぶものを画工にかかせ、武田信玄などは、次はもっと強くと、理想的人間像として、利剣をかがす不動明王に自分の顔を入れさせた。だから、謙信も対抗上「びしゃもん(毘沙門)」に自分の顔で乗っけるべきなのに、なんと、画工に写させた自分の画像たるやそれは、「差し渡し、つまり直径三十四センチの赤い盃」のみなのである。 『古語拾遺抄』によると、この時代は瓶子や、徳利は男性、杯や盃は女性の隠し言葉とされていた。すると、謙信という人は、生前わざわざ似顔絵画きを呼びながら、自分の顔を画かせずに、赤い盃をかかせたとはなんの話だったか。きくも哀れ寂しい話である。 もちろん、シュールレアリズムや象徴主義で証言が画せたのではない。それらが絵画に起こったのは、ずっと後世のことである。
阿亀のおそすぎた婚期
長尾為景が死ぬと反乱が起こり、長男晴景は身一つで逃げたが、二男平蔵、三男左平次は殺され、阿亀と阿虎の二人だけが生き残った。 さて、この阿虎が景虎になり謙信と呼ばれるのだが、これが男児であったのなら、姉の阿亀は、早めに嫁ぐべきだったろう。ところが、女の適齢期が十五歳くらいでみな嫁入りした時代なのに、その阿亀は「長尾系図」から逆算すると、驚くなかれ、二十八歳まで春日山で頑張っていたのだから、これではどうも阿虎こと後の謙信と、 「姉さまの私がここの跡取りになるのじゃ」 と、相続争いをしていたとしか考えられない。 信州上田の政景へ縁づいてからも阿亀は、跡目争いに負けたのを恨み、嫁入りの世話をした宇佐美の砦へ放火させた。そこで、 「たとえ御新造(阿倍)が、ごく近い御親類(阿虎の姉)とは申せ、許せないことである」 当時春日山の重臣だった本庄実乃(さねより)が怒って出した文書がいまも現存している。 つまり、阿虎が、もし弟だったら二十八歳まで相続を争うこともかく、嫁にやられたのを、 「おのれ、よくも追いだしたな」 と恨むのもおかしい。どうも阿虎も同じ女で妹でなくては辻褄が合わぬ。 さて、阿虎は父の名を一宇とって「景虎」となって領主になるのだが、現在は太陽暦で四年に一回閏がある。しかし昔は大陰暦だから毎月決っていた。そして「上杉謙信」とよばれた人は『上杉家譜』や講談本紛いの『越後軍記』『北越軍談』をみても、十五、六歳から四十二歳までの間は、毎月十一日になると、 「馬に乗れぬ」「腹病である」早々に戦を止め手近な城や建物に入り休息をしている。 『松平記』にも 「上州廐橋城へ腹痛と称し、六月十日から引き籠った謙信が、人質として城内にいた成田長康(泰)の幼児を背負って遊んでやっていた」、 とある。また七尾では、討ち死にした畠山義隆の未亡人に 「幼児は手前が預かって育てて進ぜましょう。とくに、北条景広のもとへ再嫁なされたがよい」 と、縁談の世話やき礼やっている。 子供好きで親切だったといえばそれまでだが、お節介婆という感じがしすぎる。
さて、武田信玄は男色家で春日原肋を愛し、これに海津城まで持たせ、高坂弾正と名のらせたのは有名だが、謙信には寵童など一人もいない。といって女人も側にいない。上洛した折り、懇意にしていたのも、将軍足利義輝の妻や母堂だけである。だから潔癖かと思うと 「景虎病む、大館輝氏、薬師を伴い坂本に見舞う」 とあり、六年後にも同じ病で脚の付根に腫物ができ、生涯びっこをひいた。 風毒腫であったというが、淋毒性眼炎を風眼とよぶように今日でいう淋毒性関節炎らしい。
「籠童も女人も寄せっけなかったのに」 と疑問視されてきたが、謙信が女体なら、だれかから感染したとしても、べつに不思議ではない。 「謙信は男か」をY新問夕刊に連載していたころ、郵便屋さんがあきれるくらい手紙がきたが、励ましや質問ばかりで非難はなかった。 ところが、演歌調に<これが男か>といった受け取り方をしたむきが、新潟で謙信博覧会を開き私の証言ではイメージが違ってきたから、他のを取り挙げ出した途端、こんどは前と反対になり、「あんなばかな」とか「パロディである」と、ブームになったおかけで種々いってこられ、彼害者となった私はやむなく、 「武田信玄が寵童のために千曲川に海津城を築いてやったところ、川向こうの信州の豪族が邪魔をした。そこで渡河して攻めたところ、村上流清らは春日山へ救いを求めた。義清が美男だったから女の謙信は一目惚れして、彼のため川中島へ何度も出陣して戦った」 つまり、川中島合戦というのは「愛の血戦」と説明してきた。 というのは、明治三十七年、冨山房刊行の『史学会論叢』で故田中流成博士が、星野恒博士と実地検証や史料検討の結果、 「『甲陽軍艦』も『川中島五戦記』もでたらめで、川中島合戦は蜃気楼みたいなものだ」 と『甲越事蹟考』を発表以来、心ある者はみなサジを投げてしまって、だれもこの解明は避けていたから、他に言い様もなかった。 しかし、年寄りを食べさせてゆけぬから背負っていって捨てて来るという話の元祖の「おばすて山」というのは、川中島の激戦地の八幡野にある山のことだし、その合戦から八十年後の徳川秀忠のころ、福島正則が流罪処分にされた処用地も川中島である。 徳川時代になっても八丈島同様だった土地を、なぜ信玄と謙信は何度も取り合いをしたのか。なにしろ、幕末になってさえ、「田毎の月」と、そこは呼ばれ、千曲川の氾濫で平地は耕せず、山まで田畑にしていた荒れ地である。 講談では、謙信と信玄は、義のため、と称して戦ったというが、そんなことで、尊い人命を何千と失いながら、繰り返し、双方とも血を渡世だろうか? 日本列島に天孫氏族がはいってきたとき、原住民族と戦い僻地へ追いはらった歴史がある。 しかし、追われた方は、そこ、加沼沢地であれ山であれ、必死に防衛しなければ、生きてゆけなかった。 『和名抄』信州更科郡佐加木郷と出ている所も、やはりそうした貧しい土地らしく、足利氏が興隆してくると、村正彦四郎義光令弟の信貞は、信濃防衛のために後醍醐帝の側について戦った。 しかし、南風競わずで、村上義光やその子義隆は吉野で討ち死にした。だが、郷里を守っていた信貞は無事で、孫の満貞が、足利氏が差し向けてきた小笠原長秀の軍勢を、更科郡大塔で撃破している。そして、その孫が村上義清なのである。 さて、現在でこそ神も仏もないものかといった具合に、元禄以降は混合視されてしまい、 「安産、七五三、交通安全」 と、いうふうに、生きている間は神社。死後は、お寺さんの世話と、いまでは分業し、共存共栄しているが、村上義清のころは「輪廻(りんね)」の説を誰もが信じて、何度も生れ変ってくるものと思っていたから仏派と神派は、不倶戴天(ふぐたいてん)の仇(かたき)だった。 明治時代まで村上義清の城跡といわれる坂城部落の白山神社には、大の男が五人でかかえなければならないといった大木のケヤキが残っていたというが、村上一族は、ずっと白山神信仰である。そして「越の国」とよばれた謙信のほうも、いまの新潟を昔は「白山島」とよんでいたくらいで、いまも春日出へかけては、上に「白」のつく神社が多い。 つまり、村上義清ら信濃の豪族と上杉謙信は同じ白山神社の氏子である。これに対し、武田信玄は「権大僧正」の位をもつ、れっきとした仏門で、当時の妻は一向宗本願寺顕如上人の妹。そこで武田方へは、一向宗の僧俗が同盟軍として加わっていた。なにしろ、この時代、ヨーロでもキリスト教徒が十字軍を組織し、異教徒との戦いに明け暮れしていたが、日本もまた宗教戦争だったのだと見ると解り易い。 織田信長も始めは武田を恐れて、その長子信忠に武田の姫を迎えていた。だが、延暦寺を焼き払い、高野山の僧侶数千人を殺轢し、天正八年(一五八〇)に本願寺を降参させると、武田からの嫁は離縁して、甲斐へ攻め込み武田勝頼を滅している。 「つまり、奪ってもしかたがないような川中島」 を、両軍、が血みどろになって争った真相たるや 「義のためでもなく、領土野心でもなく、恋でもなしに、信仰のせいだった」 といえる。 これが今日までナゾに包まれてきたのは、徳川五代将軍綱吉の徹底的な神徒弾圧策のためで、のち大岡忠相が、その閉係の古文書記録を焼却し、出版統制令を敷いたから『越後軍記』『北越大半記』といった講談本の中でしか、川中島合戦は伝わらなかったのである。
謙信「大虫にて卒す」
「越の国」である越後の白山神の御本体というのが、他国と違って「馬上女武者」の順に白い袋みたいな物をかぶってヤリをもっている画像である。 越中へ入ると、ただの「馬上女」だが、古いものはやはり女武者である。ふつう、白山神のご神体というのはおひなさまの原形の女男一対で、東北へゆくと木地に衣装を画いたこけしの元祖を「おしらさま」といっている。 が、なぜ、上杉景勝の米沢地方は二体一組で、越後だけは女体一つだけなのであろうか。 これは、徳川の施政方針が大名を減らすため、戦国時代までは多かった女城主を認めなかったから、米沢では公儀に遺志しての結果。 越後はそうした気がねがなく「白山さまのために戦って下された守護神」と、和製ジャソヌ・ダルクのように謙信を祀ってきたのだろう。一説には神功皇后さまともいわれるが、皇后さまならお船であるべきで、馬乗りはおかしい。 さて、伊勢亀山城主松平忠明が永禄・天正から慶長までつけていたといわれる古い日記がある。 明治の御代にはいって、これまでの歴史は徳川三百年の間に、すっかり徳川家の都合ででたらめになっているから、新しい日本史をと「史学会」というのができた。 そこで、虫食いだらげの写本だが、その日記こそ戦国時代の確定史料であるというので、明治四十四年に国書刊行会によって、『当代記』の名で史籍雑纂第二巻に収録された。 さて、たとえ千部とはいえ、初めて活字本になったこの日記の、 天正六年(一五七八)の条に「越後景虎、大虫にて卒す」 という謙信の死因が明らかにされた。 大虫というのはいまは死語だが、医学の発達していなかったころは、人間の体内の 小虫は、かんや、ひきつけ。 大虫は、婦人の血の道しゃくを起こすもの とされていた。 だから小説をかく他に薬屋もしていた曲亭馬琴などの本の裏には、(月さらえ大虫の妙薬)の広告もでている。 料理屋でも昔は、「しょうゆは紫」「味噌は赤、又は大虫」といったことが、三省堂『明解古語辞典』にでている。 今でこそ女性のウーマン・リブなどというが、現代の人口の二割余りしかいなかった人手不足の戦国時代は、今のヴェトナムみたいに女も戦った。そして男女の別より強い者が豪かったのである。 ところ、が、「女上位時代」と口ではいえ、それでは面白くない連中が、(女なんかを英雄視しては、男の値打ちが下る)とばかり、今日のように上杉謙信を男に化けさせてしまったのである。 げんに、福井県には官幣小社で女神を祭る婦人病の神さま大虫神社もある。だから、はっきり大虫で死すとは、景虎こと後世でいう上杉言言は「婦人病で死去とは女城主なり」 すべて明白になった。が、幕末から流行した詩吟で、だれもが謙信がは男と思っていたから、明治四十四年では遅きに失した。 それに「謙信は女」と解明しても、誰からも褒められもしないし、なんの足しにもならないから、今日まで放って置かれたのが真相である。
私がこれに気づいたのは、かつてスペインのトレド司書信にある十五、十六世紀の宣教師や船乗りのレポートの中に、「上杉景勝は先代TIAがサドで開発した夥しい黄金を有していた」 という一草をみつけ、「TIA」はスペイン語では伯母のことだから、俗に上杉謙信というのは女人だったのかと、それにヒントを得て解明したのがこの始まりである。
また四百年前の謙信が男でも女でもどうでもよいようなものだが、(大柄な派手な衣類を数多く遺品として残して、自分自身では恋歌しか作っていなかった存在)が女体だったとは判っていながらも、旧説を守ろうというのか、 「ご自身太刀打ちさせられ名誉の至り」という近衛前嗣の手紙をもって(上杉謙信が川中島で武田信玄に切りつけた例証)とするが、一万六千からの軍勢をひきいる司令官が、自分から敵陣へ突入して斬りにゆくといったことが果たして有り得るだろうか。常識で考えてみたい。 アメリカ軍は佐管でも自動小銃をもつが、マッカーサーがぼんぼん撃ちこんできただろうか。 日清日露の役でも、乃木将軍や黒木大将が敵中へ飛び込んでいったろうか、無茶である。 それに武田時代の刀は、攻撃用具ではなく、防禦用具だったことを知らない為らしい。この、「太刀打ちせられ」というのは戦国時代特有の熟語であって、『加越闘諍記』などにも出てくるが、馬上の司令官が、腰の太刀をとって出陣のときに、 「やあ、やあ、やあ」三声あげて空を斬るごとく打ちふり勝運を祈ることの意味である。 つまり現在なら、師団長が、整列した軍隊に向って、さあっと指揮刀をぬき肩にあてて、「では進め」といった号令をするようなもので、作戦が始まってからは、軍配を振って指揮をとるが出動するときには刀を抜いて振って兵が勝鬨(かちどき)をあげるのが、(太刀打ちせられ)ということなのである。もうすこし戦国時代を講談から離れて、読んで調べて欲しいものだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年01月18日 23時22分25秒
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