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2021年01月23日
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カテゴリ:山梨県俳句資料室

山梨 柏尾の戦争

 

『山梨の百年』

 

著者 飯田文弥 上野晴朗 佐藤森三

昭和431215

発行 NHKサービスセンター甲府支所

   一部加筆 山梨県歴史文学館

 

 

柏尾の戦争

 

東山梨郡勝沼町柏尾、車が激しく行きかう国道一一〇号線のかたわらに、新義直言宗の大善寺の山門が屹立している。

この大善寺は、甲州街道随一の名刹として知られ、旅行く人々が必ず立寄っては参拝した寺である。

 そして幾百年もの間この山門は、変らぬ姿で移り行く歴史の流れを見つめて来たのであろう。

 今から100年前の慶応四年三月六日、この静かな山寺は一瞬にして、荒々しい戦いの渦の中に巻き込まれていった。 

近藤勇を隊長とする幕府側の新撰組と、これを迎え討つ官軍との戦いが、この柏尾の地を舞台にして繰りひろげられたのである。

 当時発行された大蘇芳年描く錦絵、「近藤勇胆勇之図」を見ると、大刀をひっさげて、大善寺山門前に獅子吼する近藤勇の姿は、壊滅する幕府権力の様相を複雑に反映しているように思われる。

 近藤勇の一隊は、勝沼の宿まで進出したが、圧倒的な官軍に押されて三月六日相尾まで後退する。

 国道二〇号線を大和村から勝沼町に入るあたり、日川をはさんで今では一面葡萄畑におおわれているが、柏尾から上岩崎の山にかけて甲府盆地を見晴らすこの葡萄畑の中が、いわゆる主戦場になったところであった。

 戦いは300人余りの近藤軍と、1000人を越える官軍との間に行なわれ、質量ともに優勢な官軍の前に、近藤勇の隊はものの数ではなく、三月六日、一日で大勢は決してしまい、敗走する近藤軍は甲州街道を東へのがれて、世にいう「柏尾の戦争」は余りにもあっけなく終ってしまった。

 このときの様子を山梨県史は次のように綴っている。

 

〔県史騒擾編〕

 明治元年(1926)三月五日、

江戸脱走ノ兵近暴勇等凡百七拾人会津藩兵ト称シ、

甲州道中勝沼駅マテ乱入シ、

近傍ノ猟手及ヒ浮浪ノ徒ヲ喋集シ、

本駅ニ二ケ所ノ桓門ヲ樹テ夜ニ乗シ、

村隈山間数所ニ燎大ヲ置テ其虚勢ヲ張ル、

 遠近伝報人心騒然タリ、

登夜官軍千余子因(因幡)土(土佐)両藩ノ兵、

甲府ヲ発シテ東シ田中村ニテ陣ス、

翌六日朝賊兵歌田 村(田中村ノ東ニ接ス)ニ進ミ来ル、

官軍先鋒

(土蕃ノ兵弐百余之ニ接セントス、

賊兵退テ柏尾ノ険勝沼駅ノ東横吹ト唱フル地ニシテ

南ハ深吏ニ臨ミ、北ハ高山ヲ負ヒ中間唯一線ノ路ヲ通スルノミ、

所謂一夫之ヲ扼スレ八万兵進ミ難キ者)

ニ凱り大砲ヲ安頓ス、

 

官軍進テ二重ノ柵門ヲ破り午後来牌柏尾ニ達ス、

賊兵火ヲ民家ニ放チ渓梁ヲ焼キ大木ヲ伐テ道ヲ塞キ

高所ニ凱テ銃丸ヲ下撃ス、

官軍進ムヲ得ス、是ニ於テ土藩兵官軍先鋒五十許間道ヲ経テ、

西南岩崎山(掲谿ノ南ニ在リ)ニ達シ、猟手十人ヲ募リ、

樹間ニ隠屏シテ賊兵ヲ狙撃セシム、

賊兵之ニ応シテー両手ヲ銃傷ス、猟手怯(おそ)レテ逃散セリ、

土居兵代テ賊ノ中堅ヲ銃シ其丸雨注ス、

会々西風大ニ起り民家延焼シ焰煙賊ヲ掩フ、

賊困惑シテ銃ヲ発スルヲ得ス、

其兵池田七之介等九人、是ヲ観テ恒ヲ越エテ岩崎山ニ陡り薄ル

(是時官兵ノ死傷三五人ト云、小笠原健吉、

土藩七之介ヲ撃テ之ヲ斬ル、余モ皆誅ニ就ク、

是ニ於テ賊皆散乱東鶴瀬駅へ退クアリ、

北天目山へ走ル(几三十人)アリ、

南三坂(御坂)峠へ逃ルル(几二十人)アリ、官軍兵ヲ分テ追跡シ、

遂ニ皆江戸ニ赴ク

(甲府旧町年寄坂田某ノ雑記ニ拠りテ之ヲ録ス)

 

要するにこの戦争は、徳川治世下に今まで一度も起きなかった大事件として、甲斐の山河に殷々として大砲の音がこだましたのであるから、それでなくてもここ数ケ月、人心兢兢として緊迫した空気を漂わせていた村々にあたえた刺激は大きかった。

なかには村役人の制止も聞き入れず、草鞋履き弁当持参で戦争を見物に出かけた者が多かったという。

柏尾の古老の話では、柏尾山と岩崎山の中腹辺に、これらの見物人が真黒になって終日眺めていたことを聞いたという。

 一宮町小城の萩原二郎氏の先代は、岩陰で戦いの様子を見ていたが、近藤軍が官軍の挟撃を食い止めるため打ち込んだ不発弾(砲丸)を拾いあげて持ち帰りだ。

 そんなところに苛烈とはいっても、民衆を見物席に置く政権交替制の内質を見る思い、がするのである。

 それにしても、この時点における新選組の役割と、近藤勇の去就はなにを意味するのであろう。池田屋騒動で名をあげた新選組は、公武合体派、佐幕派を守ることを使命とする京都特別警備隊を組織して活躍していたが、鳥羽伏見の戦いに敗れてからは江戸に帰っていた。

この年の正月はじめに西方軍による江戸幕府討伐令が発せられ、国情は騒

然たるものであったが、新選組は同年二月五目、江戸城を出て上野寛永寺に蜃居し、恭順の意を表している徳川慶喜を護って、山内の警衛に任じるようになった。

 

また新選組といえども、隊員の中には単なる暴徒ばかりでなく、佐幕にとどまるか倒幕派に加担するかで思想的に悩んだ者も多く、いわゆる草莽の士に加担していった者もあったのである。すなわち大久保利通らに接近し、倒幕派に加わった伊東甲子太郎が、近藤勇に暗殺されると、その同志は新選組と狭を分かって、草莽諸読売刷物として新聞かわいこ出された。

隊の一つである赤報隊結成に参画している。(平尾道雄 新撰組史)

 このように最後まで近藤勇と行をともにし、上野寛永寺の護りについていた隊員は、すくなくとも新選組の主流だったであろうし、徹底抗軟派の固まりだったといえよう。

 

それにしても近藤勇が甲州鎮撫を願いでて得た武力は大砲二門、小銃五〇〇挺、軍用金五〇〇〇両だったという。そして隊の主力は隊長近藤勇、副長土方歳三、その他十七名ばかり、兵力は春日隊を含めて一〇〇名内外、これだけの人数で甲府城の要害を孤守し、官軍に抗戦しようというのであるから、蛮勇というべきだったろうが、しかしまだこの時点では、近藤軍の抵抗に呼応して、会津のように武門の意地を立てようとする幕府側の人々も多かったのである。

 現に甲府城の内部にも柴田監物、保々忠大郎、疋田喜一郎などの抗軟派が近藤方と内通し、その到着を待ちわびていたほどであった。

 一方官軍方も、鳥羽、伏見の戦いのあと、幕府討伐の令が発せられ、有栖川宮熾仁親王を東征の大総督とし、東海・東山・北隆三道の先鋒軍が江戸に進撃を開始したのは二月二十三日のことであり、また官軍方でも幕府軍の主力が甲府城に立て籠もることを非常に恐れていた。

甲斐を目指した東山道の先鋒は岩倉倶定・倶綱の兄弟を総督とし、参謀に板垣退助、伊地知正治滋野井公(甲斐府の最初の矢口府事、彼も臨時鎮撫官として高松と同列にあった人)

 がなり、幕軍よりも一足先になんとか甲府城を乗取ることを焦眉の急とし、全軍まず信州の上諏訪につき、参謀板垣遜助かその一隊を率いて三月二日七ツ下りに甲府に向った。

そして三日韮崎着、四日早朝韮崎を出発して甲府に向い、甲府城代に城開け渡しを要求した。山梨県史にはこの時の様子が次のごとく出ている。

 

本月四日ニ至り中山道先鋒鑑軍西尾遠江之助因土、

両藩ヲ率ヰ松代高嶋及ヒ信州諸藩兵ヲ伴セテ甲府ニ入り

城代以下ニ諭スニ朝命ヲ以テシテ城ヲ致サシメ

松代藩ヲシテ之ヲ守ラシム

佐藤駿河偶々誤聞スル所アリ

勤番士ニ会ビア城下ヲ退去薦シム、

而シテ即夜駿河脱走行所ヲ知ラス

是ニ於テ番士皆負担シテ四方ニ散シ城下大ニ擾ル、

時ニ賊兵近藤勇等柏尾ノ険ニ拠ルニ会シ流言アリ

日夕城下脱走ノ士■ニ之ニ応スト、

官軍戒厳郭門ニ榜シテ士民ヲ鎮ス」

 

以上のように官軍方の勤きは近藤勇の隊よりもすべてに先んじていた。

 近藤軍が江戸を発ったのは三月一日であったし、途中日野に寄ったり泥土に悩まされたりして、漸く勝沼まで到着したときには、すでに甲府城は一日前に官軍方の手に渡ってしまっていたのである。

 そしてこの局面が移り変ろうとして、慌ただしく揺れた甲府城をめぐって、前出のにせ勅使事件も発生した。

 そうした面で興味深いのは、甲府城をめぐって甲斐国の民衆は、東と西でかなり違った動きを強いられていたことである。西から甲州街道を進んでくる東征軍は、王政復古の旗じるしを掲げ、幕府追城のため、こぞって帰順するようにと沿道筋に大々的に呼びかけていたし、またこの呼びかけに呼応して、浪人、分限者、神官、農民ら、時代を見る目に先んじていた人々は、たちまち誓詞を奉って付き従い気勢をあげたのである。

 これに対して、甲州街道を一路西進する近藤隊は、幕府累代の恩顧を訴え、幕府権威の回復収攬のために戦いに加担するよう、天領村々に呼びかけたのであった。ことに勝沼にて官軍方と一戦交えようと野戦の準備に入ってからは、付近村々に触れを出し、篝火用の薪を出させた上、鉄砲をもった猟師の参加を呼びかけたりして狂奔した。

 

この立役者は結城無二三であった。

 彼の柏尾の戦いの回顧談によると(若尾資料)、この頃彼は別に新撰組でもなかったが、江戸にいるころは大砲組に廻されていたのだという。それで少しは大砲の撃ち方を知っているし、且つ甲州の地理に詳しかった、ところから、近藤勇から甲陽鎮撫隊に誘われると、なんとなくつき従ってしまった。そして「地理響導兼大砲差図役」といういかめしい肩書をもらって、近藤隊とともに勝沼まで進軍してきた。

ところがすでに甲府城は開城してしまった後だったし、形勢は不利だったので、近藤から農兵募集をたのまれて、岩崎、勝沼、小佐手付近を飛びまわり、打々名主に触れを出して徳川家に加担するよう要請した。また黒駒辺まで走って博徒のかり集めまでやっている。しかし結城がこうして村々を飛び廻っている間に、肝心の近藤勇のほうが敗け戦さとなって敗走してしまい、どうにもならなくなった結城無二三も、ついに静岡の方に逃亡してしまうのである。

 

このように近藤勇が首謀した甲府城の死守は、天運がなかったといえようが、柏尾の戦争そのものは、どうにも無意味なものになってしまった。そして甲州の一般大衆は、この維新の激動を目のあたりに見て、西と東で二つに大きくゆすぶられ、それに対処するのにも、どのように実際動いて良いのかわからず、曖昧模糊としてただ焦隆然だけを抱き続けていたのではなかったかと思われる。

 そしてその大衆が精々なし得たことは、弁当持ちで柏尾に出かけ、始めて見る戦争というものを、ただ驚嘆してあれよあれよと眺めているばかりであった。

 

開城から甲斐府へ

 

 明治元年戊辰三月十二日、

東海遺訓総督ノ命ヲ承テ参謀海江田武次、

甲府ニ至り国事ヲ代理ス。

是ヲ本県立庁ノ始メトス

 

この言葉は、維新政府が本県立庁を告げる、山梨県史第一巻の冒頭の有名な言葉である。

 ここまでに至るまでには、苫節にみちた長い、長い、道程を必要とした。

 近代日本の誕生にとって、将軍慶喜による大政奉還の奏請と、明治天皇による王政復古の大号令とは、多難

な政局から一挙に近代の夜明けを告げる打ち上げ花火のような感があった。

 この二つの合図によって、武家制から天皇制へ、あるいは封建制から資木制へと、大きな激動を伴いながら、歴史的な歩みの一歩が始まったのである。

 甲斐国にあっても慶応四年三月五目、甲府城に正式に入城する板垣退助ら官軍の足音は、まさしく徳川三〇

〇年の夢を破り、この甲州に新しい政治の担い手が登場したことを告げたのであった。

 甲府に官軍が入ったのは、前出のように三月四日朝、参謀板垣は早速甲府城の追手門に駒を進め、城代佐藤駿河守に

「明朝十時までに城を開け渡すべし」

と通告した。

 この事態に直面した甲府城内では、すでに抗戦派、開城派さらに日和見派と三派に分れて議論百出していたのであったが、この時点では柴田監物ら抗軟派が、近藤隊の到着を待ちわびて一番去就が複雑であった。

 しかし、その晩、城の最高責任者佐藤駿河守が、江戸旗本に合流抗戦と称して

「今夜中に城内はもちろん銘々の住居も引き払うべし」

と告げ、自分も持てるだけの金銭をもって逃亡してしまったので、主を失った甲府城はたちまち大混乱に落ち入ってしまった。

 こうなっては議論もなにもあったものではない。官軍に下った一部の勤番士を除いて、ほとんどの者が大八車に家財道具を積んで散り散りに逃げていった。

 逃亡者が一番多く通ったのは甲州道中の裏街道といわれる青梅街道であった。塩山市上粟生野の田中幸男氏は、この時逃げていった勤番士の女子供のあわれな姿を、長い間語り聞かされたという。

 また実際に当時の新聞「この花新書」「内外新報」には、新宿の付近に行き場を失なった勤番士がごった返している様子を伝えている。

 当時多くの勤番士の居候を迎え入れた甲府市長松寺町の小宮山半左衛門の孫、小宮山堅次氏も、窮乏にどうにもならなくなった勤番上が、着のみ着のままで何日も厄介になって居たことを語り聞かされたという。開城から甲斐府へこのように甲府勤番士の動きは、幕府の去就の迷いそのままに、右往左往していたのである。

 こうして官軍は、甲府城の無血開城に成功した。

そして前文のように、柏尾の戦争四日後の三月十二日に、東海道先封事副

総督の柳原前光の命を受けた海江田武次が甲府に入り、

旧勤番支配役所を仮庁舎として国事を代行したのを、山梨県立庁の始まりとしているのである。

しかし勿論これは、内容的にいって動乱期における臨時軍政権にすぎなかった。

 

 この当時、東海、東山、北陸三道の先鋒軍は、柏尾の戦いのような一部の抵抗を排除して江戸に進撃していたが、三月十五日を期して江戸城に総攻撃をかける計画であった。

 ところが三月十三、十四目の両日、あの有名な西郷隆盛、勝海舟の面折の会談が行なわれ、江戸城は四月十一日無血開城となり、江戸市街は戦禍をまぬがれることができた。

 こうして幕府は実質的に滅亡したけれども、しかしなお多数の旧幕臣は、薩長などの討幕派の動きを心好しとせず、各地で抵抗している。なかでも東北諸藩は奥羽越列藩同盟を組織して頑強に抗戦体制を示した。

 それを反映して、甲州の山河も依然として騒がしかった。『山梨県史』によると、閏四月遊撃隊を組織した林昌之介ら二〇〇人余が、江戸より木更津に走り、再び海から相模路をへて八代郡の黒駒村まで侵入してきた。

それに対処して官軍方では、甲府に進駐していた松代、中津、掛川藩の兵隊が石和駅を固めて布陣し、帰順した勤番士も甲州街道の山崎に布陣して警戒体制をとったので、遊撃隊は警戒体制になすこともなくやがて敗走してしまった。

 このように、世情はなお騒然としていたので、東征軍は民衆の心を掴むことに気を配り、この年五月、

七月と続いて起こった水害には、救済の米を被害者に放出し、甲府市民にも賑米をどしどし与えるなどしている。

 また兵力の手薄を憂い、武田浪士を採用して護国隊と名づけ、関門の警衛に当らせ、帰順した八王子千入隊も、もと武田家被官の者の後裔であったので、国境警兵として名を護境隊として採用した。

さらに河口の富士浅間神社神職の者四十六名も雇隊府兵として採用し、この隊はのちに隆武隊と称するようになった。

 また都留郡吉田村の富士浅間神社の御師達四十七名も、有栖川官の守衛の許可を得、名を蒼竜隊として、四月十一目開城された江戸城につき従い、大総督の直属の守衛として活躍している。

 さらに土州藩に付属した断金隊、東海道総督府に従った赤心隊などもあった。

 断全隊は前出のにせ勅使に一早く帰順した巨摩筋の神官、浪人などが中心で、小沢一仙が捕えられてからは、一味に加担したというので逃げ隠れていたが、三月四日土州藩が入甲した際、勤王志願を再嘆願して許可され、以後四月から土州藩につき従って奥州の戦争に参加、各地に転戦しているのである。

 なおこの他に、甲府在住の勤番士で天朝方に帰順した者を編成してつくった護衛隊というのもあった。この隊は始め城代の下につけて甲府城の警衛にあたったが、さらに護衛砲隊という隊もつくり、さらにまた月を経て、帰順してきた勤番士を中心に親衛隊をつくり、これらを統合して新たに護衛隊がつくられた。

 いずれにしてもこのように、臨時軍事政権としての鎮撫府が、もと武田家被官の者の後裔、および武士に準ずる神官などを一時的に採用して兵力の手薄を補ったことは、この時点における甲州の特徴の一つであったといえよう。

 武田家浪士は前出のように、王政復古にあたり、勤王報国の情を訴え、挙兵討幕に参加したい念願に燃えていたのであるが、ことに戊辰二月、総督府参謀が一早くこの空気を知り、次の指令を発したので、浪上達は勇躍し、団結の決意をいよいよ固めたのであった。

 

 甲州武田諸浪人共へ

右ノ者共何レモ名家ノ遺隷ニシテ

多年抑欝罷在候儀ト被察候

今般復古ノ御機会ニ候条

銘々申合為国家忠勤相励候様

可仕有功ノ輩ハ於朝廷夫々御褒賞

モ可被為在候間此旨可相心得炭事 

戊辰二月

 

この結果、三月十一日、旧武田家浪士六十三名は、甲府の岩窪にある武田信玄公の墓前において、「岩窪の盟約」というのを行なった。石和町の八田政恕家資料によると、この日総督府参謀板垣退助、代理美正貫一郎、浜田良作、立会のもとに、この盟約を行なったとある。しかし結果的には浪上達は利用されただけで決して優遇されたのではなかった。

 ことに時代の感覚の上に、王政復古のとらえ方や考え方が、各人まちまちであったことも否めない事実であった。

 

 明治元年における甲州への諸藩の入衛状況は、掛川藩、松代藩、中津藩、肥後藩などが相ついで入甲したの

であるが、武田浪士たちは武田家のかつての被官として、まず右の藩兵の下に隷属することを、昔の誇りが許さないとしてこれを嫌った。

 そこで参謀板垣退助は、一策をもって右の藩主のうち松代藩主真田信濃守の家系は、かつて武田信玄公の被官であったので、それに付属するならば不平もすくなく、取締りも可能であろうと、武田浪士たちを納得させて松代藩に隷属させた一幕もあった。こうして六月二十四日、隊号を「護国隊と」して発足し、十一月には松代藩の松木源八を隊長に任命して専ら国境の関門の警衛の任につかせたのである。

 その後護国、隆武両眼は甲斐国内の不虞に備えて砲術、剣術等の鍛練に日夜精出していたが、明治三年四月四日、国内平定が成ったからという理由をもって解除を命ぜられ、応分の酒肴を褒美として与えられて帰籍させられたのである。帰籍というのは勿論帰農であって、別に被官の沙汰もこの場合なかった。武田浪士としては、王政復古に尽力すれば、やがて被官の道も開け、旧幕臣を見返すことができると信じて、信玄公の墓前で盟約までしたのであるから、維新政府がとったそうした態度に、当然不満の声をもった。それを反映して甲府県からしきりに民部省に対して、身分包蔵の票議を行なっている。しかしなかなか許されず、漸く十一月に入って甲府県の貫属卒になることを許されたけれども、これも明治五年六月には卒籍を廃されて、平民籍に編入されてしまった。  

 このうち一番みじめな思いをしたのは断金隊であった。すでににせ勅使事件のときも、紅卒に行列につき従ったというので民衆の嘲笑を浴びたけれども、その後日光道中の度々の戦争や会津若松の戦争に、常に先

兵として一番危険な場所に晒され、弾丸の飛びかう苛烈な戦いを強いられていたのである、が、会津が降伏して戦争が一応終結すると、明治二年三月十二日、断金隊はわずかばかりの月給をもらって解隊解散を命じられたのである。

 これでは、天朝の元に馳せ参じ、王事に尽力して、できれば被官の道をと望んだ人々にとって泣き面に蜂であり、

是儘御暇ヲモ披下故郷へ帰り候時ハ

兼テ誹誘致シ居候者共益々詈(罵り)り

笑フ事必然ノ勢ニテ(山梨県史第一巻)

 

という状態であった。

 しかも当時土州藩参謀より軍務官への副申の書によれば、これらの人々にとって王事に参画しようとした甲州の人士は、あくまで草莽の士であり、「…其心可憐可愛…」と呼び、あるいはまた

「…執レモ鄙野愚鈍ノ者ニ御座候得共共赤心他日ノ御用ニモ相立可申……(山梨県史第一巻)」 

といった程度にしか考えられていなかったのである。

 

またやや立場や内容は違うが、勤王侠客として一時さわがれた黒駒勝蔵などは、小沢一拍が交わっていた上

黒駒の神官武藤藤大の影響などもあって、明治元年赤胞隊に入り、その後池田勝馬と名乗って、遊軍隊東京第一番隊に加えられて維新には官軍方にあって働いているのである。このような博徒まで加えられて利用されていることは、当時の草莽の諸隊の性格の一斑を物語るものであり、しかも勝蔵は明治四年十月十四目、殺人兇暴の所業多くという理由により斬罪に処せられてしまった。

 

柏尾の戦いで近藤勇の隊に属していた結城無二三の進退も、のちには甲府で乳牛を飼ったり、キリスト教徒になったりする進歩的な人物となり、当時御一新にあたって、甲州人のタイプの中にも、時世に対処しようとするいろいろな人物が居たことが興味深く窺えよう。

 たとえば山梨県史など見ると、それこそ親子何代もかかって貯えた甲州金を、すべて献金してしまい、できれば被官などの夢もあったのであろうが、通り一辺の礼状と恩賞で済まされてしまった者もあった。

 また同じ甲州人でも、それこそ抜け目なくうまく立廻った人々もあった。

 たとえば水際だってその行為か印象深いのは、若尾逸平らの横浜貿易などで多額の利潤をあげていた商人であった。この人達にとっては、維新は復古どころか、世界の列強を向うにまわして商売をやろうとする気宇があったに違いない。それは安政以来横浜に出て、外人相手に取引をやり、世界市場をおぼろげにでも知っていたからである。従って民衆の空虚さや、護国隊などの人々の古い感覚の思想が、恐らく可笑しかったであろう。であるから、甲州をめぐる不穏な空気の時にはそれこそ息を潜めていて、いよいよ明治維新の基礎が固まったなとなると、パッと飛び出してきて、人の目をそばだてるような多額の献金をし、横浜貿易の基盤がさらに拡大される。政商としての布石をしている。

 このように明治維新のときには、人間の価値や考え方が、人それぞれに随分と変っていたのである。

 さて東制東の江戸進撃はまさに破竹の勢いであって、憂慮された甲府城もなんなく手中に入り、一部の幕臣の反撃も柏尾の戦いをもって終り、甲斐国は王政復古に一早く参画した形となった。しかし田安領は依然として藩領の管理のままであったから、維新政府直属の村々と、田安領の村々はお互に疑心暗鬼になっており、ことに田安領の村々は前途を憂えて不安は覆うべくもなかった。

 また維新政府自体も、戦いこそ花々しく幕府打倒に向っていたけれども、管理や権限の不統一さからくる統治の曖昧さは、明治元年から二年ころにかけてとくに不明確だったのである。

 山梨県史からこの状態を追ってみると、参謀海江田は、三月十二日、国事を代理し

  今般王政復古真ノ天頷卜被仰出候ニ付、

追々白朝廷御沙汰モ可有之候得共…」

と副総督の令を布いたけれども、在任わずか十一日間で、東海道副総督の柳原前光と交代してしまう。その柳原も急遽江戸に向い、五月六日再び江戸より甲府に帰り、一国鎮撫政務裁決として、はじめて国事を執った。

 しかし柳原の新政治も、一部の官員職制の手直しをしている他は、旧幕府時代の代官制度をそのまま踏襲したにすぎなかった。即ちはじめ甲府、市川、石和の三部代官に民政を司らせていたが、その三部代官を三部知県事とし、鎮撫府の下に統率したのである。

さらに十一月五目本州の鎮撫府は廃されて、甲斐府になったので、三部知県事(三部県庁)は郡政局に改められ、甲斐府の下につき、なお甲斐府の知府事には滋野井公寿が任命された。

甲斐府というのは、明治元年間四月の政体言をみると、維新政府かこの時管理するようになった国々のう

ち、一般の国には県を、重要と思われる国に府を置いたもので、当時府が置かれた国は、東京、奈良、大阪、長崎、京都、函館、越後、渡会、甲斐の九府だけであった。甲斐の国が維新時に大変重要視されていた天領であったことが判るのである。

 

その後、明治二年七月二十八日、甲斐府が廃され、甲府県が建てられた。さらに明治四年十一月二十日、甲府県を改めて山梨県とし、維新の動乱に江戸城の外屏にあって焦点に立だされた甲斐の国も、ここに漸く本格的な脱皮をとげたのである。






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最終更新日  2021年01月23日 18時11分12秒
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