カテゴリ:甲斐武田資料室
定位金貨のはじめは甲州金 特集・日本の人物と貨幣物語 大判小判物語 一部加筆 山梨県歴史文学館 甲州金から万延小判まで、 金貨変遷の歴史をたどり、 背後にある時代の流れをときあかす
古くは、遣唐使が朝賞品のなかに砂金 を欠かさず、学問僧や請益(しょうやく)生が滞在費などに携行し、その後の交易にも、日本側からの物資の大宗に砂金があった。元のフビライに仕えたマルコポーロが『東方見聞録』のなかで、見たこともないジパングを黄金の国とよんでいるのも、わが国が産金国として認識されていたことを示している。
砂金の通用を脱し、金が成型化された金貨になったのは、山金の採掘がはじまった室町後期のことであった。それを蛭藻金(ひるもきん)といい、蛭藻は沈水草の蛭蓆(ひろむしろ)のことで、その葉に似て細長い楕円形をしているところからそう呼ばれるようになった。表面に、上あるいは千の字、また雁の飛んでいる図のあるものがあって、それぞれ上字金、千字金、雁金とよばれている。 それらの蛭藻金は、おそらく京都にあった金の買い集め商人の手によって、任意的につくられたものであろう。 画家・尾形光琳の先祖は雁金屋と称する商人であったといわれているが、光琳の画に金泥がふんだんに使われているところからみても、あるいはその雁金屋は金扱い商だったのではあるまいか。そのように蛭藻金は任意的なものであったから、金質も一様ではなく、量目もいちいち秤量しなければならない不定量貨幣であった。 金のもっているあの色・光沢とともに、その稀少性、耐酸性、伸展性、分割性などの特性は、そのまま金属貨幣としての必須条件でもある。
その特質を最もよく理解していたのが甲斐の武田氏であり、信玄であった。武田氏は領内に黒川、保山ほかの優秀な金鉱があったばかりでなく、永禄十一年(一五六八)に今川氏を攻めて、富士、安倍などの金山を手に入れている。 武田氏はその豊富な産金を使って、志村、山下、野中、松木の四家に命じ、はじめての定位金貨をつくらせた。 それまでの蛭藻金などにくらべてはるかに進歩的なもので、露一両あるいは碁石金とよばれる 一両 (重さ四匁=一三グラム)、 二分、一分(一両の四分の一)、 一未 (一分の四分の一)、 朱中 (一朱の二分の一)、 糸目 (一朱の四分の一) などの単位別金貨があった。 そのほかに、小糸目(糸目の二分の一)までの小単位があったが、実際には糸目以下を一個の金貨とするにはあまりに小さすぎるせいか、例えば一分朱中糸目といったような、複合単位の刻印を打ったものもある。さらに金と銀との交換比率についても、 金一両=銀四八匁(一八〇グラム」替えと決められていたかから、その比率は金一に対し、銀一二であったことになる。
武田氏の強さの背景には、伝えられる軍略のほかに、この周到に整備された貨幣体制を主とする治国があったことを忘れてはならない。のちに、甲州を領したことのある家事が幕府治政のなかに、この制を取り入れることになる。
大判時代から徳川の幣政へ、
信長が、貨幣に関心をもっていたことは、「永楽通宝銭」を旗印としたことや、撰銭(えりせん)令を出し(永禄十二年・一五六九)たりしたことでも推察できる。ただ治世が短か かっただけに、その発行とみられるものは、大板金とよばれる大型金貨が残されているにすぎない。信長は天守内に金箔をはりつめた安土城に入った天正四年(一五七六)に、禁中へ黄金二百枚を献上している。 この二百枚こそ、大板金であったと考えられるが、明確な記録は見出せない。 後藤祐乗以来の鋳金家であった四代の光乗が、信長に重用されて刀の拵えなどを作っていたかち、おそらくその製作になるものであろう。大板金は、のちの大判に繋がってゆく。 永禄・天正の時代は、各国武将の金探掘競争がはげしくなり、まさに黄金時代を迎えていた。それらの金・銀を、最も有効に利用したのは秀吉であった。権力を握るとすぐ有力鉱山を直轄として、金・銀を手元にかき集めた。定量金貨である大判金をつくったのは、天正十六年(一五八八)とみられる。その重さ四四・一匁(一六五・四グラム)、表面に「拾両 後藤 花押」の墨書があり、上下に円枠に桐の刻印かあるものと、菱形に桐刻印があるものと の二種がある。 両者の字体と花押は全く別人のもので、文猷その他の例から、丸桐が後藤家五代の徳栄のものであることは明らかだが、菱桐は光乗あるいは弟の祐徳であるとみられる。 同十七年五月に、秀吉は装い成った聚楽第に宮家、公卿、大名を集め、金子四千七百枚、銀子二万千百枚の大盤振舞をした。世に太閤の金賦(くばり)という。 (以下略) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年02月25日 04時39分17秒
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