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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年03月02日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室

芭蕉の苦闘時代

 

この時代俳諧世界は大きな展開に際会していた。微温的な貞門俳諸の退屈なマンネリズムは、徳川の安定期の時代背景の中で育った新しい作家達の関心を繋ぎとめることはできなくなった。もっと無遠慮な、荒唐無稽な非合理の中に放笑を求めるような新風がおこり、それが非常な勢で俳壇を風扉した。

新風は文壇の長老、大阪天満宮の連歌宗匠西山宗因を担ぎ上げて大阪で起こった。『貝おほひ』を奉納した次の年、寛文十三年には、井原西鶴が『生玉万句』を興行刊行して、新風の峰火をあげ、その異風の故に「阿闘陀流」とよばれた。

 

翌延宝二年には宗因の『蚊柱百韻』をめぐって旧態派からの攻撃があり、宗因流の方からは、翌三年に論客岡西惟中が登場してこれを反撃、さらに惟中の俳譜蒙求』が出て、新風はあらたな論的根拠を得ることになる。すなわち、俳諧の本質を寓言にありとし、

「かいてまはるほどの偽をいひつづけるのが俳諧」

だといい、

「無心所着」

の非合理、無意味の中に俳譜があるという奔放な詩論が生れる。

そしてこの年宗因の東下によって江戸俳壇にも宗因流が導入されることになるのであるが、この五月深川大徳院で興行された宗囚を迎えての百韻には、「宗房」を「桃青」と改めた芭蕉も、幽山・信章(素堂)似春などとともに、一座している。

 

翌四年春山口信章(素堂)と二人で興行した「天満宮奉納二百韻」では

 

○梅の風俳譜国にさかむなり  信草

○こちとうづれも此時の春   桃青

と唱和して、この新しい宗因流(「梅の風」)の自由な放笑性に全く傾倒しているのである。

当時ひとしく宗因の東下を機にして生れた江戸の新風にも、二つのグループがあった。一方は談林軒松意を中心とする江戸在来の俳人グルーブ。他は桃青の属した上方下りかあるいは上方俳壇に何らかのつながりをもつ作家達。才能ある作家を擁していたのは芭蕉や素堂などの後者であり、俳諧大名内藤風虎の文学サロンに出入したのも、この作家達である。

芭蕉(桃青)はこの後者の中でも出色の能才で、延宝五年風虎の催した『六百番俳諧発句合』には二十句も出句しており、折から東下中の京都の伊藤信徳を交えて、山□信章とともに巻いた『江戸三吟』(五年冬から六年春にかけて)を見ても、桃青の縦横の才気は、二人の先輩に劣らぬばかりか、むしろこれを圧しているのである。芭蕉が江戸神田上水の工事に関係していたというのは、この頃から延宝八年までの四年間と思われ、一方では既に俳諧の宗匠となっていたらしく、その披露の万句興行もし、延宝六年正月には、宗匠として「歳且帳」も出したらしい。

 

延宝八年に刊行された『桃青門弟独吟二十歌仙』は彼の宗匠としての確固たる地位を示すものといえる。杉風・ト尺・螺舎(其角)・嵐亭(嵐雪).以下二十名の作品集で、それぞれに今までの風調と違った新しい格調をそなえた作品集である。驚くべきことに、僅か数年の間に、彼を中心として、これだけの俊秀が集まり、俳壇の最先端に位置していたのである。また其角・杉風の句に彼が判詞を加えた『田舎句合」・『常盤屋句合』もこの年の出版である。

ここにうかがわれる芭蕉の考えも、まさにさきの『二十歌仙』に僅かに見え新しい傾向、漢詩文への指向を示して、次の新風体の前ぶれとなる。

この年の冬、芭蕉は市中の雑沓を避けて、深川の草庵に入った。杉風の生簀屋敷だったといわれ、場所は小名木川が隅田川に注ぐ川口に近く、現在の常盤町一丁目十六番地にあたる。洋々たる水をたたえる隅田川三ツ股の淀を西に、小名木川の流れを南にして、附近は大名の下屋敷などが多く、芦生い茂る消閑の地である。草庵を名づけて、杜甫の句「門ニハ泊ス東呉万里ノ船」をもじって泊船堂としゃれこんだ。

草庵の貯えは菜刀(庖丁)一枚、米五升入りの瓢一つ、客来にそなえて茶碗十という簡素な生活である。(この瓢には素堂の四山の銘がある)

 

すべてを放下して俳諧に遊ぼうというのである。門人李下の贈った芭蕉の株がよくついて、大きな葉を風にそよがせるようになる。この草庵の近くの禅寺に鹿島根本寺(臨済宗)の住職河南仏頂が滞在していた。芭蕉はこの仏頂について参禅することになる。そして得た禅的観照が、彼の俳諧に新しい深みを加えることになるのである。

 

この頃から貞享までの数年問は、貞享元禄の正風を得るまでの模索期であり、まさに疾風と怒濤の時代である。俳壇はめまぐるしいテンポで移りかわる。その展開の軸をなすものは当時の江戸俳壇であり、もっと端的には芭蕉及びそのグループであるともいえる。

 

延宝八年(一六八〇)になると俳壇全体に目立ってくるのは極端な「字余り」の異体である。そして漠詩文調が、この字余りに一種のリズムを与えるのである。かくして取り入れられた漢詩調は、やがて単に表面だけの問題ではなくなって、漢詩の悲壮感、高雅な格調をねらうためのものとなる。荘重桔屈な漢詩調でうたいあげられた日常的事物、そこに高踏と卑俗の重なりあった世界がある。『ほのぼの立』に「当風」の例句とされた。

余談ではあるが、私はこのころの俳諧をリードしたのは、山口素堂であると確信している。それはこの後展開される江戸俳諧への各種の提言や投げかけのほとんどが素堂のリードであることが、残された資料から読み取れる。(別記)画題「寒鴉枯木」を句にした「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」(これには素堂の付け句のある短冊がある)や、自己の貧しい草庵生活を漢詩的に処理して。

 

高踏隠逸を衒(てら)う

    雪の朝独リ干鮭を噛得タリ

 

などの発句には新しさをねらう気負いや、多分に衒(てら)った姿勢はあるにしても、漢詩のもつ緊迫した悲愴感、高雅な格調によってささえられたポェジー(詩美)がある。自己の生活を杜甫.蘇東波・寒山詩の世界と観ずる一種の気取りから生み出された生活詩

 

    芭蕉野分して盥(たらい)盟に雨を聞夜哉

    佗テすめ月佗齎がなら茶寄

    櫓の声波うって腸氷ル夜やなみだ

    氷苦く偃鼠が咽をうるほせり

 

などの句は、緊迫したリズムのもつ悲愴感と、現実を脱俗高逸の高踏的世界に昇華せしめて眺めることによって生ずる一種の余裕との奇妙な混合が醸し出す高雅な詩趣をただよわせる。

 

京都での信徳らの新傾向の作品『七百五十韻』をうけて、其角・才麿等と興行した「俳諧」次韻』も、同様に新しい傾向をはっきりと示す作品である。

天和三年に出た其角の『虚栗』によせた抜文には「李・杜が心酒を信じて寒山が法粥を綴る…-佗と風雅のその生にあらぬは西行の山家をたづねて人の拾はぬ皆栗也」とあるのは、李白・杜甫.寒山のもつ漢詩的・禅的風韻と、中世の自然歌人西行にならわんとする当時の彼の俳諸観をうかがうことができ、この『虚栗』の作品はいわゆる天和調の代表的作品ということができる。






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最終更新日  2021年03月02日 05時48分09秒
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