カテゴリ:山梨県の著名人
右の手に極意あり(二) 米沢良知氏著
『中部文学』14 昭和53年 中部文学社編集 甲陽書房発行
米澤良知(よねざわ りょうち)氏
山梨県身延町八木沢に生まれる。 山梨水晶株式会社を設立、社長就任。 水晶等貴石類印章の彫刻方法を一変せしめた噴砂彫刻方法を発明、一般に公開。 山梨県議会議員に選任。 旧自民党山梨県支部の政調会長、幹事長、常任相談役をつとめ、 1955 (昭和30)年、 自民党県連結成時副会長、その後常任相談役に就任。 その他、数たる役職を歴任している。 自宅にて死去。82歳。
一部加筆 山梨県歴史文学館
通信販売の右の手
昭和三年七月、私の郷里山梨県西八代郡大河内村八木沢に、資本金一万五千円(四分一払い込み)で山梨水晶株式会社を設立し、通信販売を開始しました。 資本金はそれまでの私の貯金を充てました。株式の九十八%私の出資で、この資本比率は現在にまで続けてきました。個人経営同然ですが、名前に株式会社が欲しかったのです。 郷里八木沢は富士川沿いの戸数二十戸の寒村です。身延線の電車は通っていますが、波高島駅まで約二キロ、身延沢まで約六キロ歩かねばなりません。 朝鮮で練った案の通り、水晶印を中心とした通信販売を始めたのです。水晶印彫刻については、十年もやっていた本業なのでかなり自信がありました。開業時従業員三名で発足です。来年は十名、再来年は三十名、昭和十年には一百名にする計画です、と話しても、ホラを吹くなと本当にしてくれませんでした。 東京で篆刻と学問と二人前の仕事をした時以上真刻に動きまわりました。計画通り十名になり、三十名に達しました。昭和七年不便の八本沢から身延線の下部駅前に本社を移しました。前に書いた噴砂彫刻方法を完成した翌年です。世間で見た山梨水晶を新聞記事でみてもらいます。
『山梨水晶会社を訪ね、水晶細工になるまでを見て、工場の完備に驚く』
春まだ寒き三月上句、筆者は山梨県を旅した。山梨県といえば水晶を想起するほど山梨県は水晶をもって知られている。筆者は実はこの水晶が、どうしてあんなに立派な細工になって、市場に出るかを知らなかったので、この度の日程の中に、最も重要な訪問先として数えていた。それだけに一日も早く目的の水晶細工製造元を訪ね、その実体を見学したくあせっていた。日程を進めていよいよ甲府市に着いた。 甲府まで来ると市街のどこにも水晶製品の商店が軒を並べている。だがまだその大量生産の本家本元を訪ねてみるまでは、どうしてこんな細工が出来るかということはわからない。筆者の訪問の目的先は今やその製品と真価に於いて断然、山梨水晶王国を飾る山梨水晶会社である。水晶製品の工程に対して、予備知識をもたぬ筆者は、すべての興味を同社に集中し、甲府市から富士身延鉄道の車中に身を投じ、約一時間、田舎の村々を通って、同社の所在地、下部駅に近づいた。車中からはるか彼方に同社の一分工場である山梨水晶株式会社の文字が鮮やかに見える。こんな川合にこんな工揚があるかと先ず最初に筆者の胸を打った。車はいよいよ下部駅に着いた。早速同社を訪ねて話を通ずると、心よく迎えられ事務所に通された。ここには製品や文書の発送室である。二十名程の社員が忙しそうに、タイプライターの間断なき音に交じって事務を進めている。各地からくる注文書は山と積まれ、それぞれ整理されて、工場から運ばれた製品が発送されてゆく。
何しろここでは水晶印だけで、一日千本くらいが出来上がる能率をもっているだけに、全国から集まる注文はたいしたものである。社長に案内されて工場を見学する。水晶原石が機械力によって適当の大きさに切られ、不要の部分は削られ所定の恰好に造られる。こうして出来上がった印材に、薄いゴムをはりつけ文字を書き入れ、不用の所を切りとって、圧搾式篆刻機にかけられる。この機械によれば一分間に七本くらいの平均で篆刻される。 これまでの工程は、この山峡の林問に建てられた敷棟の工場によって、百敷十名の従業員によってすべてがなされるのであるが、筆者が、ここに読者に特に知らせたいことは、山梨県の山間にこんなに整備した工場があったこと、すべてが動力によって作られること、工湯具は就業中唯一人として話などしていないこと、製品になるまでの工程がすべて分業的に行われていること、などすべて筆者のみた山梨水晶株式会社はただ驚異の二字あるのみであった。 一日に何百本という水品印が、かくして羽が生えたように、飛ぶように全国的に売れる。一本六十銭から八十銭で売られるのも、同社の組織ある状態によってのみ編み出される結晶である。筆者はここで初めて内地の大新聞に堂々と山梨水晶株式会社が製品の宣伝をして、大衆の礼讃を博している実状がよくわかった。 ここに特に筆を加えたいことは、農村疲弊を聞く昨今、この村のみは山梨水晶株式会社の設立によって、失業者もなく合理的生産と販売によって、会社も従業員も自他共に幸福に満たされ嬉々として生活を送っているということである。
(『大阪朝日新聞』昭和八年三月二十五目付)
以上は昭和八年の山梨水晶株式会社ですが、その後の状態について甲府商工会議所発行の『水晶宝飾史』二九七百から二九九頁までを読んでもらいます。
米沢が設立した山梨水晶株式会社は昭和七年、下部駅前に移り、研磨、篆刻の両工場のほかに、広告、印刷、通信販売の三部を置き、噴研篆刻機二台を設俯し、毎日五百本からの印章を製作した。また輸転機も施設して『山梨水晶』というカタログを印刷し、これを全国に流して、宣伝、通信販売に打ち込み、年間数十万円を売り上げたという。通信販売に打ち込んだ動機は、在郷中に内地から送られてきたカタロダのうち、とくに編集や印刷などのすぐれた甲斐物産や柳沢商会のカタログに強く心をひかれるものがあったからであるといい、したがって『山梨水晶』の作成には最も頭を使い、事業の発展するとともに社員も二百名を突破、本社を甲府市春日町に移していよいよ通信販 売に全力を集中した。 このため昭和十年から、カタログ『山梨水晶』をグラビア十六頁建てとし、毎月十万部印刷することにしたが、当時甲府市にこの印刷能力をもつ印刷業煮がなかったので、東京小石川の共同印刷株式会社で印刷し、用紙は一カ年分を王子製紙にすかせたという。そのとき共同印刷でグラビア十六頁のカタログは東京三越と高島屋百貨店合わせて八万部で、山梨水晶に及ばなかったという。このカタログは二十名の専門部員の手によって、全国にわたる約五十万名の得意先に、一年に一円宛買ってもらう事を目標に、年間二回以上必ず発送し、これによって昭和十四、五年頃には目標額の六十万円を確保したという。 またこのカタログ『山梨水晶』はもちろん自己会社名をうたい込んだものであるが、その呼び名ぱそのまま特産山梨水晶に通ずるので、一カ月十万部という大量の配布によって 自然に特産山梨水品の名が広く大きく内外に宣伝されたわけで、噴砂篆刻機の発明、公開とともに業界に大きくプラスしたものといわれている。
さらに米沢は昭和七年に、水晶認印一本五十銭、木品実印一本一円という時価の三分の一の安値の売り出し広告を出して、全国印判業者を驚愕させたように、宣伝に新聞、雑記を盛んに利用し、毎月二、三千円の広告費を支出し、中央有力紙などでも有数のスポンサーとして優遇されたという。
『大阪朝日新聞』は日本一流の新聞ですし、甲府商工会議所も公の機関ですから、真実に近いものを書いてくれたものと評価されましょう。最盛時は戦争の始まる昭和十五年頃です。従業員二百名を超え、売り上げも六十万円に達したことは、母の教えに書いた通りです。 通信販売の右の手と考えたことは、関係をもつすべての人が得をする線を画するに始まると考えました。買う人は 「山梨水晶で買ったら安かった。品質がよかった」 と喜んでくれる。作る人は 「山梨水晶では現金支払いで、しかも安定した取引を続けてくれて有り難い」 と喜んでくれる。売る者も買う者も作る者も一様に得をする線上に立つことが商売の極意だと知ったのです。噴砂彫刻方法による水晶印、分業方式による木ロ印の大量製作で従来の三分の一くらいの刻料で仕上がるのですから、市価の半額でも採算に合うのです。 で、この印章を主力商品として宣伝につとめました。 昭和七年、山梨水晶のような安い値段での宣伝では、全国の印判業者はつぶれてしまう、として全国印判業大会が東京で開催されて、全国印判業組合連合会の引間会長外教名の役員が、下部本社まで抗議に来たことかあります。 昭和十年には右のような大会が甲府市で開催され、再度の抗議に新しく就任した久保田会長外教名が抗議に見えました。 山梨水晶の社長は悪い奴だ……という印象はその頃の全国印判業者には深く印象づけられたのです。 『水晶宝飾史』にある通り、昭和十年から、毎月グラビア十六頁のカタログ十万部宛印刷し、全国の得意名傍見発送したのですから、主力商品の印判類で勝負とゆき、あとはサービスで僅かな手数料で、万年筆、腕時計、バリカン、小型金物や袋物類等々、郵便で送れる商品に拡げました。一カ月十万部のカタログですから登載する商品はよく売れました。 百貨店のカタログのような内容になりました。
戦争になって、ぜいたく品の梨造禁止や販売禁止の制限が拡がり、通信販売の頼みとする代金引換郵便も中止になってしまいました。そこで時局に足並みを揃えるため、広海軍工廠、豊川海軍工廠、沼津海軍工廠に運勤して軍用ゴム印木印等の納入業者に指定してもらいました。 以上が昭和三年七月設立から十九年までの山旱水晶株式会社のあらましであります。
自分一人の力で始め、一人の力の運営でよくやったと世間でもほめてくれたし、自分でもそう思いました。ところがこの期間大きな失敗をしたのです。若い頃のくせの二人前の仕事をやってのける欲が頭をもたげ出して、本業でないことにいろいろ手を出しました。
昭和十年十月の県議会議員選挙に引っ張り出されて次点で落選し、落選の上に大きな選挙違反を出し刑務所に入れられました。『政党なんかつぶれてしまえ』の軍の威令で、選挙違反に拷問も平気でして刑罰も猶予なしの実刑でありました。
昭和十一年、日刊新聞山梨民報社の副社長に就任しました。その頃山梨県に五つの新聞があって三番目の紙数のものでした。 同じく、十一年右翼の田辺宗英氏(後の後楽園社長)が神政主義を旗印に政治結社・大日本勤皇会を結成した時、山梨県代表の理事に名を連ね、この会の顧問の海軍大将・山本英輔氏牛頭山満翁に接するに至りました。
軍事教練を目的とした私立山梨水晶青年学校を設立したのもこの年です。頭山満翁とは親しくなり、十三年、私の住所身死線下部温泉に案内したことがあります。翁にねだって、普通の筆では揮毫しないというのを、宿の筆で掛軸の揮毫をしてもらい、今でも大切にしてあります。
十二年秋、尾崎行雄先生が 「戦争を始めてはいけない、戦争をすれば日本は敗れる」 と言った憂いに背を向けて戦争協力の右翼に顔を出したのです。『山黎民報』は十五年新聞統合で廃刊になりました。
十八年、戦争指導の一方の旗頭の山梨県産業報国会勤労動員本部の責任者となって、本業そっちのけの勤務に就きました。十八年の七月、山梨県の前の労務課長で県産報主事の植田俊吉氏が訪れて来て、 「今回産報本部からの指令で、県産報に特別勤労動員本部を設けることになり、その本部長は事務局長の警察部長とは別に民間人を超用すべしとあるので、いろいろと物色したが貴下が適任と幹部の意見が一致したから、ぜひ本部長に就任してもらいたい」 と懇請を受けました。その頃の産報は県支部長は知事が兼ね、事務局長は警察部長が兼ね、総務部長は勤労課長が、練成部長は特高課長が兼ね、実質的には警察の仕事でありました。
特別勤労動員本部は企業整備によって、平和産業を軍需産業に振り替えるための、短期の事務局みたいなものと知りました。本部長は警察部長待遇で月給二百五十円だと知らされました。私は即答はさけました。植田氏がまた来て「是非就任を」と頭を下げるので、私の条件を呑んでくれるなら就任しようと、 第一 月給はもらわないこと。 第二 本部長では名前が勝ちすぎるから指導部長の名で就任する と、二つの条件を出しました。 「それでは困る」 「困るなら就任しない」 の押し問答の末、私の条件を容れたので、九月一日付で 「特別勤労勤員本部指導部長を命ず」 という辞令をもらい、警察部内に小さな一室をもらって、警察職員並みの勤務に就きました。本部長欠員のままでしだから、実質的には本部長をつとめたことになりました。一カ年たって金三千円東京の本部から特別手当として送金がありました。 二百五十円の月給になったのです。この動員本部長は終戦後追放の枠に入ったのですが、私は指導部長の名で通したので追放にはなりませんでした。が、実質的には追放該当者でした。戦争犯罪人です。特別勤労動員本部としての枠からはみ出して、普通の産報活動にも指導部長の肩書きで顔を出し、徴用工や挺身隊やの慰問激励に精力的に廻り歩きました。必勝の信念を説いて廻ったのです。
終戦の年、甲府市義勇隊が結成され、市長が隊長になり幕僚の一人に私が指名されました。私はその頃住所は身延線下部駅前でしたので、甲府市の住民でない者が幕僚はおかしいと断ったのですが、「工場の産業戦士を動員するには君が一番適任だ」と押し付けられました。甲府市北部の愛宕山の下に大きなトンネルを本土決戦の掛け声で掘らした愚挙を思い出します。
昭和十九年秋、母が死去したことは冒頭書いた通りです。母に結びついた私の人生行路は母の死で一応終止符を打ち、ふとした縁で師と仰ぐに至った尾崎行雄先生を、母に代えた太陽として、新しい人生行路を踏み出すに至りました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月26日 14時19分34秒
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