カテゴリ:与謝蕪村資料室
蕪村集 洛東芭蕉庵再興記 『蕪村集 一茶集』完訳 日本の古典58 小学館 昭和58年刊 一部加筆 山梨 山口素堂資料室
洛東芭蕉庵再興記 らくとうぱせをあんさいこうき
四明山下の西南一乗寺村に禅房あり、金福寺といふ。土人口称して芭蕉庵と呼ぶ。階前より翠微(山の中腹)に入ること二十歩、一塊の丘あり。すなはちばせを庵の遺蹟也とぞ。もとより閑寂玄隠の地にして、緑苔やゝ百年の人跡をうづむといへども、幽篁なほ一炉の茶煙をふくむがごとし。水行き雲とゞまり、樹老(きろう)い鳥睡(ねむ)りて、しきりに懐古の情に堪へず。やうやく長安名利の境を離るゝといへども、ひたぶるに俗塵をいとふとしもあらず。鶏犬(けいけん)の声籬(まがき)をへだて、樵牧(せうぼく)の路門(みち)をめぐれり。豆腐売る小家もちかく、酒を訪ふ肆(みせ)も遠きにあらず。されば詞人吟客の相往来して、半日の閑を貪(むさぼ)るたよりもよく、飢をふせぐまうけも自在なるべし。
抑(そもそも)いつの比より、さはとなへ来りけるにや。草かる童、麦うつ女にも、芭蕉 庵を問へば、かならずかしこを指さす。むべ古き名也けらし。さるを、人其ゆゑをしらず。窃かに聞く、いにしへ鉄舟といへる大徳、此寺に住みたまひけるが、別に一室を此ところに構へ、手自(てづか)ら雪炊(せっすい)の貧をたのしみ、客を謝してふかくかきこもりおはしけるが、蕉翁の句を聞きては泪うちこぼしつゝあなたうと忘機逃禅(ぼうきとうぜん)の郷を得たりとて、つねに口ずさみ給ひけるとぞ。
其比や、蕉翁、山城の東西に吟行して、清滝の浪に眼裏(がんり)の塵を洗ひ、嵐山の雲に代謝の時を感じ、或は丈山の夏衣に薫風万里の快哉(かいさい)を賦し、長嘯(ちょうしょう)の古墳に寒夜独行の鉢たゝきを憐み、あるは「薦を着てたれ人います」とうちうめかれしより、「きのふや鶴をぬすまれし」と、孤山の風流を奪ひ、大日枝(おおひえ)の麓に杖を曳きては、麻のたもとに暁天の霞をはらひ、白河の山越して、湖水一望のうちに杜甫が曹眦(まなじり)を決(さ)き、つひに辛崎の松の朧々たるに、一世の妙境を極め給ひけん。されば都径徊(みやこけいかい)のたよりよければとて、をりをり此岩阿(がんあ)に憩ひ給ひけるにや。さるを枯野の夢のあとなくなりたまひしのち、かの大徳ふかく嘆きて、すなはち草堂を芭蕉庵と号け、なほ翁の風韻をしたひ、遺忘にそなへたまひけるなるべし。雨をよろこぼひて亭に名いふなど、異(こと)くににもさるためしは多かるとぞ。
しかはあれど、此ところにて蕉翁の口号也と、世にきこゆるもあらず。ましてかい給へるものの筆のかたみだになければ、いちじるくあらそひはつべくも覚えね。住侶(りゅうろ)松宗師の日く、
「さりや、『うき我をさびしがらせよ』と、わび申されたるかんこどり(閑古鳥)のおぼつかなきは、此山寺に入りおはしてのすさみなるよし、此ころまで世にありし書老の、ふみのみちにも心かしこきが、ものがたりし侍りし。されば露霜のきえやらぬ墨の色めでたく、年月流れ去る水くきの跡、などかのこらざるべき。さるを無功徳の宗風こゝろ猛(たけ)く、不立字の見解まなこ(眼)きらめき、仏経聖典もすてて長物とす。いかでさばかりのものたくはへ蔵むべきなんと、いとさうさうしき狂漢のために、いたづらに塵壺(じんこ)の底にくち、等閑に紙魚のやどりとほろびにけむ、びんなきわざ也」
などかなしみ聞ゆ。よしや、さは追ふべくもあらず.たゞかゝる勝地に、かゝるたとき名ののこりたるを、あいなくうちすておかんこと、罪さへおそろしく侍れば、やがて同志の人々をかたらひ、かたのごとくの一草屋を再興して、ほとゝぎす待つ卯月のはじめ、をじか啼く長月のすえ、必ず此の寺に会して、翁の高風を仰ぐこととはなりぬ。再興発起の魁主は、自在庵道立子なり。道立子の太祖父沢庵先生は、蕉翁のもろこしのふみ学びたまへりける師にておはしけるとぞ。されば道立子の今此挙にあづかり給ふも、大かたならぬすくせのちぎりなりかし。
安永丙申(1776)五月望前二日
平安 夜半亭蕪村慎記 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年05月01日 06時32分26秒
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