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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年05月14日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

甲陽軍鑑 駿河進攻 品第三十九 身延山へ使者

 

元亀三年(一五七二)正月二十一日に、信玄公は法華宗の身延山へ使者をつかわした。

というのも去年、織田信長が叡山を焼きはらったので、身延に叡山を移すことを望まれたからである。そのかわりに、なか野(不詳)に今の身延久遠寺より大きく普請するから移転するよう命じられたのである。

身延山の各僧は御返事に窮して、日蓮聖人御影の前で鬮(くじ)をひいた。その結果いかんで御返事申しあげるということであったが、三度、五度、七度までと鬮をひいたが、お引き受けすべき閲がでない。そのため身延山の存続を祈念して一万部の法華経を読んだ。不思議にも日蓮聖人の御

告げが多くあったということだ。そのことを信玄公は御存知なかったが、以後、身延を東国の叡山になさろうと内心きめておられた。出家にこのように善意をもって当られたのも。次の年の四月十二日の信玄公の逝去という宿縁の故であろうか。

 

甲陽軍鑑 駿河進攻 品第三十九 二俣城と三方ケ原の合戦

 

一、元亀三年壬申十月中旬に、山県三郎兵衛は信州伊那へ向かい、それから東三河に出撃した。信玄公が遠州方面に出動なさるのを待ち合わせる間に、敵軍との衝突もあった。

信玄公は十月中旬に甲府をおたちになり、遠州只来(ただら)、飯田両城を落とし、あとの支配をされる・乾城主・天野宮内右衛門(景貫)に、遠州の常時の防備をよろしくお任せになった・久能城に出動されたときヽ家族方の侍大将に率いられた四千余の軍が三日野川付近に現われた。

信玄公は、あれを逃さぬように討ち取れ、と仰せられる。家康勢は引き揚げようとした。甲州武田勢は食い止めようとする。浜松衆(家康勢)がまさに危機に陥ったとき、家康の侍大将の内藤三左衛門(信成)という者が言った。我が家康軍の総兵力八千のうち、ここにいるのは五千だけ、家康公も御出陣でない。この状態では、信玄公のような名将に率いられた三万余の大軍と合戦しても、敗北は目に見えている。もしここで敗れようものなら、家康公直属の部隊だけで、どうして信玄と戦うことができようか。ここのところは、なんとしても退却して浜松に帰り、あらためて、一戦をとげるならば、そのときはまた信長公の御加勢も期待できよう。

八千の三河武者に、信長の支援をも加えて、無二の防戦をとげようではないか。ただし、こうはいっても、すでに戦いとなったからは、三右衛門はこの場から引き揚げることはできかねる。

 そのとき、本多平八郎(忠勝)は二十五歳、家康の配下でたびたびの功名をあげて、おいおい武田の家にも知られていたが、この平八郎が、黒い鹿の角の前立を飾った甲をつけて、身命を借しまず敵と味方の間に乗り入れ、徳川勢を引き揚げさせた。

そのようすは、かつての甲州の足軽大将、原美濃守(虎胤)・横田備中(高松)・小幡辿城(虎盛)・多田淡路(満頼)山本勘介、この五人以後には、信玄公の御家中でも多く見受けぬ武者ぶりであった。

家康の小身の家には過ぎた本多平八郎の働きである。そのうえ、三河武者は、十人のうち七、八人までは唐のかしらを甲にかけていた。これも家康の家には過ぎたものだというので、小杉右近助という信玄公御旗本の近習が歌につくって見付坂に立てた・その歌は

…家康に過たる物は二つあり唐の頭に本多平八…

というのである。

 その後、二俣城(四田)を包囲、攻撃なさるにあたり、四郎勝頼公、典厩(信豊殿)、穴山(信君)殿の三人を大将にして攻められた。とりわけ勝頼公は、紺地に金泥で法華経を記し母衣(ほう)を目印につけて奮戦なされた。右の三人の大将のうちでも、四郎殿を人々が重んじたのは、当時六歳になられた太郎信勝御曹司を信玄公が惣領としてお養いになり、勝頼公はその父君であるため、副将軍と定められていたからである(こうして信玄公は)典厩、穴山、勝頼の三大将に、大部分の兵力を預け、二俣城の中根平左衛門(正照)を攻めなさった。家康の援兵を警戒するため、馬場美濃守直属の雑兵とも七百余りの軍に、小田原の北条氏政からの援軍千を加え、合せて千七百余人を配置、御旗本から四千余人を浜松城の牽制のために割いた。このため家康は、八千の兵を率いて支援にかけつけたが、天竜川を渡って早々に浜松に引き揚げる。

 

 馬場美濃守が信玄公の御前に参り、次のように申された。

 

天竜川の渡河については、かねて絵図によって検討を重ねてまいりましが、浅い場所と深い所がしっかり確かめられずにおりました。ところが家康が川を越えて退くところをよく見ておりましたので、一段と浅いことが知れました。若武者ゆえ川を越すところを見せてしまったわけでございます。

と申し上げたのはもっともであった。

 

さて、毎日のように捕虜を捕えては侍大将衆が尋問されて得たことでは、本多平八郎の働き、三左衛門(内藤)のことや、家康の二俣城支援の計画などもよく判明した。さらに、また、中根平左衛門は、二俣城への給水を武田勢に止められたため降参し、城を明け渡して浜松へと逃れた。水路に関した作戦については、信玄公はいくつもの工夫と経験を持っておられたのだ。二俣城の常時の防備は、信州にて降った侍大将の芦田下野(信守)に仰せつけられて守らせた。こうしてまもなく、十二月二十二日、浜松の三方ケ原にまで押し寄せられた。この日は一戦あるというので、二十二日の朝、信玄公は軍神に勝利祈願の御歌を献じられた。

 

ただだのめ たのむ八幡の神風に 浜松が枝を手折れざらめや

(ただひたすら、武田家の守護をなされる八幡神社の神風に祈るものだ。幸を願う人が昔から結んだという浜の松が枝だが、その浜松の城にいる家康を滅ぼせないものだろうか)

 

 そういう勢いであったけれども、合戦はなさるまいということであった。理由は、徳川家康は東海道随一の武将といわれているが、若手の武将としては実にわが国内随一の力量がある。また信長からの援軍が九隊も加わっており、しかも、岡崎・山中・吉田(豊橋市)白須賀(浜名)にまで進出してヽ織田の軍勢が待機しているといわれるからである。また家康の伯父にあたる水野下野(守信元)も途中にひかえているという。

だから、家康と合戦したならば、きっと勝利を得たとしても、敵の大軍が、くたびれた味方に襲いかかれば、疑いなく信玄は敗北を喫することとなる。敵の本城にまで深く押し寄せていながら敗軍すれば、大きな川や山坂にさえぎられて退却することもできず、一騎一人も残らず討ち取られるに違いない。そうなれば、若いときから敗北ということを知らず、勝利を重ねてきた信玄の名誉も、みな水の泡となる。年をとってからの分別違いとあっては、かばねの上の恥辱、末代までの悪名となろう、と仰せられる。

そして、馬場美濃(信房)と勝頼と山県(昌景)の三人に指揮をさせ、今日は山際(浜松北方)にまで引き揚げるようにとの仰せであった。

 ところが、小山田兵衛尉(信茂)配下の上原能登守が三方ケ原の左側(東側)に回って、犀ケ谷(南側)の方から家康の軍勢を見てみると、「九手の備え」で、ただ一重となって陣をかまえている。信長からの援軍は、兵力だけは多いが旗色を占ったところ、旗やのぼりが澄んで見え、しかも動きが早く、敗北の色のきざしがあった。このことをただちに帰って、兵衛尉に報告すると、すぐ馬場美濃に告げ、小山田と馬場美濃とは二人うち連れ立って信玄公にこのことを申しあげる。

信玄公は言われる。では戦いに勝つという根拠は…。小山田は、敵の軍勢はただ一重に陣どっているだけで味方の五分の一でありますから、という。信玄公は言われる。理由のある意見である。それでは、旗本の中で物見(偵察)にすぐれた者は今日は誰がいるか、とお尋ねになったので、室賀入道(信俊)と申しあげる。室賀入道を召され、上原能登守とともに再び敵状を見させたところ、上原の見たところは、一段と理にかなった偵察ぶりで今日の合戦は勝利疑いありません、と室賀は走ってきて申しあげる。

 小山田兵衛尉に合戦開始を仰せつけられた時は、中の刻(午後三時ごろ)で、はじめて戦闘となったのだが、さまざまな、御検討からでたことであった。家康勢は、さすが武勇の名高い家中の者ゆえ、九隊のうち八隊が戦闘に加わる。

山県三郎兵衛の隊には、家康の旗本が攻めかかって、三町ほど後退させた。三河の山家三方衆(奥平・菅沼)はずっと山県の隊に属していたが、家康の日ごろ手並みを知っているだけに、山県が退かぬうちに四町ほど逃げかかった。家康の叔母婿、酒井左衛門尉(忠次)も山県勢に攻めかかる。左翼では小山田隊が三町ほど追い散らされたが、馬場美濃がもり返して確実に勝利した。

 

さて山県隊は、日ごろと追って大きく崩れかかろうとした。このとき勝頼公が大文字の旗を押し立て、横合いから斜めに攻めかかって家康勢を切り崩されたので、山県勢も前進し、酒井左衛門尉の隊に攻めかかる。ここで信玄公が小荷駄奉行の甘利隊に、横鑓をつけよ、と御命令になったので、甘利隊の米倉丹後(重継)は小荷駄を捨てて酒井隊に側面から攻めかかった。左衛門尉勢はこうして崩れ、敗走する。信玄公の御旗本、後備、後備の各隊は戦闘には少しも加わらず、見物のようにひかえていたが、家族はおくれをとってついに敗北した。

 

この合戦で、甲州勢は、先鋒、第二陣、合わせて十四隊だけで家康勢に勝利した。信玄公は、おそらく信長軍が今切(浜名湖)のあたりに待機して第二の合戦をたくらんでいるはずだと仰せられた。脇備えが正面に繰り出し、後備を協備に配置がえを行ない、捨篝(離れた場所に見張りの兵を置かずに焚く篝火)を焚き本篝を焚いて待ちかまえておられたが、敵は再び攻めてはこなかった。この合戦で、第一線の山県隊は、五千の兵力で戦ったが、敵の首を取った数は十三に過ぎなかったけれども、第二障の勝頼公は手に足りぬ部隊で六十三の首をとる。

元亀三年壬申(一五七二)十二月二十二日、遠州三方ケ原の御合戦とはこれである。法性院信玄公が五十二歳の御時であった。以上。






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最終更新日  2021年05月14日 18時10分09秒
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