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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年05月17日
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カテゴリ:俳諧資料室

北村季吟 野村貴次氏著

        

 貞徳は、和歌・古典・俳諧などのいずれをもこなし得た広い才能をもって、多くの門弟を養成したが、その門下から槃斎・以悦・長好らの如き和歌・古典を主にした者と、重頼・良徳・貞室らの如く俳諧を専らにした者とが輩出し、それぞれ師説を継承発展させている。

ただ北村季吟だけは、多くの門弟の中で、二兎を追いながらも、そのいずれの面においても相当な成果を挙げるという特異な存在を示している。これは、彼が貞徳のような卓越した見識や鋭い頭脳の持主であったためとは思えない。才知から言えば槃斎の方が勝っていたことは、『徒然草』など両人が同じく扱った注釈書を比較すれば明らかである。また貞室の如き野心家ともみられず、術数を弄して貞門の後継者を主張したり、和歌所法印になるために猟官運動をした人とも思われない。

 寧ろト幽の『土佐日記附註』に対する『土左日記抄』、槃斎の『清少納言枕草紙抄』に対する『枕草紙巻曙抄』の関係からみれば、対抗意識は強いが小心な人であったと思われる。また幕府に召し抱えられるや【割註 柳沢吉保に】、長年の住居と多くの門弟を捨てて欣喜江戸に赴いていることから、何よりも権威を重んじ名誉を第一とした人であったとも考えられる。かような意味からみると、吉田令世の「おとなしき学者なり」(『声文私語』)との評は、彼の長短あわせての肯綮を衝いた言葉として味わえる。

 随流は季吟の「俳諧は慰事のやうにして」(『貞徳永代記』)と記しているが、果してそう簡単に言い切れるだろうか。なるほど後になるに従って、和歌・古典に主力を注ぎ、最後には将軍綱吉の歌学指南のため、幕府に任用されたのであるから、概して言えば俳諧は従的なようであるが、彼の性格と俳諧生活をみた場合、軽く慰み事として片づけてしまえないものがある。本稿においては俳諧を中心にして、季吟に対する管見を述べてみようと思う。

 

 

 

 季吟の性格については始めにも触れたが、彼にあれ程多くの著書を成さしめたものは、彼が何事をも等閑にできず、倦まず孜々として努力する人であったことが大きな原因と思う。古典に関することであるが、「伊勢物語を空に覚えんと」努力している若年の頃、

  

いつぞやもねられぬまゝの心ずさみに、

ここかしこつゞしりふくし侍れば、

まづさしくちの段、

世にある抄物のことはりも、

又よみあへるときやうも、

愚なる我心にはいかにぞやいぶかしきうたがひ出来つゝ

いとさらにあきらめがたく侍りけり。

さるをまんなの伊勢物語に引きあはせ、

誰とやらの勘物にてかうがへ申せしより

いさヽかひが事には思ひうるやうになん有し。

(「師走の月夜」巻仁)

 

と言った努力をしているのは、その一例とみられよう。

 

日記を毎日つけるのは容易な業ではない。しかも和歌なり俳諧なりで記すとなれば、なおさらの難事である。それを彼は修練のために実行した。貞享二年の『季吟子和歌』もその一つであろうが、俳諧では若い頃一年間これを敢行している。すなわち、まだ頁徳に師事していた正保四年(二十四歳)の頃、「日々の発句は怠らずや」と言われて、毎日発句日記をつけ出し、

  兪の限もしらずながら、

すける心にまかせて、

あやしき事を思立侍しを、

不慮にながらへて、

いま廿日たらずになし侍。

かくて年もくれゆかば、定て事成侍らん。(「山之井」巻五)

 

と、完成への意志の程を示しているが、その努力は言うまでもなく、軽い慰みでは到底なし得ぬことである。その他、彼が誠実な努力まであったことは、古典注釈書の殆どを自らの手で板下を書いたり、注解に際して典拠出典を明示しているなどにより察しられるが、事を俳諧だけに限っても、相当名を成してからも自ら進んで初心俳諧講に参加したり、独吟千句を行ったりしたことにより知り得る。そうして『新続犬筑波集』二十巻を刊行するに当り、もちろん、弟子の助力もあったろうが、句の選択はもとより、自ら坂下を書き、更には詞書・作者名・句の掲げ方を従来の句集のよう

ではなく、和歌集の天心に散って書いているのなどは、彼が俳諧を如何にみていたかを知るよい例証だと言えよう。

 以上は彼の性格を物語る一例にしか過ぎないが、とにかく誠実な努力を惜しまぬ人で、しかも俳諧を余技のすさびとしていなかったことが、古典注釈家として、あるいは歌人として名を成さしめたと同様に、貞門の七俳仙の一人として数えられるようになった主因だと考えるのである。

  

 

 

 次に俳人としての季吟の生涯をみようと思うがヽ寛永元年(一六二四)十二月十一日に生まれ、宝永二年(一七〇二)六月十五日に八十二歳で没した彼は、そのすべてを俳諧に終始した訳ではない。故にここでは俳諧の動静に重きを置きながら、幼少年期・修業期・俳諧宗匠独立期・古典注釈併行期・引退期の五期に分けて眺めてみたい。ただしこの区分は便宜的なもので、古典注釈や住居の問題など、他の経歴をあわせた時には改めねばならぬものである。

 

 幼少年時代(生~十六歳)

 

第一期に当る幼少年時代は、出生から寛永十六年十六歳で安原貞室に入門するまでをいうが、この期において彼自身が俳諧を云々した事実はまだ徴し得ていない。ただ彼の父祖たちが医者ではあったが、連歌を嗜む文人的素養を持っていたので、あるいは季吟が、斯の道に関心を持つに至った契機を与えているのではないかとの推定ができることだけである。

それで簡単に祖父宗龍と父宗円について述べておこう。

 宗龍は季吟の郷里でもある近江国野洲郡北村に生まれ、一時京都に出て曲直瀬正慶のもとで医術を学び、ある時期には芸州の毛利元康に仕えたこともあったが、大半は郷里で医者として過ごした。そして傍ら連歌を紹巴に学び、かつて宗祗も足を留めたことのある永原天神の連歌の宗匠をしていた。季吟はこの人の七十二歳の時生まれているので、直接の影響は余り考えられないが、『埋木』に祖父が紹巴から伝授された抄物を引いた箇所があるので、宗龍の書籍などが季吟に伝わっており、これらのことから文学への関心が与えられるようになったとも想像されるのである。

 宗龍には二男二女があり、長男宗与は家業と連歌宗匠とを継ぎ、生涯を郷里で送ったらしい。季吟の父の次男宗円は京都に出て曲直瀬門で医を学ぶ傍ら、連歌も学んでいるのでやはり文人的素養があったとみられる。しかし何時上京し何処に住んでいたかな詳細は不明であるが、季吟は父の二十九歳の時生まれているので、あるいはこの頃には既に上京し、開業していたとも考えられる。花月を愛する人らしいが、宗吟への影響を確認するまでには及んでいない。

 

 第二期 一六歳~

 

第二期を十六歳からとしたのは、貞恕の『蝿打』に「二八計の比よりも貞室が弟子として」とあるによったので、この頃から本格的な修業を始めたと思う。当時、貞室は三十歳、既に貞門の中堅として重きをなしていた。入門の目的は古典など広い意味の教養を身につけるためとも思えるが、あわせて隆盛に向かいつつあった俳諧にも強い関心を持ち、これをも学ぼうとしたと考えられる。

 そして、ここで六年余り指導を受けた後、貞室の誘引で正保二年(后)の暮れ災厄の門に入っている。時に貞徳七十五歳、当時の文壇中の重鎮であり、しかも貞門の祖として俳諧では第一人者であった。この大家に直接師事して、季吟が更に一層精進したことは、『山之井』や『師走の月夜』などから明瞭に知り得るのである。

 かような努力の結果は師の認めるところとなり、若年ながらも同門における地位は高まり、二十五歳(慶安元年)で早くも『山之井』の刊行をしている。これは良識の徴憑によるものであるが、単なる句集と異なり、季題の解説書で、

「花さきの翁、一貴子の句帳の中より、其のりとしてあらまほしき句躰をかきぬき」、該博な古典の知識と雅味のある文章により巧みに纒めている.これは彼が、実作家としてのみならず、理論家としての抱負を示すものであって、父祖の持っていた連歌論書などを若年から読み、知識を蓄えていたろうことも考え合わされるのである。そしてこの解説方法は、単に俳諧のみならず、古典注釈の場合にも応用されているのを思うと、処女作『山之井』は季吟の生涯のある方向を暗示しているようにもとれると思う。

 彼は更に引き続いて翌年の暮れに『師走の月夜』三巻を述作している。これは随筆風の句日誌とでも言うか、『枕草紙』のような雅文の体を気取りながら、自己の俳諧生活と詠作とを載せている。これから彼の俳諧観や、修業のために行っていた独吟・両吟・興行などの有様、また交際している人々の範囲が知られる。

かくして彼の名実は具わり、慶安四年(二十八歳)の催された、西武・貞室の点者許可の竟宴にも列席し、更には承応二年(三十歳)の春に行われた貞徳晩年の大興行『紅梅千句』の興行には、先輩に伍して参加するだけになっている.しかも明暦元年(三十二歳)これが刊行に際しては註文を記す立場にまで進んでいる。

 貞徳は紅梅千句張行の年の冬に世を去ったので、貞門一派はその支柱を失うこととなった。入門して十年足らずの季吟には、他の先輩よりも受けねばならぬ教えがまだまだあり、その悲痛は

「天にさけぶかひやあられの玉よばひ」

では尽し得ないものがあったろう。

 

 とまれ、この期における季吟は貞室・貞徳二師により俳諧の限を開き、斯の道に精進努力して、貞門の枢要人物となり得たと考えてよかろう。貞室とは始め師弟の関係で、貞徳入門後も殊に親密であったが、明暦二年以後不和となっている。確執の頃の貞室仮託の書『五条之百句』(寛文三年)に、

  此仁若年のむかしより此道に熱心をなし、貞室も其心ざしを感じ、

貞徳在世の内にも折々伴行て、徳老の会にも折々逢し仁也。

朝夕に粉骨を尽し、真槍真室の流を学ばれしにより、

名句も数度いたされ、但もたくみに万事器用たり。

云々とある。この書が論難書であり、季吟にも鋒先が向いているので、できるだけ昿そうとして書いたものではあるが、その精進ぶりだけは認めざるを得ない書きようである。これらから推すと、季吟は当時並々ならぬ努力をしていたと推察できる。

 

 四 俳諧宗匠独立期 承応二年~万治三年

 

第三期とした俳諧宗匠独立期は、承応二年貞徳の没後明暦二年の俳諧宗匠独立を中心として万治三年(三十七歳)『新続犬筑波集』成立の頃までの約七年間が合まれる。貞徳の没後門人たちは各自師の遺業を継承発展させるべく努力したが、特に季吟を中心にしてみた時、明暦元年五月の『紅梅千句』及び同二年八月の『玉海集』の刊行が挙げられよう。これらはいずれも師の在世中にほぼ形ができていたものであり、かつ季吟自身の業績とは言い難いが、前者の跋文や後者の収録句数などをみると、貞徳没後の彼の地位がある程度想像できる。

 明暦二年が宗旨の俳諧生活の上で大きな意味を持つことは既に述べられている。この前年の暮れに一応擱筆された『埋木』と、この年の三月に行われた宗旨系俳人のみでなされた祇園社頭での俳諧合、及び七月の『誹諧合』の刊行、同八月の『いなご』の成立などは、真宗との確執、宗匠独立とからんで、季吟の将来への方向を決定したものとして、多くの問題を含んでいる。

貞室との確執が何時頃から始まったのか明らかではないが、承応三年以来三年間、貞室・安静と名を列ねていた歳旦三つ物が、明暦三年になると可全・則常・元隣と名を列ねて、貞室とは行っていない。故にこの二年に何か起ったのであろうと想像される。この事について季吟は何も語っておらず、無言の裡に貞室との離反を示しているが、貞室は余程腹に据えかねたのであろう、『五条之百句』の中で季吟が秘伝を守らなかったためであると言い、原因は季吟の方にあるような口吻である。しかもまだ言い足りなかったのか、弟子の頁恕は『蝿打』の中で、季吟の誓紙と称する物まで掲げて、その不誠実さを徹底的に罵倒している。

 一方的な言詞だけでその真偽をきめる訳にはゆかないが、季吟の性格を考えた時、貞室が怒る原因を与えなかったとは断言しかねる節もある。しかし貞室がこれ程までに躍起とならざるを得なくなったのは、単に秘事云々よりも更に大きな問題があったからではなかろうか。すなわち、かつての師であった貞室よりも、何時の問にか強い勢力を持つに至り、貞室がそれに耐えられなくなったのではないかと思う。それは当時宗旨が強力な地盤を確保し得ていて、さきに挙げたような目ざましい活躍をしているのを考え合わせてのことである。『誹諧合』の刊行に当って元隣は、「此先生、今やがて撰出(えらびいで)らるゝ新犬つくばの風体にも、いたらんたよりとをからじ」と、季吟一門による斯句集の刊行の気概のほどを示し、事実この期の終りになされた『新続犬筑波集』二十巻が、

 作者 七百廿七人(国数四十六ケ国)

 句散 四千二百六十九句(付句干百二十句、発句三千百二十句)

を収めているのをみると、季吟の勢力が如何に強大であったかが知られるのである。

 なお季吟が俳書に新しい工夫をこらしていたことは、さきにも述べた『新統大筑波集』の体裁もその一つであるが、『いなご』二冊を絵入りとして目新しくしていることにも注意される。とにかく、この期における季吟は俳諧に最も積極的であり、ある意味では貞門の他のいずれよりも尨犬な勢力を持っていたと言えるのである。

 

 五 第五期 寛文元年(三十八歳)~天和三年(六十歳)

 

第五期は、古典注釈との併行期とも言える時代で、寛文元年三十八歳から天和三年六十歳頃までの約二十三年を含めている。

この期においては、『土左日記抄』に始まる古典注釈書が次々と刊行され、季吟はこれに多くの時を割かねばならなくなった。しかし俳諧も決して疎かにはしていず、門弟の指導・詠作・興行、あるいは句集・式目書の刊行などを行って、貞門の維持継承に努めている。但し以前のような傾倒的な精進ぶりはみられず、自門の大御所として勢力を保有しようとしていたとみられる活動と思われる。かつ湖春(元禄十年歿 五十歳)正立(現六十五年歿)の二子の成長と兵に、次第にその仕事を彼らにまかせ、自らは隠居として第一線から段々と退いていっているのである。

 

 この期に刊行された彼の著または編になる主な俳書には『俳諧両吟集』(寛文四年)・『新続犬筑波集』(寛文七年)・『続山井』(寛文七年)・『季吟十会集』(寛文十二年)・『俳諧埋木』(延宝四年)・『続連珠』(延宝四年)などがある。

また序文を記しているものには『牛刀毎公編』(忍山山人)・『諸国独吟集』(元隣)・『河内名所鑑』谷・『武蔵曲』(俳諧集 千春)・『うちくもり砥』(俳諧集 秋風)などが挙げられる。

その他、自筆本または写本として伝わっている彼の著述や判詞などの類は相当数あるが、たとえば 

『百五十番誹諧句合』

    『俳諧句集』

    『季吟俳諧集』

    『季吟宗匠俳諧』

    『俳諧之事』

    『百番発句合』

    『延宝七年』

    『拾穏軒都懐昏』

のようなものがある。さらに彼の句を人集した他の人の句集を挙げれば枚挙に暇がないので省略するが、かように自著はもちろん、他著にも彼が対象となっていることは、当時における彼の名声が大きく、また勢力も強かったことを意味するとみてよいと思う。

 

 

 次にこの期における彼の俳諧上に関する問題についてみるならば、まず『埋木』の刊行であろう。同書の成立は明暦元年の暮れである。それが十八年後の延宝元年に漸く刊行されている。『埋木』の内容は、俳諧秘伝書である『誹諧進正集』や『誹諧之事』などと類似したものであるが、それをこの年になって公開したところに、新しく興って来た談林派の勢力に対抗しようという意図が汲まれるのである。

貞門ことに季吟の勢力はもちろん京都が中心ではあったが、大坂はこれに次ぐ重要な地盤であった。『新続大筑波集』の句引に、山城百八十人に次いで摂津が百五十四人となり、しかもその中で

も大坂が多数を占めている。その大坂から新風の談林が興り、急激に勢力を伸ばし、しかも季吟の門下の中にはそれに眼を向ける者さえ出てきたので、季吟としては放置できぬ立場に置かれた。伝授書として一部にしか見せなかった『埋木』を公刊し、貞門が歴史的にも純正正統であることを強調せぬばならなくなったのも、対策の一つであったと言える。

また翌々年催された季吟親子の三時『花千句』刊行に際し、

  かつその風舷を見ならはしめ、

かつは正道をすごめて思ひ邪なからしめんためならし。

 

と湖春が序に述べているのは、貞門の模範的俳諧を示して、談林への移行を阻止しようとした第二の策であったとも考えられる。

 このような動揺はあったが、全般的には貞門ことには季時門は根強い力を持っていた。すなわち、この『花千句』に対して、肥後隈本の三楽なる者が、延宝五年三月に『肩入奉公』を出して、季吟の式目作法の誤りを衝いて非難した。

 

式目は季吟の最も得意とするところである。それを論難されたのだから黙ってはいられず、さっそく八月に門下の阿波の鳴門水雲に『大長刀』を出させて、これに応じた。しかし、この論戦はそれ以上発展せずにしまったが、ある意味では季吟の勢力がまだ強かったためとも思えるのである。

 

 貞門の俳諧は一口に言えば言葉の遊戯である。機知と洒落で即興的な笑いを催して楽しめばよかったから、職業的俳人は別としても、一般の人々ことに上流階級の慰みには恰好なものであった。殊に相手が季吟のような古典にも和歌にも通じた者であれば、珍重されるのは当然であった。かような点からか、季倚は東本願寺やその一族、あるいは伊勢久居の城主藤堂任口、奥州岩城の内藤風虎のような大名たちなどとの交際が俳諧を通じて行われている。

名実共に備わり、年齢的にも申し分のなくなったこの期においては、このような権門への出入が殊に多く、これは前期にはみられなかった事である。

 しかし、この節の始めにも述べた如く、年と共に歌学への指向が増しているのは否定できず、新玉津島に移ったのを機会に、湖春らにその地位を譲り、自らは俳諧宗匠としての第一線から退いているのである。

 

 第五期は引退期とも言える。天和二年に着手した『万葉拾穂抄』の完成後間もなく、元禄二年(六十六歳の暮れには江戸に赴き、将軍綱吉の和歌指南という全く違った生活に入り、俳諧生活からは完全に離れている。そして季吟父子が京都を離れてから、大坂にいた正立がその跡を継いではいるが、彼もまた間もなく江戸に下ったので、季吟門の要員はすっかり俳諧から離れてしまった。ただこの期にも歳旦句など詠んでいるところをみると、余技的に行ったり、また応接上詠んでいたこと

はあるらしい。しかし、それは俳壇における活動とは言えないから、結局、彼の俳諧生活は四期までであったとみて差し支えなかろう。

 

 『埋木』について

 

『埋木』の成立・刊行、その意義については、榎坂氏の「誹諧埋木について」(『連歌俳諧研究』第十六号)の論考に詳しい。

 これらの本文の比較研究は、尾形彷氏の「芭蕉と埋木」(「連歌俳諧研究」第十三号)にみえる。

 

 六 季吟の俳風について

 

季吟の俳風について、随流は『貞徳永代記』の中で、

  道戯たるやうにて俳言つよからず。

つよからぬは哥人の誹諧なればなり。

一句かろがろとして色すくなし。

いはば一重桜のちりけるを、

女わらべの拾ひもとむるがごとし。

と評している。強いて小町に擬そうとしているが、和歌の匂いがあるとしたのは当っている。彼の句は、新奇を示し、人の眼を驚かそうというようなものではなく、古典や故事をいうようなものではなく、古典や古事をふまえて、掛詞や縁語に頬万、あっさりと詠んだのが多い。純正の貞門調ととも言えよう。また年代的に句風が大きく変化しているとも考えられない。

 

春の風うそふくやとらの一天下

    正保二年正月(「師走の月夜」『いなご』「歌俳難易説」)

 

すきものはさくをあやかれ梅の花

    慶安三年正月(『山崎宗艦影開百韵』『埋木』)

 

匂ひみちぬ天も地もとの花さかり

明暦二年三月(「新統犬筑波集」)

 

雪もつもるなげきや樟の七回忌

    万治二年十一月(「新統犬筑波集」)

 

草花のさくもなければ作もなし

寛文元年七月(「季吟日記」)

 

万事は皆ひがん桜よ一さかり

    寛文十三年二月(「季吟廿会集」)

 

  地主からは本の間の花の都か な   

延宝三年八月(「花干句」)

 

  花の陰やすむ重荷や菜弁当     

延宝七年三月(「正月試筆」)

 

 次に季吟の門下について一言しておくと、『誹家大系図』その他をみると、門流と称する者が多く挙げられている。事実『新統犬筑波集』以下の句集によって、その全貌を知り得る。しかし、それらの中にあって彼に親、親炙(しんしゃ)し道統を継ぎ得る者は果して幾人いたろうか。そう多くいたとは思えず、真に彼の意を体していた者は、潮春・正立の二子の外には、元隣と大心の二名ぐらいではなかったろうか。しかも、これらの人々は未だしっかりした各自の門

 

弟を持っていなかった上に、いずれも宗吟より早く世を去っているので、結局、宗旨の道統は誰にも継がれることなく、一代で終ったことになる。

 

 彼の俳諧史上における意義は、俳書・式目書などの刊行や門弟の養成が考えられるが、要するに自己独自の風を創り得なかった彼は、貞治の没後ある期間、貞門の維持継承に努めたに遜ぎないと言っては極言すぎるだろうか。なるほど、芭蕉や素堂の如き特色ある作家を出したとも言われるが、彼らと季吟との関係が明確にならなければ、門弟とすることはもちろん、相互の影響について云々することは不可能である。

 

 宗旨自身にとっては「すける」道であり、ある時期における努力は十分認めなければならないが、俳諧の流れに大きく目を注ぐことができず、談林現われずとも貞門自体何らかの新しい方向を考えねばならぬ時においても、彼は依然旧習を墨守していた。彼にはそれを敢行するだけの能力がなかったとは思えないが、歌学など他の面に進んだため、積極性を失い、当時にあっては大御所的な存在として扱われながらも、史的にはさほどの価値を与えられない所以であるとも思うのである。

 

 

 






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最終更新日  2021年05月17日 18時34分46秒
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