カテゴリ:飯田蛇笏の部屋
わが蛇笏 きえてののちは 塚本邦雄氏著
『俳句』昭和58年発行 角川書店 一部加筆 山口素堂資料室」
ことごとく つゆくささきて きつねあめ (『白嶽』)
露草が悉く咲くとは、果していかなる状態を示すのか。野生の、雑草の一種であるこの草は、前栽畑の隅に、玉蜀黍畠の肥甕の陰に、あるいは杉林の除(と)り忘れた下草に混って群落を作り、小なるは一掴みほど、大なるは見渡す限り、ささやかに、あるいは意外にふてぶてと、一つの空間を占めてゐるものだ。 在来種の露草にしろ、安藤の下絵用の青い染料を採る大帽子花にしろ、黄花梗のコムメリナ・アフリカーナにしろ、露草の仲間な一票に一日一花か二花開くだけで、「ことごとく」とは言へない。多分この副詞は、一群の、ざっと二、三十輪の花が一斉にあの鮮かな緑色に開いたことを意味するのだろう。 場所も特に指示しない。状態も明らかにはしない。「ことごとく」といふ曖昧な副詞に一切を託する。そして、しかも、読者の心中には、作者がなまじ限定するより、遙かにふくらみのある、畳かな空間が生れる。ある人は六月半ばの流れの岸の草薮を思ひ浮べ、そこに頬を紅に染めた少女を立たせるだろう。またある人は七月に入ったばかりの草原への畷を想像し、場面の外に厦れた人馨を幻聴させるかも知れない。いづれにしても、その無限定で儚い空間は、「きつね雨」の通り過ぎることによって、更に模糊たる、異次元めいた印象を深めるだろう。狐の嫁入のそばへ雨、その「狐」一語で、句はたちまち鄙び、空間は都を遠く離れた里を想定せねばなるまい。 世はすべて事心なし、日は照りながら降る雨が、不吉に華やいで、葉毬から一つづつ覗く露草の露の空色が、むしろ異鍵の前兆めく。真畫間にもある逢魔が刻、その妖しい静寂を、狐雨のひそかにすばやい雨脚が一際深める。この、露草の領する次元は、既に日常の、見馴れた空間ではない。作者の創り上げた、特殊な美的空間とも言うべきか。さればこそ、決して、「悉く露草疾きて狐雨」などという、通り一遍の、常識的な表記を採りはしなかった。十七音ことごとく「ひらがな」で書き流すことによって、露草の鮮明な標は狐雨にうるみ、雨過ぎて後の里は、草薮は、人を拒んでひっそりと息を殺している。その奇異な静寂、人を懐しみっつ、敢へて近づけぬ長閉な時間は、一字でも漢語・漢字を交へるなら、たちまち騒がしくなるだろう。
をりとりてはらりとおもきすすきかな (『山廬集』) たましひのたとへば秋のほたるかな (同) 鵜かがりのおとろへてひくけむりかな (『山廬集』) あながちに肌ゆるびなきうすごろも (同) ふたおやにたちまちわかれ霜のこゑ (『心像』)
これら、漢字表記を拒み、あるいは最少必要限度に止めた句の、それゆゑの密度の濃さ、そこに生れた類ひない流露感を改めて思ふべきであらう。
露草も露のちからの花ひらく (『百戸の路』) 秋嶽ののびきはまりてとどまれり (同) かすみっつこころ山ゆく花うっぎ (『忘音』) ふるさとはひとりの咳のあとの闇 (同) 空べうべうとせんだんのみどりかな (『春の道』)
龍太に悉皆ひらがな表記の句が有るか否か、私は寡聞にして知らない。少なくとも、代表句中には、『春の道』の「空べうべうと」の例が漢字最少の一つであった。龍太の露草は、その花の象以上に、凝る露が命を主張する。白珠か何ぞ、と問ふ人の目にも、その露は古渡りの土耳古石のやうな碧くきらめく。だからこそ、二度も「露」を漢字表記して、その幻像を読者への唯物とした。 表記を仮名勝ちにする時、仮名の占める率の多さと正比例して、凝縮力は弱まり、作像力は落ち、陰暦は淡くなりまさる。蛇笏はそのマイナスを極限まで追いつめることによって、遂にその弱みのままで、さっと立ち直り、漢字表記の估屈たるリゴリズムと、その力を競ってみせた。そして、毫(すこし)も短歌的な調べに和すこともなく、韻律の魔に誘はれることもなかった。一字一音の表記をゆるがせにする時、短詩形の要の釘は次第に歪み、つひに一句・一首は醜怪な韻文の塊と化する。末世の作者の、今こそ顧るべき、作詩法秘訣の一端ではある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年05月20日 16時44分28秒
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