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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年05月25日
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カテゴリ:富士山資料室
​富士山の歴史 先佳民族域砦の遺跡​
富士の裾野地帯の梨ケ原には、犬小二箇の臼窪山があるが、これは元來富士の寄生火山であって、臼のような形状になって、中央に窪んだ火口ができている。鐘山(忍野村忍草)とは、桂川を隔てて相対しているが、西が大臼窪山、東が小臼窪山で、桂川をのぞんで並列して居る。
 ○大臼窪山 
大臼窪山は、高さ五六間乃至十間ほどの外郭丘陵が輪状をなしている。一番高い所へのぼるに、八十歩を要し、東南西の外郭丘陵の上部を歩測すると、三百ハ十六歩乃至四百歩ほどを要する。北部はやゝ低く桂川崖上をのぞんで開口している。その開口する部分の幅七十四歩。噴火口の東内側百九十歩、西内側は五十歩.西内側は二百五十四歩ほどあり、火口は火山礫で埋没している。
丘陵内壁の東南西の三方は、三段の階段となっている。この階段は人口的のものである。この丘陵上にのぼれば西は河口湖・西湖・精進方面の富士の裾野を一眸の中にのぞみ、御坂山系木無山つづきの十二ヶ嶽、その他の連山が見える。東北は内野忍草の平野を脚下に御正体山、山伏峠から道志の山々、丹沢山の一部、籠坂峠につづく天神峠、足柄山方面まで見える要審の地である。
○小臼窪山
小臼窪山は大臼窪と同じ形式で、後方にひらけた口は、幅間高さ五間、外廓丘陵上三百四十歩。内部底百五十歩ほどである。そして後方にひらけた口は、桂川の急流が深潭をたたえている。
古代の内野忍草附近が湖沼であった時代には、満々たる水をめぐらして、今より一層の要塞地であったであろう。
この小臼窪山の南方二手の所に、彼等の居住した遺跡があり、土器・石器の破片が散在していたことは.前章に述べた通りである。
この小臼窪山の外廓丘陵に於いても、その廓内に於いて弥生式土器の一小破片を発見した。その小破片が、その小破片が彼等の石鏃の製造所で、かつ住居遺跡であった所から発見されたものと、殆ど同時代の弥生式土器である。
○大臼窪山
大臼窪山附近ではまだ当時の遺物は発見されないが、小臼窪山では彼等が生活に使用した、土器を発見したので.この山と彼等民族と密接な闘係があったことが考へられる。大臼窪山からは確証すべき遺物は発見されないが、小臼窪とは数丁の距離にあり、同一形式の丘陵である所から考察しても、両者が彼等民衆と関係のふかい、要塞地であったことが想定される。
大臼窪山をもチャシ(砦塁)とする理由は、休噴火口壁の内側に於ける周囲の階段である。人工的に三段の丘階を形作ってあるが、これがどうも近世のものとは思はれぬ。かの朝鮮に於ける鉢巻山類似のもので、鉢巻山は外部に鉢巻をしているが、これは内部に階段が作られている。その様式が、古代に於ける築城法と考えられるのである。
○谷村勝山城址
谷村町の古城、河棚の勝山城址のごときも、歴史記録では淺野某が城を築いたというが.事実はそれよりズツト古い、有史以前の城砦であつた事がわかった。勝山城址の山上で石鏃の破片を発見し、つづいてアイヌ土器、弥生式土器(木の葉痕あるもの)などを発見しているので、一度ここにのぼってて見ると、北は岩殿山方面の北都留の群山から、南は裾野を見はらして富土を中天に仰ぐ、景勝の地でしかも敵の行動を知るに都合がよく、要塞地として桂川上流沿岸に於ける一等地である。城址上に土塁の階段があって、大臼窪山の内部の階段と同一の手法である。
この附近に於ける古代のチヤシ(砦塁)は、谷村町古城山(勝山城址)・大臼窪山、精進バノラマ山・嘯(ウソブキ)山(船津村)などの他にまだ二三あるが、中にも大臼窪山の要塞地は、富士山麓において最も特殊な地形を有するものである。
○富士郡大宮町の黒田附近の城砦
なお富士山の周囲において、富士郡大宮町の黒田附近の城砦である。この地を俗に「月の輪」と称している。月の輸は大宮町字星山区内に属し、その四周の地形がすでに天然の城砦をなしている。後方には断崖あり。前面には古代の湖沼の地を隔てて、富士山に相対し、明星山は近くそびえ、かなり要害の地であった。そごからは主として弥生式の土器や、石器類を出土するのであるが、三方を水にかこまれた地形なので、彼等がこの地に原始的な生活をしていた頃は、四辺は老樹が鬱蒼としてしげり、湧水も潺々(センセン)としてながれ、寂しい物すごい丘陵地であつたと思はせられる。平常は山の根の台上に住み、いざ戦争となれば裏山の城砦に立て篭もって争闘をつづけたものと老えられる。
○富士郡富士根村字箕輪
これと類似するのものが、富士郡富士根村字箕輪にある。ここには彼等日本人が来住しなかった以前に、アイヌの山城要塞であった思われる場所で、地形はほとんど箕の形をして居り、アイヌの遺物も出れば後の日本人遺物である弥生式土器なども出る。これは始め富士アイヌの占拠地であって、後に日本人に占領された遺跡である。
○富士川下流の明星山
 
富士郡地方の伝説によれば、富士川下流の明星山は、古代日本人が兇族悪羅王を征服した山城などの、神話が里俗の間に今も残っている。そしてこの地方に割拠していた先住昆族は主として狩猟生活者であって、山祇の神を崇拝した山砥部族であつたことは石器などの遺物によって推考されるのである。
富士山歴史講座 <山祇郡族と海神部族>
山野の神を祀る様式としては、富士山そのものを神として崇拝した、富士郡浅間社のような、あるいは倭文(シヅ)神社のように、白然石を神体として拝殿のみを存じたものや、富士山を神霊として御神体として崇拝したことは、山祇部族によって行はれたことで、神社は有史以前から祀ってあったので、吾々の祖先が崇拝したものばかりでなく、先佳のアイヌ種族の祀った神社も存在して居て、それをまた祖先日本人が受けついで、神として崇拝したことも考えられる。祖宗の神霊を奉祀することは、先住日本人の日常行事の仕事であったから、彼らの生活の地にして神社のない所はなかった。
しからば古代の富士山及びその周囲には、山祇部族の祖宗たる大山津見(オオヤマツミ)神派の神社ばかりかというと、そうでもない。
高原地帯の土地ではあるが、富土の周囲には湖沼が多くあって、甲府平野も古代は淡水の海だったので、附近には大海津見(オオワタツミ)神系の祖神も祭祀せられている。その海神部族も有史以前から移佳していた。
精進湖畔の海和田・大科田の地名は、セの海時代に海神部族が居佳していた事を物語るもので、河口湖畔の足和田や敷島附近の遺蹟、忍草の三左衛門入りの遺跡などは、湖畔生活者たる海神派遺蹟と見ることができる。川口湖畔長浜おける貴船神社、鵜の島弁天、西湖青木ケ原の剗(セ)の海神社などは、河海に因縁のある紳杜である。
三吉村法能字佳吉は即ち佳吉神を祭ったところで、これまた水に闘係がふかい。南都留郡秋山村にも、海河原とか和田などの地名がある、むかし水溜りであったような秋山川の、沿岸わずかの所であるが、この地方にも海神部族が佳居していたものと想定される。
されば吉代の彼らの一部族は、山祇(ヤマズミ)として山野に生活地をもとめ、一部族は海祇(ワタズミ)として河海湖沼などの水郷地に、その生活の舞台を求めたものと思はれる。
<山祇郡族と海神部族 その二>
○「神祇史」に
「巨摩郡の穂見神社は上條南割村にあり。太古に国中に洪水氾濫した際、国ツ神と力を併せ、山を切り、水を流し平土を得たり、故に祭って社稷の神と爲す」
とある。
山を穿った「安曇宿禰」は海神「綿積豊玉彦ノ神の子、穂高ノ見命の後なりとある。穂見神杜は穂高見系と同神で、海津見系の紳と思われる。
鉾衛(ホコサキ)神社の旧蹟地、甲州八代郡鉾の木境内から、有史以前の弥生式遺跡を発見している。鉾衝神社は阿曇犬養、海紙大和多羅二世の孫、穂己都久命を祭つたもので、安曇宿彌や阿曇犬養の族が原史時代に、穂見神社或は鉾衝神社を祭ったことは、この地方に海津見神、大和多羅系の海神部族が、古くから佳居していたことがわかる。
信州地方の安曇郡、日本アルプス穂高地方の、穂高神社、佐渡の渡海神社、越後の青海神社、武蔵野青梅も青海の転訛したもので、青梅附近の日向和田の和田神社も、海(ワタ)津見一族に関係がある。
群馬県利根郡片品村・武尊(ホタカ)山を中心として、同地方には穂高神社・小高神社・高尾神社等が沢山分布されている。武尊山は日本武尊(ヤマチタケル)に関係あるとしているが、里俗は「ホタカ」と呼称している。かくして吾妻郡地方にまで分布しているが、同地方の山間の湖沼地に、同一部族が蕃居していた証拠で、海神部族は裏日本の佐渡・越後地方から、上州方面にまで分布していた。
なお大海津見神を祖紳とする彼ら部族は、西は九州の対馬から、北は奥州地方にまで及んでいて、大山祇神祖神とするものの分派とともに、その分布範囲もひろく、その起源もかなり古く遡のぼることができる。
そして彼等の分布区域の中で、富土山及びその周囲の、殊に北麓地方は精進・西湖附近が、古代は満々たる水をたたへたセの海であり、山中湖内野忍草の低地も湖沼であり、甲府平野もほとんど広大なる淡海であった時代の、この地方は水郷の地水澤地として、気候も空気も非常によいので、彼等の勢力範囲として最も理想的な、楽土であったことが認識されるのである。
<先住民族の移住経路 陸路>
有史以前於ける彼等租先日本人の、或ものは狩猟を業とする山祇部族で、一は漁撈生活をする海神部族であったことが考えへられる。
かれらがこの地方へ移佳して来た道筋は、一は裏日本の能登半島方面か、佐渡や越後を通じて信州・甲州というように移佳してきたのである。それより少し後れて駿河湾沿岸、伊豆半島地方から、沼津の海岸地帯富士の南麓、愛鷹山麓に移佳して来た一種族がある。即ち一は北方の山岳地帯より、一は南方の海濱地方より入ってきたもので、この二つの道筋は富士地方における、彼らの文化を知る上に重要な道筋で、有史以前アイヌの石器時代に属する、第二期、第三期ともいうべき時代で、日本における新石器時代中の、中間期から終末期にかけての頃であった。
その頃には富士山地方の交通路は、すでに先佳民たる富士アイヌなどによって、冨土北麓と甲州八代郡・巨摩郡や、信州地方との交通路は出来て居り、精進・本栖方面と富士川上流地方、河口湖附近と東八代の金川・芦川の渓谷沿岸、或は桂川上流沿岸と甲州.信州.武相地方との交通関係、足柄以東と足柄以西も、富士北麓を通じて交通往来があったたことが考えられ、当時すでに富士アイヌの蕃居していたことも、遺物によって証拠立てられるのである。
関東と関西を区分する足柄峠が、交通路となりかけたのもこの時代で、最初のアイヌ石器時代においては、鮎澤川渓谷地帯や道志川渓谷が当時の最古道で、彼等アイヌ人の往来した交通路であった。
伝説によれば、神武天皇の御時代の東海道は、富士北麓から道志川渓谷を通じて、始めてできたもので、道志とは初め「道始」と書いて、それを紀念したといふが、古物遺跡に従えば道志川・鮎澤川渓谷は、実に有史以前の石器時代に於いて、既に開拓されていたので、籠坂峠と富士山と接する須走村梨ノ木平に、アイヌの遺物(土器)を発見し、同村音口にては弥生式土器を発見したので、籠坂峠も有史以来の石器時代に、交通往来していたことが考えられる。
それから箱根山中の須雲川(早川上流も、富士北麓から駿河湾・伊豆半島地方に、アイヌの往来した古道であった。森林と水澤とを背景とした富土裾野からは.この足柄山を越えるか、須雲川の早川尻に出てくるのでなければ、駿河湾沿岸や西伊豆地方から相模方面へ出られなかった。箱根の峻険と足柄山によって、富士・愛鷹山の裾野地方が.地形上相模地方と分界されているためである。
<先住民族の移住経路水路>
以上は陸路の関係であるが、彼等の南方より往来したものについて、伊豆半島附近に海上生活をなした彼等のある者は、簡単なる造船の技術があったにちがいない。
原始時代において、伊豆の国より大船を造って貢献したことが、記録に見えている。それら海上生活者は、原始時代にいたって造船の技術が発達したものか、それ以前のかれらがすでにその技術に達していたものか、これらのことも、富土山附近.駿河湾、伊豆地方の海上における交通関係の上から、研究せねばならぬことである。
なお注意すべきことは、大和田、小和田、海和田等の海津見に開係ある地名が、富士北方精進湖地方に残っているとともに、精進湖畔の東の嶺を「ウタフガ」と土俗は呼称している。「ウタフガ」は「ウタバガ」と同一語原で、鵜などの鳥がとまっている峠の意味である。その「タフガ」は「トウゲ」の意味であらう。蒙吉語で「タバガー」、わが国語に転じて「タフガー」、さらに轄詑して「タウゲ」となるので、古い時代の祖先日本人が、蒙古語系の古語「タフガー」を、この地に残しているものと考えられる。
多摩州上流の甲州に丹波山があり丹波川がある、蒙古語「タバガー」の「タバ」のみが山川の名と変じたものではあるまいか。武蔵の多摩川などの「多摩」もおそらく同一語源と考えられる。
こういう古い語の地名が残っているのは、土地が辺鄙なために一度入ったものは、容易に改たまらない山谷の風習で、言葉が化石して残ったものである。それから見ても精進・本栖・西湖附近が、もとの「セの海」沿岸の海津見時代よりも、もっと古い時代の面影がしのばれるではないか。
<原始時代の遺跡と伝説>
九州北部や長門辺に神籠石といって、巨大な石材が山腹または丘上に排列してあり、太古の城廓の遺跡だろうという説だが、関東の各地には往古穴居の跡だという、非常に大きな石材をもって築きあげた横穴がある。
甲州一の宮附近の南照院境内のものなどは、一箇の蓋石が十数トソのものが数枚ならべてあり.下は高さ幅各々六尺ばかり、奥行四五間、奥に入りひろがっている横穴が、畑の地面から三四尺高い位置に、南向きになっている。それを覆った土壌の高さが三十尺ばかりあって、その上にケヤキの大木数株茂って居る。古代の未開な民族に、どうしてこのような大仕事ができたか、不思議に思はれる。
○富士山麓の先住民族
富士裾野の先住民族は、原史時代の神代の神々が.鉄製の劔や、鏡、勾玉などを使用した、その時代よりもなお一段と太古に遡のぼって考えることができる。それは石器時代の、いまより三四千年の昔であったと思はれる。
その頃は富士山は絶えず噴煙をはいていて、まわりは千古斧銊(フエツ)の入らざる大森林が分ち並び、大樹巨木の密林が水澤地の湖沼沿岸に、欝蒼としてしげった所で山野を狩猟する山祇部族と、湖海を漁撈する海神部族とが移住して来て居た。
西湖の根場村、精進部落、本栖村等に見られる、古代建築の遺物たる、屋根の上の千木・勝男木は.原史時代の鐵製の利器.匁物、劔鉾などを使用した以後の遺跡で、この辺へ出雲民族が移住して来たことは、精進村の諏訪神社が証明している。
富士淺間神社の御神体「木花咲耶姫命」の伝説や由来を、くわしく考究したらかなり興味ある、古代史の新事蹟を発見することが考えられる。
記紀にある天孫「ニニギノ尊」・「大山津見神・「木花咲耶姫命」の御事績は、果していずこであらせられしか、何故にこの三柱の神々を富十の守護神として、浅間神社に奉祀せられたかといふことは、富士山の周囲をめぐる淺間神社の、神祇奉仕者の諸氏は、充分に研究すべき課題であらうと信ずる。
なお精進附近には、阿難阪、右左口峠、釈迦ケ嶽・龍ヶ崎等の、仏教にちなんだ名称の山が沢山ある。
これら有史以後の中世紀において、行基菩薩が開かれたと云う。足和田山嶺付近に居た行者たちがつけた名称と思われるが、それ以前よりあった名称であろうか。或いはそれ以前に別の名称があったとしたら、前記の「ウタフガ」などとともに、語現上等より研究の余地が残されているわけである。
原始時代に日本武尊が、富士山附近へ来られた頃は、すでに農耕の業も発達していて、裾野には大密林地帯も少なくなり、焼畑などするようになって、茅野原のところがなどが多く、自然と寂しい所になっていたらしい。
しかし太古には特殊な地形地理上の関係から、原始日本人の勢力の中心地として、相当に発達した部落が、各所に散在して居たものと考えられる。
それが歴史時代になって、時世の変化や、度々の富士山の噴火で地形も変わり、溶岩砂礫などのために富士の北麓を、交通し旅行することが困難になって、往来する旅人が苦しむようなことから、後には富士南麓が本街道となったけれども、有史以前には祖先日本人が相当に古い時代から来ていて、一方の富士アイヌ種族を征服して、街道の要害地によって、山河の雄をなしていたことがしのばれるのである。(完)





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最終更新日  2021年05月25日 11時43分50秒
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