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2021年05月26日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室

芭蕉庵桃青の生涯 金作から忠右衛門宗房へ

 

  高橋庄次氏著

  一部加筆 山口素堂資料室

 

 金作から忠右衛門宗房へ

 

芭蕉ほど悲劇的な人生を生きた詩人もめずらしい。だがそれは、芭蕉みずからが創造した凄絶ともいうべきたぐいまれな人生でもあった。

芭蕉の家は松尾氏、父の与左衛門は伊賀国の山村柘植の出で、そこから十五キロほど南西にあたる上野に移住した。芭蕉が生まれたのは正保元年(一六四四)、その出生を移住前とするか後とするかで出身地が両説に分かれる。いずれにしても芭蕉が伊賀上野で育ち、自身も上野を故郷と認知していたことだけは間違いない。また芭蕉には、諸書に煩雑なほど多くの名が伝えられているが、古文書・文献類を総合整理して確実なところを求めて行くと、幼名は金作、長じて忠右衛門といい、後に甚七郎と改名した、ということに帰着する。この本名は芭蕉の人生の節目とも関わっているので後にまた触れることにする。

 

松尾室の系図は次の三書に掲出されている。

一つは伊賀上野の藤堂藩士で芭蕉の門人服部土芳の『芭蕉翁全伝』(遠藤曰人が筆写し加筆したもの)、

もう一つはその土芳の門人川口竹人の『蕉前全伝』、

他の一つは芭蕉研究室で仙台藩士の遠藤日人の『芭蕉伝』である。

この三書に記録されている系図は本筋では一致するのだが、それぞれ微妙なところで違いを見せている。芭蕉と直接かかわりのある部分から確実と思われる箇所を摘出してみると第一図のようになる。

 

 長男の松尾半左衛門命清(のりきよ)が芭蕉の兄である。半左衛門には子がなかったために末の妹のおよしを養女にして抑をとった。『全伝』の系図には筆写者の日入が、又右衛門を兄半左衛門の実子とし、その又右衛門の死後およしを養女にしたように書き加えているが、これは間違いである。芭蕉が最後の旅にのぼった折、元禄七年九月二十三日付の兄半左衛門に宛てた書簡の中で、

「道中に又右衛門かげにて、さのみ苦労も仕らず」

と、又右衛門のおかげで苦労せずにすんだ旨を大坂から書き送っているし、同じ大坂から死の二日前の十月十日に兄半左衛門に宛てた遺状の中で芭蕉は、

「御先に立ち候ふ段、残念に思召さるべく候。如何様とも又右衛門便(たより)に成され」

と書き、

「およし力落し申すべく候」

と書き送っているから、兄の半左衛門が末妹のおよしを養女にして又右衛門をその聾に入れていたことがわかる。

 

 さて、この系図では与左衛門の次男、つまり芭蕉が宗房の名になっているが、これは芭蕉が故郷の伊賀上野時代(寛文年間)に宗房の名で俳諧を発表していたことによるのであって、本名ではない。

系図には宗房時代の本名である忠右衛門を用いるべきであったろう。それは竹人の『全伝』に「忠右衛門宗房といふ」と明記されていることからも知られる。宗房の名は俳諧の方で多く襲われたため、これをソウボウと音読みして俳号とみる説もある。だが、芭蕉が仕えた伊賀上野城の士(さむらい)大将、藤堂新七郎家の『新七郎家覚』によると、近侍の者には代々「宗房」の名が付けられることになっていたという。つまり、「宗房」は藤堂新七郎家に仕えた近侍の者の名、いわば宮仕えの小姓名であったわけである。

 三十二万石の藤堂藩の本城は伊勢の安濃津(あののつ 津市)に置かれ、伊賀上野はその支城であった。上野城(白鳳城)の城代は七千石の藤堂采女(うねめ)家で、それに次ぐ士大将には五千石の藤堂新七郎家、同じく五千石の藤堂玄蕃家などがあった。

芭蕉が仕えたのは新七郎家の二代目当主良精の嫡子良恵(俳号蝉吟)である。芭蕉より二歳年長のこの良恵にいつごろ仕えたのか、いろいろ説があってはっきりしない。

 

先ず、芭蕉の門人各務支考(かがみしこう)は、『本朝文鑑』に収められている俳文「芭蕉翁石碑銘の序」の中で、

「承応の比より藤堂の家につかふ」

と書いていて、これが一番早い説である。承応年間(一六五二~五五)とすれば、芭蕉九歳~十一歳の頃だから小姓勤めであったことになる。

支考はまた『十論為弁抄』の中で、「藤堂家につかへて椎名は金作といへるよし」とも書いている。幼名金作のころに仕えたというのである。

一方、京都の俳僧蝶夢の『芭蕉翁絵詞伝 えことばでん』(芭蕉百回忌追善)では、

「明暦の頃出て藤堂新七郎良精の嫡子主計良恵に仕へらる」と説いている。明暦年間(一六五五~五八)とすると芭蕉十二歳~十四歳のころであり、明暦二年の十三歳のときに芭蕉は父を亡くしているから、その時藤堂家に出仕したのではないかと言う説もある。

 また、最も遅い説では、藤堂藩士竹二坊(ちくにぼう)の『芭蕉翁正傳』に、

『寛文壬寅のとし始めて藤堂新七郎良精(よしきよ)の臣となる。ここに指折らば此の時十九歳也』

とある。寛文二年(一六六二)十九歳のとき出仕したというのだ。

 この出仕の時期については、松尾家の系図にも記されている。第一図で省略した記事の中にそれがある。曰人の写した土芳の『全伝』の系図に『明暦に仕える……十九歳召し出され……』とあり、曰人の『芭蕉伝の系図には「明暦に出て仕へ』とあるのがそれである。

後者の記事は明暦期出仕したという『絵詞伝』の説と同じだが、前者の説が問題である。

明暦期に仕えたということと寛文二年十九歳のときに召し出されたということ、どうつながるのか。これは『絵詞伝』の明暦説と『正伝』の寛文二年説をつないだだけと見る意見もあるが、いくらなんでも十三歳と十九歳とを同時につなぎあわせてしまうような見え透いた誤りを犯すとは到底考えられない。その意味で、竹人の『芭蕉翁傳』の次のような記事が注目される。

幼弱の頃より藤堂主計良恵蝉玲子につかへ、

愛寵頗る他に異なり。童名金作、

後に……忠右衛門宗房といふ。

主従ともに滑稽の道に志篤く……

 

先ず「幼弱の頃」といえば十九歳ではあり得ないだろう。十歳前後か、せいぜい十代前半くらいまでだ。その頃に、藤堂新七郎家の嫡子良忠、俳号蝉吟に仕え、その寵愛ぶりは他の者とは極めて異なっていたという。つづいて「童名金作」とあるから、その童名金作の頃に良志保吟に仕え、近侍の者数人の中では合作への蝉吟の寵愛ぶりが目立つほどだったのだろう。蝉吟に仕えたのは、童名の金作時代から恵右衛門宗房時代までである。この間、主の蝉吟と従者の宗房とは共に滑稽(俳諧)の道に志があつかったという。右の竹人『全伝』の文脈からこのように読み解くことができる。

寛文五年の蝉吟の発句に、

 

野は雪に枯るれどかれぬ紫苑哉

(貞徳翁十三回忌追善俳諧)

 

というのがある。松永貞徳は承応二年(一六五三)に死没しているから寛文五年は十三回忌に当たる。この句の眼目は「紫苑」に同音の〈師恩〉を掛けて〈まだかれぬ師恩〉というように俳諧の師貞徳をたたえたところにある。とすると、蝉吟は貞徳の在世中に入門したことになる。承応二年は蝉吟はまだ十二歳である。そのころ蝉吟は貞徳から、あるいは門弟を通して俳諧の手ほどきを受けたのだろう。その学習のお相手を童の金作(芭蕉)が勤めたのではないか。そうだとすれば、それは承応期だろう。とにかくそのころ少年金作は二歳年長の良恵蝉吟に小姓として仕えたと考えられる。

 だが、そのとき良忠はまだ蝉吟という俳号をもっていなかったはずだ。「蝉吟」は貞徳門の北村季吟に入門してから授与された俳号だからである。それでは良忠は蝉吟以前に、どういう名で俳諧を学んでいたのであろうか。

 良忠の父の二代目当主藤堂新七郎良精は和漢詩歌に堪能で、和歌には「宗徳」と署名していたという。その良精(宗徳)の嫡子良忠には「宗正」の名があった。だから、その近侍の従者には「宗房」の名がつけられた。文雅の家柄躍如といったところである。藤堂藩士竹二坊の『芭蕉翁正伝』にも、

「良恵の間には宗房と呼ばれて、月花を弄び給ふとなん。」

とあり、宗房という名の性格が明示されている。おそらく、良忠のお相手役金作少年が主家から宗房の名を与えられたとき、「宗正・宗房」主従の俳諧活動がはじまったとみてよいだろう。宗徳と宗正と宗房は、新七郎家の文雅の呼び名だったのである。

 

 

ところで、七千石の城代藤富米女家の二年間の予算案ともいうべき「大つもり」文書(菊山当年男(たねお)『はせを』に写真紹介)を見ると、「中小姓五人分之切米」とか「子小姓五人之入目大つもり」「大小姓衆七人分切米大つもり」といった項目が並んでいる。七千石の采女家と五千石の新七郎家とでは経済規模にそんなに大きな違いはなかったはずだから、せいぜい用人の数が采女家よりやや少ない程度のことであろう。したがって、右の子小姓・中小姓・大小姓などの人数を少し減らせば、新七郎家のおよその生活規模が浮かんでくる。

 

金作少年が承応のころに新七郎家に仕えたのは、子小姓衆数人中の一人としてであったろう。菊山当年男は当時の新七郎家当主(熊之介)から得た証言を次のように記録している。

「子小姓は近侍の者で、藤堂新七郎家で『伽 とぎ』といった……私の父など二人の伽にかしづかれて、机を並べて本を読み、武芸もやり、鬼ごっこもしたと聞いてゐる」(『はせを』)。この証言の中の「父」は幕末のころ幼少年期を送った人であろうか。「二人の伽」とあるが、采女家の子小姓五人からすると、金作少年が仕えた新七郎家の子小姓は少なくとも三人はいただろう。第四図(二七頁)の新七郎家系図を見てもわかるように、二代目当主良精にとって三男の嫡子良忠は虎の子のような存在であって、それこそ

大事に大事に育てられたはずである。

 おそらく新七郎家の子小姓は三人ないし四人はいたと思われるが、その中にあって主良忠の「愛寵すこぶる他に異なり」ということになったのは、金作少年の俳諧の学びが特に際立っていたからにちがいない。金作少年が子小姓から中小姓になって「宗房」の名をもらい、主の良忠、つまり「宗房」と本格的に俳諧の創作をはじめたのは寛文二年、宗房十九歳のときであった。そう考えると、さきほど問題でした上芳『全伝』の系図の記事や竹人の『全伝』の文脈が自然に解けてくる。やはり、藤堂新七郎家への芭蕉の出仕は童名金作時代の承応期であり、忠右衛門宗房時代の寛文二年以後が宗正・宗房主従の俳諧活躍期

であったと見てよいであろう。

 

だが、ここでもう一つかんがえておかなければならない事がある。

それは二代目市川團十郎柏筵(はくえん)の日記『老の楽』(おいのたのしみ)の享保二十年二月八日の条に、

「笠翁どの見え、しばらく芭蕉翁の暗室の物語り」とある記事の後に続けて、「芭蕉翁は藤堂和泉守様の語家来、藤堂新七郎様の料理人もよし、笠翁物語る」という記事のあることだ。朝尾鵜は芭蕉の門人で榎本其角や服部嵐雪とも親しかった小川破笠のことである。芭蕉庵についての談話の内容から見てもこの記事の信憑性は高い。また曰人(えつじん)の『芭蕉伝』にも「曰人聞書」の条に「藤堂家の一門藤堂新七郎、その家臣也。御台所御用人を勤めたりと云ふ。その帳面今に有りて、けし・たう菜を印たる篤実、今にありとぞ。諸人見るゆへ、その所ばかりよごれたりとぞ。」とある記事にもそれは符合する。曰人の聞に言う「けし」(芥子)は芥子菜(からしな)のこと、「たう菜」は唐菜のことで、そうした芭蕉自筆の惣菜の買入れ帳があったというのも興味深い。

だが、藤堂家の「大つもり」(年間予算書)には「料理人」「御台所御用人」といった類の項目が見当らないから、おそらくそれは、中小姓・大小姓の仕事のなかの一つだったのだろう。寛文期の忠右衛門宗房が台所の御用もしていたことは間違いない。






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最終更新日  2021年05月26日 18時26分25秒
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