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2021年05月30日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室

穂屋の薄の句所載の手紙について

 

-『芭蕉翁雑考』

 著者 大川寥々

 昭和二年刊 資文堂書店

 一部加筆 山口素堂資料室

 

 芭蕉の穂星の薄の句については多くの書簡が傳来し、且つ種々矛盾する所があって疑問視されてゐる。          

 猿簑冬の部に「信淡路を過るに」と前書あって

「雪ちるや穂屋の薄の刈残し 芭蕉」

とある故に、この句成った牝のは元禄四年以伺である事に疑ひはない。

 又雑誌『にひはり』復活號に鵜澤四汀氏ひく所の某氏所蔵の芭蕉真跡には

   去年七月しなのな&御村山に詣ふてゝ

  雪ちるや穂星のすきさの刈残し はせを

 

 右の如くあって、信州諏訪太開抑御射山祭を七月廿七日とすれば(句選年考ひく所の句解による)「雪ちろや」は眼前の光景にあらすと解する事も或は可能であるかもしれない。

 併し芭燕生前最も校訂の厳密を以て聞える猿蓑集に前書あって冬の部に入れる故にこを秋李の句とは考へ難い。

 又、『有磯海』丈草序に

「平生身を風雲に吹ちらして心を太虚にとゝめむ中には限りもなき江山に足ふみのはして行先毎の風物をあはれみ、

雪ちるやほやの薄としをれ果てたる風情いかてか其法輪澗橋にのみかたよらんや」

とあって、之も芭蕉が風雲の道すがらの体験を物語ってゐるのであらう。

 

 之られによって穂屋の句は芭蕉が冬信州を過ぎて穂星の神事に思を寄せての作と考へられる。信州には穂屋の地名は一に諏訪に限らないと云ふ。併しこの句は直接に穂屋の地名をさすものではなくして、むしろ穂屋の神事への聯想を多分に含んでゐるのであらう。

 

『曠野後集』

 葎庵しつらひける時来かゝりて

  片屋根や雪うち散て穂屋のまね     曾良

右の句を冬の部に我めてゐる。おそらく芭蕉の句にヒントをえてなったものであろう。

 四汀氏ひく所の真跡拾遺には

  深川草庵僥亡甲信遊行

  信濃を過るとて

 雪ちるや穂屋のすきさの刈残し

 

右の如くあって、深川草庵焼失は天和二年冬である故、同年甲州にのが

れ且つ信州に出たものとしなければならぬ。

 沼波氏の芭蕉全集に天和二年説をとってゐるのもおそらく之に依るのであらう。

 併し、真跡拾遺の前書をとれば通説たる天和二年十二月末の焼失をと

る事はてきない。何となれば芭蕉庵焼失は十二月二十八日である故に信州に出る頃はむそらく春になってゐたであらう。

 且つ草庵焼失後芭蕉が比に江戸を去ったか否かについては疑問がある。

芭燕甲州にての作として傳来するものは多く春以後の句である。また、丈草の文によれば相当有名であったと考へていゝこの句が天和二年より元禄四年に至るまで上梓される機會が得なかったと云ふのは不思議であり、句風も天和の風に遠く、元禄の風に近い。

 また、後にひく智月宛の手紙によっても、芭蕉が天利初年頃に智月と風交があったか否かもなお再考を價する事実である。

 それ故『真蹟拾遺』所載のものも遽(すみや)かに信じ難いやうに考へられる。

 かくすれは芭蕉の信州行は全く推定しがたい。私は今以上の仮定を、即ち以上二種の真跡と称するものを否定して、芭蕉の手紙を検してゆかう。

 右の儘所載のものは、蘭更の記す如く、書簡の断片であって、芭蕉が雪中信州を過きた事を報ずるのみである。

 また長井氏所蔵のものは芭蕉関西にある頃の手紙であって、に信州邊にての句を報じたに止まり、手紙並びに句の年次を決定すへき所はない。

 松月庵宛の手紙は、芭蕉江戸にある事明であり、其角も亦江戸にあるらしい。今、貞享元年以後元禄三年に至る芭蕉、其角の消息を見るに、

 

貞享元年冬、芭蕉江戸にあらす(甲子紀行)

    秋  其角、京より帰る

  二年夏  芭蕉、江戸に帰る

       其角、江戸に帰る

  三年   芭蕉、其角、江戸に帰る

  四年十月 芭蕉、江戸を去る (卯辰紀行)

       共角、江戸に帰る

 元禄元年秋 芭蕉、江戸に帰る (更料紀行)

     秋 其角江戸を去る

   二年春 芭蕉江戸を去る (奥の細道)

     夏 其角江戸に帰る

   三年  芭蕉関西に在る

       其角江戸に在る

 

 右によって考へれば、松月宛ての書簡の日附霜月二十三日芭蕉、其角共に江戸にあっ記事は貞享二年三年に限られる。

 かくして書簡の内容を検してゆけば「當年は少しも旅行の在寄も無之」といふのは貞享三年、芭蕉が江戸を出てなかった事を意味すると考へられ、芭蕉は貞享二年秋江戸をたって信州に旅したと解しなければならない。

 併し私は未だ貞享二、三年の芭蕉傳に暗く、この事實の正否を決すヘ

き資料を知らない。

 智月足宛の手紙は芭蕉が江戸にあるとも、亦関西にあるとも明ではない。もし芭蕉開西にありとする解すれば元禄二年冬芭蕉が信州を過ぎた事となる。

 

許六の『歴代滑稽慱』

    蛤の二見へわかれ行秋そ

又江戸に帰って諸門人に正風の體をすゝむ、又洛にのぼって去来、史邦、 凡兆等をすゝめ

    初時雨猿も小簑をほしけ也

 と吟して『猿蓑』を起す

 右の如くあって、元禄二年冬芭蕉が一度江戸に去ってゐるかのやうであるけれども、之は全簿其他の記載と全く異ってに依りがたい。

 かくすれば智月尼宛の書簡は元禄三年芭蕉関西におった折とは解しがたく、且つ「常年はいつれへも他行不致閑居仕候」とあるは、芭蕉が江戸にあるにふさはしい言葉でもある。元禄三年芭蕉は病病になやんで閑居はしたけれども、智月のゐる大津を遠くはなれてゐるのではない、年末にはその子乙州の新宅に移つてゐるのでもあるから。

 

それ故智月尼宛の手紙は元禄二年以前即ち桧月庵宛の手紙と関連せしめられもするし、或は元禄五・六年として、去今は、去りし年の冬と解する事も或は可能であるかもしれない。ただ「何叉拝顔可申候」の一句が、芭蕉智月の距離の甚だ遠からぬを思はしめる。

 かくの如く芭蕉の手紙によって推定すれは貞享二年が纔に考へられるのみであって、冬芭蕉が信州を過ぎた年次は殆と不明である。

 且つ『一葉集』所載信介宛の書面によって、芭蕉が直接体験の句ではないとの説が生じてくる。『一葉集』によるに「此句類なく候へし」「愚句より貴様句上になり候」とよむべきであって、「此句類なるへし」「貴様句上々になり候」とよむべきではないであらう。

 信分か何所の住であるかは判らないが、京より尾州へゆくには信濃路は通らぬ故、芭蕉は江戸に於いてこの手紙をかいたのであろう。

 かくすれは芭蕉貞享四年冬の旅行についてあるヒントが得られ、信濃路の意味もやゝ明になってくる。 

 

 以上芭蕉の書簡及び真跡と称するものは相共に存在しうる理由がなく、全く帰結する所がない。

 又書簡類を捨てゝ従来の芭蕉傅にみても、貞享元年多芭蕉は主として名

古屋を中心にあって信州に出た洽息はなく、二年三年は江戸に冬をおくり四年十月「笈の小文」の旅に出た、この紀行は鳴海を叙したのが最初であって、信分宛の手紙の如く江戸より尾張に出るに信濃路を通るとすれは或は芭蕉はこの行信淡路をすぎたのではないかと考へられる。

 笈小文に「鳴海より跡さまに二十五里尋かへり」とあるけれども、芭蕉が鳴海より伊良古に杜図を訪ねてゐる事も、東海道をすぎなかった間接の理由になるかもしれない。

 貞享四年十二月は伊賀に、翌元禄元年は八月信州をすきて九月より江戸に、二年の冬は伊賀に、三年の冬は湖南にあった。

 それ故、従来の芭蕉傳によっては笈小文紀行の折と推定するか、或は八月信州を過ぎた折の句が冬季の作となったとするか、その何れかであらう。併しかくすれは書簡類は殆と偽作として抹殺しなけれはならなくなるのであう。

 

 芭蕉の信州行については私になお暫らく之を疑問のうちに残しておきたい。

年次は全く不明であるけれども信州行を報じた手紙を一通附記する。

 

 信淡路は雪深き所にて野山も白たへとうつりかはり候へとも着物にはいまたつもり不申候。

  雪ちるや穂屋の薄のかり残し

 

 雲竹老迄人遺し族に付一書申入候。

 其元御替りも無之よし数々目出度存候。

 此方無事に居申候。

 さては□□集之事江戸表より愚老へ度々申遺候間

 片時もはやく御調御遺しましく候哉。

 さてさて気長き御事□入存候。

 遠路故□□にも有之事御さ候へははやばや遺度存候。

 迚之義に此方にて隙入不申候様とくとく御認御越被成候。

 又信濃路邊にての登句之事則相認申候。

   雪ちるや穂屋の薄の刈残し

 右之句にて御座族。

 短冊には何方へも相認不申候まゝ

 □□□□可被下尚くはしく。已上

  廿八日        はせを

 

 一両日は別て寒冷に候處お障も無之候哉。

 此間御入来下親臨勢州の人まいられ

 居候まゝ御構も不申候。

 常年は少しも旅行の存寄も無之昨秋よりの他行

 今頃は信濃を過候頃にて侍候。

 

   雪ちるや穂屋のすゝきの刈残し

 

 うき事もありまた楽しみもあり候。

 此の書状キ(其)角子より貴庵迄

 (十五六字読み難し)

 申上度候。委細面上一寸申上候。匇々(云々)

  霜月二十三日      はせを

   桧月庵御許へ

 

 御手紙悉く拝見殊に又何寄の品々御厚志に被懸悉受納仕候。

 其の後は誠に御無沙汰申上候。

 常年はいつれへも他行不致只閑居仕居候。

 去冬今頃は信州通行まことに雪深山にこまり入候。

 信浜路出□

  雪ちるや穂屋のすきゝの刈残し

 何又又拝顔可申候。右御れいのみ申残候。以上

  智月尼さま      風頴坊

 自尾州廿二日に御帰りの由被仰越候。

 先御そく才にてめて度候。

 道の記御認御遣わし一覧候。いつれも出来申候。

 信濃路にて二三句は別てよろしく候。          ゛

   雪ちるや穂屋のすゝきの刈残し

 此句類なく候へし。

 愚老句より貴様の句上になり候。

 委は面談とあなかしこ

  廿 日       はせを

   信 分 丈

 

口上

 今日作二郎との御上京の由にて此方へ爲御知ニ付一筆申入候。

 彌々無事に御入候由珍重々々。此方替え儀無之。

 然は内々御頼置候からかさもはや出来可申と存候。

 御下し可給候。折々に信州へ羅越候道中にては

 入不申候得非行先にて不自由成所多こまり申候。

 同しくは此の作二郎との便にほしく候。さて一句

   顔に似ぬほ句も出よ初さくら

 此句去亭の庭前にていたし候句也。

 数々云ク有之候へ共非筆紙にはつくしかたく候。

 キ而□。以上

  廿三日         はせを

   意水丈






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最終更新日  2021年05月30日 09時34分12秒
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