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2021年05月30日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室

  旅をしなかった芭蕉 高橋義孝氏著

 

 ある本に芭蕉と旅についてこんなことが書いてある。

「芭蕉が日々の人生そのものを旅と観じていたことは、『奥の細道』冒頭に深い詠嘆をこめて書き出されている。そして事実また彼の生涯は文字通り旅に終始したものというべく、しかも言うまでもなく彼の旅が

単なる物見遊山ののんきな旅でなくして、自ら骨身を削り死を賭しての旅で、それによって彼の人間と芸術が限りなく鍛えられ磨かれて行ったものであり、のみならず風雅の魔神の誘うままに席のあたたまる暇とてもなく、そういう旅に出でずにはいられないところに旅の詩人としての彼の真面目があった」

 一読平明な文章であるが、しかし少し考えてみると、これほど陳套で、これほど芭蕉と旅の関係を説明していない文章もないということが解る。旅が芭蕉にどんな風に骨身を削らせたのか、旅が、そして特にこの旅というものがどういう風に芭蕉とその芸術とを限りなく鍛え磨いたのか、なぜ彼が「旅に出でずにはいられ」なかったのか、その辺

のことは、上掲の文章ではさっぱり解らない。

そしていわゆる漂泊の詩人芭蕉に関しては、この程度の俗流形而上学的説明が氾濫しているのである。むろんそこには、旅ということに関する根の深い日本的なセンティメンタリズムが絡みついている。芭蕉の旅というものがどんな旅であったかをまず見定める必要があるわけだが、私にはどうやらそういうむずかしい仕事は出来そうにもない。

 それぞれに紀行文を遺した有名な旅が芭蕉には五つある。

第一は、貞享元年(一六八四年)八月、江戸を発って東海道、伊勢、伊賀、大和、山城、近江、美濃、名古屋を遍歴して冬再び帰郷して越年、翌年の二月郷里を発って奈良、京都、大津から尾張を経て、ついで甲斐に立ち寄り四月末江戸に帰ってきた九カ月の『野ざらし紀行』の旅がそれで、芭蕉が四十一歳から四十二歳にかけてのことである。

 第二は貞享四年(一六八七年)八月、芭蕉庵門前から船で行徳まで行き、利根川に沿って鹿島へ行き、帰路潮来に滞留した折の『鹿島紀行』の旅で、芭蕉四十四歳の折のことである。

 第三は、同じ貞享四年十月、江戸を発して東海道を上り、尾張の鳴海、三河の保美、また尾張、美濃に至って、十二月郷里に帰り、翌五年、伊勢参宮、吉野、高野山、和歌浦、奈良、大坂、須磨、明石を歴遊して四月下旬に京に至った六ヵ月に及ぶ『笈の小文』の旅でヽ芭蕉四十四歳から四十五歳にかけてのことであった。

 第四は、『笈の小文』の旅ののち、暫く京周辺にあった芭蕉が東下の途に就き、木曽路を経て江戸へ向った折の同年(貞享五年、この年九月三十日元禄と改元)八月末に江戸に帰着した『更科紀行』の旅である。

 第五は、元禄二年(一六八九年)三月、松島、象潟を目ざして江戸を出発して、はるばる奥羽、北陸の各地を経巡って、日本海岸沿いに南下し、八月下旬美濃大垣に着き、ここから伊勢の遷宮を拝するために舟出しようとするところで筆をおさめた『奥の細道』(これが完成したのは芭蕉の死の年に当たる元禄七年 〈一六九四年〉である、これが上木されたのはその没後八年目の元禄十五年、一七〇二年であった)の旅で、この旅が芭蕉の生涯での一番の長旅(行程六百里、六ヵ月)であった。

時に芭蕉は四十六歳であった。(芭蕉は元禄七年十月、五十一歳で没した)

 

 昔、万葉人は、

  家にあれば鄙に盛る蛎を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

と歌い 

  苦しくも降り来る雨か神が崎狭の渡り家もあらなくに

と歌って旅の憂さ辛さを歎いたが、芭蕉が生きていた時代の旅も、万葉人の旅とそう大して違いはしなかっただろう。そういう昔の旅の憂さ辛さは旅する者の等しく昧わったところのものであろう。

 現代の人間が当時の旅を想像して、その憂さ辛さを感傷的に誇大に受

け取る必要はさらにないし、また旅する人の誰にも共通していた辛さ憂さが芭蕉の場合に限って「人間と芸術」を「鍛え」たり「磨い」たりしたと考えるのもばかげている。

 世人は芭蕉のことを漂泊の詩人、流浪の詩人などとあっさり性格づけるが、実は芭蕉は旅などしてはいなかったのである。

 

 芭蕉が旅をしていない? 

史実、資料に徴して芭蕉が旅に明け暮れしたことは明々白々ではないか。さよう、芭蕉は旅をしたが、旅をしなかったのである。

 

 「奥の細道」にこういう箇処がある。

 「又、添加ながるヽの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。

 此所の郡守戸部(とほう)徽某の、

 此柳みせばやなど折々にの給ひ聞え給ふを、

 いづくのほどにやと思ひしを、

 今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。

   田一枚植て立去る柳かな

 

 この柳は栃木県那須郡那須町蘆野にあるもので、西行が「道のべに清水流るゝ柳蔭しばしとてこそ立ちどまりつれ」(『新古今集』)という一首を詠じた柳と伝えられ、謡曲『遊行柳』で有名である。西行が「道のべに」と詠んだ、その柳の蔭に自分も少しの間休んで西行を想い、感慨に堪えず、思わず時を過ごして気がついてみると、早乙女はもう田を一枚植え終っていた。そこで自分もやっと腰を上げて、その柳蔭を立去ったという意である。

 (序に言うと、われわれの気持からすると、この句を一句だけ取り出してみる時、これは実に下らない句である。背後に西行の故事がなかったならば、甚しき愚作と評することも出来る)

 

 『奥の細道』の中で特に有名な「荒海や佐渡によこたふ天河」の一句には、

「ゑちごのくに出雲崎といふところより沖の方十八里に佐渡が嶋見ゆ。東西三十里諦りに横折ふしたり。むかしよりこのしまはこがね多く湧出で、世にめでたき島にて侍るを、重罪朝敵の人々の遠流の地にて、いとおそろしき名に立り。

折ふし初秋七日の夜、宵月入果て、波の音どうどうとものすごかりければ」

という前書のついているのもある。

 またこの一句に関係する「俳文」『銀河の序』に二種類のものがある。それから実地に当ってみると、芭蕉がこの句を詠んだ頃(七夕)に銀河は佐渡が島の上には懸からないというし、『曽良随行日記』によれば、芭蕉がこの出雲崎の辺りを通った頃は殆んど雨ばかりだったということが知られる。つまり「荒海や」は写実の句ではない。リアリズムの句ではなかったのである。一註釈者は「つまり特定の一地点一時点での体験をそのまま句にするのではなく、佐渡の対岸の日本海岸を歩いているうちの海、銀河等についての自然の体験、流刑地佐渡にまつわる人間の歴史をないまぜて構成された句」と説明している。今日の観光旅客のように、新潟から佐渡が島の島影を臨んで「ああ、あれが佐渡が島か」と言っているわけではないのである。

 芭蕉の念頭には逆に「大罪朝敵のたぐひ」の悲しい運命があったとすべきであろう。

そして彼は「墨の扶なにゆへとはなくて、しぼるばかりになり侍る」(『銀河の序』一)と書いている。彼は「大罪朝敵」となった人々の悲運をしのんで涙しているのであって、佐渡が島や銀河のために泣いているのではない。

 つまり彼は、旅する彼は、風雅の道につらなる歌枕、名所、旧蹟を尋ねて、「風雅」のために泣き、旅していたのである。己を虚しうして目前のものを見ていたのではない。己は「風雅の道」の事どもで、一杯になっていたのである。

 私が、芭蕉は旅をして、旅をしなかったと言ったのはそういう意味である。彼は旅路属目のものを見ず、実は自分の心の中を見ていたに過ぎない。見開かれた彼の眼の瞳は、くるりど一回転して、いつも内側に

向けられていたのである。芭蕉ほどの主観主義者は滅多にあるまい。芭蕉ほどに「旅」をしなかった人間は滅多にあるまい。それでも彼が旅をしたというならば、彼は遥かな文学伝統の過去へ向かって旅したと考えるべきであろう。

 旅という遠心的動きは、心の中の過去を志向する求心的動きの必然的な形式であったというととろに芭蕉の旅のおもしろさがある。

 

 彼の「己」は虚しいどころか、詩文の、風雅の事どもで充満していたと書いたが、その彼は実はやはり己を虚しうしていたと言って差支えない。つまり彼は、己を虚しうして、短かった一生を捧げて、実人生をそのまま芸術に、美に、風雅そのものにしようと大胆にも図ったのである。 

 芭蕉の唯美主義は、西欧のラル・プール・ラルなどのその足許にも及

ばぬ底のものであった。彼にあっては、この絶対的な唯美主義確立のための一手段がすなわち旅することであった。

 しかし芭蕉の霞の癖(へき)に、何か強迫的な、さらに言えば強迫神経症的なものがあることも否定しがたい。つまり彼は、いかなる理由

によるにせよ、一箇処にじっとしていられなかったようである。彼には、旅をせずにはいられなかったというような趣がある。

「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海贋にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘の古巣をはらひて」云々

などという文句は、その何かノイローティシュなものを覆い隠す美辞麗句たるにすぎなかったのかも知れない。






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最終更新日  2021年05月30日 10時07分22秒
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