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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年06月10日
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◎甲斐の馬 参考資料-『甲斐国志』他

 

  牧野明神…四方津村(現、大月市)の東を牧野と云、牧野明神の社あり。村民皆牧野氏とす。古牛馬の牧ありにしや。云々

  駒宮………駒宮村(現、大月市)

  諏訪明神…(前略)野馬を遂聚め給ふ処を駒沢と云。野馬を捕繋き給ふ石を 

  駒石云。云々

  諏訪明神…中条村(現、韮崎市)古名を牧ノ神社と云。

  黒駒明神…穴山村(現、韮崎市)。駒形明神…(現、須玉町)古牧場の守護神

  なりと。

 

  ◎参考資料-『秋山村誌』「古代と中世」

 

(前文略)甲斐は穂坂、武蔵は立野、信濃国は望月牧が中心であったことがわかる。御牧の分布は、それぞれ地域的に結ばれた四カ国に固まっていることは、特に注目に値する。帰化系の人々との動向にからむものとして考えられるが、もう一つ重要なのは、秋山村と国境を接する奥牧野であるけれども、元来はこの地帯は地縁的には秋山村を含め武蔵との関係の方が濃密である。武蔵の御牧は立野・小川・石川・由比の四牧で、あるけれども、その内立野牧は町田市の小山田庄一帯で、のちに小山田別当有重の子六郎行幸が、父の所領の都留市田原に入って郡内小山田の祖となっている。小川牧は多摩かわの支流秋川にそった西秋留、東秋留付近である。武蔵七党の一つ西党(小川氏)の本拠地である。石川牧は現在の八王子を中心とする地域であった。のちの勅使牧に加えられた小野牧は、多摩郡小野郷一帯で、いずれも甲斐国境に接し、横山党(小野氏)の本拠地といわれる。

 なお上野原町には牧野牧というのがある。地名にも牧野がある。さらに注目すべきは相模牧で秋山村の一部が含まれ牧野地名がある。 天慶四年(941)に官符を下して国ごとに五十疋の貢進するように仕組みが変わり、諸国に牧が乱立した。云々

 

◎参考資料-『明野村誌』「村の沿革」 昭和三十八年発行

 

 三御牧の所在については国志が考証を進めているが、それによると穂坂の牧は穂坂・(明野)小笠原、上手、朝神村にまたがる主として茅ケ岳山麓に展開する丘陵地帯を占めていた。柏前の牧は北巨摩郡高根町(旧樫山村地帯)であったといわれ、いまも村内に柏崎牧といわれている区域が残されている。地名としては南牧ヨセ・北牧ヨセ・野馬平・掛札などという地名で残っているが、国志は逸見の牧というのがこの牧の事だといっている。(中略)もっとも国志は異説を引例しており、勝沼町柏尾の薬師で有名な大善寺の付近に尾崎村という地名があり、岩崎山に並んで黒駒山に続いているところから、黒駒牧が即ち柏崎だと旧説にあるとあげているのである。しかしこれは附合が強すぎるたわいのない説のようである。次に真衣野の牧であるが、国志は北巨摩郡武川村(旧牧原村)がその地点だといっている。たゞ証する文献がまったくなく、規模内容等が不明であるが、地名伝説は幾つか有しており、駒ヶ嶽は勿論その一つといわれ、聖徳太子伝説ももち、駒騎村の名前の起こりもすべて真衣野の牧からおこったものと説いている。

 (中略)これらの説によっても判る通り、穂坂の牧は院政の衰微期から小笠原氏の擡頭期に至って二つの名前(穂坂牧・小笠原牧)が生まれ、使用されていたものであり、やがて小笠原の牧の名が次第に著名になるに及んで、穂坂の牧の名がその傘下に消えていったものであろう。云々

 (中略)夫木集に表わされている歌は『みつ』がすべて『へみ』に直されている点である。どちらが正しいかは問題であるが、貫之の歌は正しく『へみ』であるのも注目されよう。云々。

  ◎参考資料- 現存する明野村御牧の遺構

 牧場に最も関係の深いと思われる地字を、慶長・寛文・延宝・貞享等の検地帳等から  拾いだして見ると本村一帯には今もなお往時の俤を伝える遺跡が所々に残っている。(抜粋)

  小笠原村…かこいの内・おふちかこいの内・まと場・とりて・牛ケ馬場・馬場

  上手村……馬場

  浅尾村……まき場・馬かい場

  馬検所……小笠原旧村から正楽寺組に通ずる路傍字机腰に、馬検場と呼ぶ遺跡がある。石段を三段に積み、方約三十間許りの閲馬の跡といわれるところがそれで、(略)国司・牧監等が立会って、産馬を検閲し、年々定められていた貢馬を帳面につけ出した所であるという。云々

  馬上坂・馬下り坂

          …正楽寺組から穂坂の三之蔵へ抜ける山坂の三之蔵分を馬上坂といい、正楽寺組分を馬下坂といっている。

 

  ◎参考資料- 若草町誌

 

 甲斐には二つの小笠原地名があるが、中巨摩郡櫛形町にあったのが原小笠原荘、明野村小笠原は山小笠原荘の違名であると考えられる。原小笠原荘が小笠原氏の発祥地であり、(略)原小笠原荘が櫛形町小笠原付近であった。

 

  ◎参考資料- 富士見町誌(長野)

 

 平安時代で明らかになっていることと言えば、甲斐穂坂牧の御料馬を京都に運ぶのに、伊那へ向かう御所平峠が利用されたということである。(中略)恐らく、甲斐之駒牽は穂坂牧、真衣野牧、柏前牧と貢馬を集め、この古道を利用し最も近い峠を越えて京都に上ったものと推測される。(略)「武川御牧」が真衣野牧の後身であるとすると、十二世紀の末から十三世紀の前半にかけて、規模が縮小しても鎌倉時代まで駒牽が続いていたことが知れる。

 

  ◎参考資料- 長野県佐久市-『佐久市誌』他

 

  望月の牧

 

 望月の牧地は、千曲側と鹿曲川で囲まれた御牧原台地に否定されている。(略)現在は北御牧村・望月町・浅科村・小諸市にまたがっている。御牧原の南部、スガマ地籍には菅(スゲ)も自生する湧水があって、感想地御牧原の中ではオアシス的な地域である。ここには須恵器を焼いたいくつかの窯跡が残り、平安時代初期とされる信濃最古の鉄鐘(重文)が出土している。高良社は高麗社で、このあたり牧場開設にかかわりのあった朝鮮半島からの渡来人の社といわれている。(略)牧場を面する野馬除は、断続的にその跡をとどめている。この跡はたどると、それは百沢北方から東北にのびる尾根にそって、富士塚の三角点に至り、それより西北方向へスガマを貫き、御牧中央の四つ京から、とや原を経て下之城集落の東に達している。この間、富士塚より約御キロメ-トルはほぼ直線的に通じ、いまも所々に野馬除の隍や土居跡をとどめている。(略)約千町歩が望月の牧ということになる。

 当時は馬一頭に対して牧地一町歩が必要とされたという。そして馬の病気の発生や牧草地の荒廢を防ぎ、良馬を育て牝百疋につき、毎年六十の小馬を生産するという義務を果たして牧場経営の成果をあげるためには、いくつかの支牧をを設けて輪牧をおこない、繁飼場や馬場を設定して、高度の飼育・繁殖・調教などを行なう施設が必要であった。望月牧には御牧寄・駒寄(略)春日にも駒寄・牧寄がる。

  塩野牧

 

 塩野牧の名は、塩野(御代田町)の集落名にその名をとどめている。(略)馬柵口の地名は重要な意味を持っている。馬柵口を「古昔柵口」(    )と称すといい、村社を柵口神社としている。(『長野県町村誌東信編』)

 (略)八満(小諸市)地籍の標高約千メ-トルに「牧留」それよりすこし下がって「古牧」の地字がある。

 

  長倉牧

 軽井沢町沓掛駅の北方四00メ-トル、東は離山下の小学校裏付近から西は借宿・追分付近に達する東西一直線に断続して連なる低い「駒飼の土手」の跡が残っている。(略)同じく軽井沢町の地籍には馬取萱(馬取が野)・馬越原・馬越などの地名や駒形神社なども所々に残っている。

 

 ……調査後記……

 

 甲斐の御牧(勅使牧)については各市町村誌や山梨県の歴史書などに記載されているが、過去から確かな資料のない中での推説や私説が横行しているのが現状であり、甲斐の三牧についてはその地域は不詳である。これが調査の結果報告である。

 






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最終更新日  2021年06月10日 09時19分15秒
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