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2021年06月10日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

  武田信玄と馬

 

天文 22年 1549 8月23日

 

景虎川中島へ出張云々、夜中に甲州方二萬の勢を両山の木陰に密々伏置。偖馬の手綱を切て越後の陣所へ放かければ、馬を慕ふて人出すべし。必ず敵陣より足軽供此馬を目がけて可レ出也。其時其足軽共討取體にもてなし。侍百騎計のり出し、越後の足軽を追立ば景虎おこの者猛き武士なれば、百騎の甲州勢を遁さじと追いかけて可出、其時足並を拂、敗軍の振にて此谷きわへ引、両山を引廻し後陣をつき、其外の兵共両手より下立て目の下に取廻し、矢先を揃へ筒先を並べて可 討取 と定めて、兵二萬忍ばせ置き、馬二三匹綱を切て越後の陣へ追放し、足軽五十人程出して彼の馬をこゝかしこに追まはし匐けれども、越後の陣所よりは是を察して一人も出さゞろければ、信玄被レ見謙信は名人にて此謀にのらぬは巧者の弓取り也。云々 …『川中島戦記』…                                                    

甲州の源府君武田信虎公、秘蔵の(愛馬)鬼鹿毛馬の長八寸八分にして其肝、形例へば昔頼朝公の生、摺墨にもさのみ劣らぬとて、近国迄申ならはせば、鬼鹿毛とも名付、嫡子所望なれども相違無く進ぜらるべき覚悟にあらず。又無下に否とも仰せられ悪く      ければ、先始の返事には唯今勝千代に、かの馬は似合はず。来年十四歳にて元服の時武田重代義廣の太刀盾なと共に譲るべきによし也。                                                             …『甲陽軍艦全集』…                                                                                        …信玄の相馬法…

                                   

凡大将の馬を撰ぶに心得あるべきにや、甲斐の武田家にて米沢と云しもの、奥州に行きて馬を求むる時、信玄の一首の和歌を書て與ふて曰く、上かんの中かんこそは大将の乗るべき馬と知れやものゝふ信玄五十匹の馬の中に軍に乗られし馬は四足栗毛、中段とて唯二匹あり。甲斐山梨郡とし野とうふ所の百姓、此四足を養ひ置しを、米沢見て又なき馬なりとて、信玄に申して五十貫の地を與へて此馬を信玄に奉りぬ。云々…『常山紀談』…

 

…軍馬撰み方の意見…

○横田備中守申分。大長成馬悪敷と申者有レ之候、其子細は第一級敵中にも、急成時乗下り自由にならざる故と聞え候。是は名人の何とも理有事を、たれぞ一理有レ之候と申たるを聞伝へて手に合ざる者の口に任せて申たる成べし。敵の中にて馬より下り勝負を仕せて申たる成べし。敵の中にて馬より下り、勝負を仕り、又本の馬に乗働候事、無 左右 者之儀に御座候。疲たる馬は組討など仕たる時、其儘立留ることも候へども十に九留らすものにて御座候。勝軍の時追討などには中間小者も続くものなれば、乗放したる馬をも引よせて口をとらせて乗には、さのみ大長の馬なりとて乗ぐるしき事有間敷候。勝負いまだしれざる時馬を入れ、下り立  て敵相を仕、又馬に乗て働などと云事は不穿鑿の申分成べし、五寸余の大馬に乗たる敵は一寸二寸の小馬に乗てはいかに覚の人成共敵を仕ふせる事成まじく候。馬上の組討と申は先勝の物にて御座候。両方先後なければ両方ともに馬より落る物にて御座候。二寸の馬と三寸の馬と出会たる時、二寸の馬に乗たる方より先を仕れば二寸の方勝に成ものにて御座候。三寸の馬に乗たる方より先を仕れば二寸の方負に成ものにて御座候。我等の所存には軍馬場には大馬にこす事御座あるまじく存候。    …『武具要説』… 

○小幡山城守申分。横田申所尤に候。常には小長成馬扱能御座候間、人の好も道理にて候得共、常に乗下り仕習ひ候へば、大馬も苦にならざるものにて候間、願くは大馬を好み乗習申度ものにて御座候。                                    …『武具要説』… 

○原美濃守申分。右之衆申所尤に候、板垣信形ト村上方と働候時、村上方に名高ク聞候、長谷倉熊之允と申者、鴾毛の二寸にたらぬ乗レ馬、信形同心の小嶋忠兵衛に駈合せ、忠兵衛を切落し長谷倉さすがの者ゆへ、忠兵衛ずれが首をば取不レ申、某に乗り掛リ鐙がらみを仕候。私馬は五寸に余りたる馬にて長谷倉が馬を引まくりて腹帯を引切り鞍共にはね落し候を、やがて我等の小者長谷倉が首を取申侯。勝貞は運によると申ながら我等小馬に乗て候はば安々と仕ふせ候事は成間敷候。是も大馬故利を得申候。

                                                                                …『武具要説』… 

○多田淡路守申分。右之衆申處至極に候。大馬ノ一曲あるならでは戦場にて用立不申候。曲ト申内に籠曲あるは無用に候。平生乗合能き巧馬は大勢の中にては入に酔ひ馬にせかれて進む気なくして、中々気の毒なる物にて御座候。一気勝てつよき馬ならでは大勢の中へ乗込とても業は無レ之者にて、一手の大将を仕程の者、敵の中へ馬を入るは我働を心に懸、自身勝負を仕らん為計にては無御座候、就中足鰹大将などの馬を入る事は畢敵ノ備を乗破て、我手の者共に能く働さんが為なれば、一寸二寸の小馬にプ大勢中を馳破候事中々成間敷候。                            …『武具要説』… 

○山本勘助、筋切馬についての申分(略)今川義元の家中に、よねまきと申候伯楽有レ之、肢ふり悪敷馬の筋を切申候。不吟味なる

  不吟味なる士衆馬の足ふりを専に好み、馬を求ては前肢後肢の筋を切り、常に責廻ては前後能などと云あるき候。或時義元の出頭人三浦左衛門大夫と申もの、松平清康の内衆、内藤又左衛門と申者と、天龍の渡場にて喧嘩を仕候、内藤は騎馬十騎計、歩行彼是五十計の人数にて御座候。三浦は騎馬五十騎歩行足軽共三百計にて押懸候て、内藤川を越申候。三浦がものども是を見て勝に乗じ、二三十騎ひたひたと川に打入候を見すまし、内藤取て返し鎗を合せて候。例の筋切れたる馬ども、川中およぎ得ず散々に押流され、内藤突勝て騎馬徒立五六十人討取申侯。馬の筋切る馬鹿者言語道断に候。彼筋切たる馬は水をおよぎ得ず。坂を越事ならず。大か      た木馬同然なるべし。尤常には坂を乗リ川を渡すにも流れおそき水の浅き川は越ものにて候。坂を早道に乗上り乗下り候事ならず。水早き河と長の及ばぬ川は渡えぬものにて御座候。かようの所より出たる馬は能々吟味有レ之べき事に御座候。何も尤の由申候。

 ○七月八日晴信(信玄)

は持分働毛作をふり被成候。又九月末晴信は刈働中、東の城取懸被中候。其時南のかがり口、寄手ノ先手蒐大将に三村十兵衛参候。此手へ向へたる味方の大将は二木市右衛門也。十兵衛に逢ひ申候て重大の主君を敵に仕り弓を引事天命いかで遁るべき、後の世を考へて見よと申、十兵衛申けるは、世になき長時(小笠原)の方人して山籠して何の益かあるとて、晴信に降参して本領安堵せよと申ける。十兵衛をにくまぬものなし。又東の先手には二木善左衛門黒の長四寸計の馬に乗り、其日の大将を仕下知をいたすを、飯富兵部手より申けるは、其馬能馬也。自然賣申間敷かと申ける。善左衛門聞、尤も賣馬成間賣可申ト答ふ。敵より申は敵味方にて商有物ぞ。互に一人つつ出し受取渡をして買候はん間賣申され候へと申候へば、善右衛門申者賣可申候。併金銀迄もなし。下物を取てならは賣候半と申、敵方より申さるものにてはなし。下物には武具か太刀か刀か籠城にて候へは兵粮  か、何にても望次第に越可申と呼はる。善左衛門申に其方より申さるものにてはなし。下物とかけるは何にても越中へくに付善右衛門望申侯。武田晴信の首と瀬間三村入道めの首此二つ下物に取て此馬賣ぞと呼はる。敵夫は悪口なりと云、善右衛門申は少しも悪口にてなし子細をよく聞給へ、其方達も如レ存諏訪峠ノ谷戦に五度長時公勝也。六度目の合戦長時旗本より懸て勝利有所に、瀬間の三村入道めが、後切仕候。よって其軍長時公負に成、此遺恨によって瀬間が首馬の下物に取度、晴信の首さへ取候へば在所へは楽に罷帰り候間、ニつの首下物に取て馬賣候はんと申、敵方のもの腹立矢を射かけ夫より軍はじまり申候云々 …『壽齋記』…

 …参考…『一話一言』

或る時清水太郎左衛門、甲斐黒と云ふ馬を一匹持ち、一日大豆を一斗喰ふ悪馬なる故乗るものなし。馬屋の内に出すには中間六七人ありて綱を付て引き出す。鞍を置くことならず。太郎左衛門此馬を飛乗り鞭を打て走る時、股にてしむれは立所に  血を吐きて死す。』云々

 …参考…

抑木曾に産馬の聞けしは、往古甲斐源治の一族たる逸見氏の軍馬より其種を取れりと古書に見えたり。 …『畜産諮詢会記事』… 

…参考…柳沢出羽守保明

○元禄四年六月二日、(綱吉が)柳沢兵部安貞をめして午前に御馬を給ふ。                                     …『徳川實記』… 

○元禄十四年三月二十一日、(綱吉が)御用人柳沢出羽守保明が邸に初て成らせ給ふ云々。御引出物たまはる旨仰あり、中津山といふ御馬に因幡入道貞景が作の鞍置て、厩預諏訪部文九郎成定庭上に引出る。云々                              …『徳川實記』… 

○元禄十四年八月二十六日、柳沢出羽守保明に仙台鹿毛馬、府中栗毛馬、長子越前守安貞に府中鴇毛の馬を賜ふ。…『徳川實記』…






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最終更新日  2021年06月10日 09時26分11秒
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