2295067 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2021年06月14日
XML
カテゴリ:松尾芭蕉資料室
<芭蕉の生まれと周辺>
(「松尾芭蕉」昭和36年刊・阿部喜三男氏著)
<生まれた年>
芭蕉の生まれた年は、その没年の元禄七年(五十一歳説・1694)から逆算して、正保元年(1644)とされる。
ただし、門人の筆頭其角は五十二歳とし(自筆年譜)、他に五十三歳とする説もあるが、同じく門人の路通(「芭蕉翁誕生記」)や許六(「風俗文選」)・土芳(「蕉翁全伝」)らが五十一歳とし、芭蕉自身が書いたものの中にもこれがよいと思われるものがあるので、享年は五十一歳と推定されるのである。
正保元年は寛永二十一年が十二月に改元された年であるから、寛永二十一年生まれとすべきだという説もあるが、生まれた月日については推測できる資料はない。
ちなみに、この年は第百十代後光明天皇、三代将軍徳川家光の時代であるが、俳壇では中心人物松永貞徳が七十四歳になっていて、その俳論書「天水抄」の稿を書きあげた年である。
<偉人伝説>
芭蕉に限ったことではないが、偉人の伝記にはその賛仰・顕彰の気持から生ず余計な詮索や付会、伝説・異説がつきまとう。
たとえば、僧文暁編著『俳講芭蕉談』『芭蕉翁反故文』(一名、花屋日記)『次郎兵衛物語』『凡兆日記』などはいずれも有名だが、虚構的作品。
<芭蕉伝記いろいろ>
芭蕉伝書といわれる『芭蕉翁二十五条』・『桐一葉』『幻住庵俳諧有也無也関(うやむやのせき)』などの、俳論書あるいは作法書も信じられない。
『翁反故』は二百二十余通を含む「偽書簡集」。芭蕉の書簡で信用できるものは今のところ百五十通ほどであるが、あやしいものの数は、「翁反故」も含めて、その三倍強ほども管見に入っている。
発句についても頴原退蔵校註.山崎喜好増補『芭蕉旬集』(『日本古典全書』)で見ると、存疑句が五三九、誤伝句が二〇四句もある。その他、詠草・画賛・短冊の類にもあやしいものがおびただしくある。まったく油断はできないが、そうしたものの中にも考慮すべきものがないでもない。こうした資料をかきわけながら、なるべく正確な芭蕉伝を書きたいと思う。
<芭蕉の先祖・家系>
芭蕉の先祖・家系については門人支考が享保三年(1719)刊『本朝文鑑』に載せた「芭蕉翁石碑ノ銘」序に「その先は桃地の党とかや」といつたが、同じく門人土芳稿『蕉翁全伝』には記載がない。土芳の門人で伊賀上野(三重県上野市)の藤堂采女(うねめ)家の家臣竹人が師の稿をうけて、宝暦十二年(1762)に書いた『芭蕉翁全伝』には、
「弥平兵衛宗清の裔孫にして、伊賀の国柘植の郷、日置・山川の一族松尾氏也。中頃の祖を桃司(ももじ)某郁証某といふ」
とし、松尾家系略図を載せる。そのころ同じく上野の藤堂新七郎家臣安屋冬李(とうり)が上柘植の富田杜音に送った『蕉翁略伝』にも同様に見え、杜音と交渉のあった蝶夢の『芭蕉翁絵詞伝』に至って、この説が詳説された。
<芭蕉の先祖>
あずまかがみすなわち、芭蕉の先祖は『平家物語』『源平盛衰記』「東鑑」(吾妻鏡)などに見える平宗清で、その一族が柘植に住みっき、その子孫になるというのである。どこまで正確なのかはよく測定しかねるが、そのころ以後の芭蕉伝の諸書はこれを認め、宗清の子孫が柘植付近に住んでいることは今でも認められる。それで、芭、蕉が生まれた所は柘植だとする説も出たのである。
<故郷>
拓殖は三重県上野市の東北方約十五キロ、芭蕉柘植誕生説は利一ちの『芭蕉翁伝』(「奥の細道菅菰抄」)、竹二坊の『芭蕉翁全伝』(寛政10年)等これを採るものが多いが、この説の弱点は芭蕉白身の書いたものの中にそれと明らかに認められるものが一向にないことである。
路通の『芭蕉翁行状記』(元禄8年)に「芭蕉老人本土は伊賀国上野にあり」と記し、竹人の『芭蕉翁全伝』は「上野の城東赤坂の街に生る」と記す。芭蕉の書いたものも故郷とするのはこの地であった。
たとえば、「伊陽の山中」に帰るといい、
「ふるさとや膳の緒に泣く年の暮」(貞享4年)
とよんでいるのは赤坂町の兄の家で、ここに芭蕉の臍の緒も保存されていたのであろう。
家系説も拓殖誕生説も後年の付会だとする説もあるが、厳密に生まれたところを突き止めるためには、松尾家が赤坂町に住み着いた時期究明する必要がある。だが、それは今では明確にはなしがたく、芭蕉のよんでいる故郷の意味で、それは伊賀上野赤坂町と認めていかなければならない。
<芭蕉の父>
芭蕉の父名についても異説があるが、与左衛門とするのがよい。土芳の『蕉翁全伝』に「上野赤坂住」とあるから、この人の時からそこに住んでいたと認められる。柘植の福地家系図には慶長のころ上野に移住したとある。慶長といえば、その十三年(1608)に藤堂高虎がその辺の領主となって、上野城およびその城下町を経営し始めたころであるから、そのころ柘植の農士松尾与左衛門が志を抱いて、そこに移住したことを考えても不自然でない。
その父は、貞享五年二月十八日に三十三回忌が催されているので、逆算して明暦二年(1655)同日、芭蕉十三歳の時に死んだと考えられているが、年齢はわからない。冬李の『蕉翁略伝』に「手蹟の師範」と伝えるが、それも確かにはわからず、どこに出仕したという伝えもない。
母は土芳の『蕉翁全伝』に、伊予宇和島、桃地氏女」とあり、竹人の『芭蕉翁全伝』に「伊予の産、いがの名名張に来りて其家に嫁し、二男四女を生す」とある。高虎は伊予から伊勢・伊賀に転封されて来たので、それにつれて伊予から移住して来た桃地(あるいは百地・百司)氏の娘であったろうと考えられている。
天和三年(1683)六月二十日、芭蕉四十歳の時に死んでいるが、年齢はわからない。前記支考の桃地、その他桃青・桃印・桃隣の桃をこの母の縁に考え寄せる説があり、名張より上野に近い友生(とものう)村喰代(おうしろ)の百地家かと考える説もある。
また、元禄七年(1694)九月二十三日付兄半左衛門宛芭蕉書簡に「はは様」とあるので、父与左衛門に権妻(妾)があったかとする説や、これを「ばば様」とよみ、祖母とする説もある。
兄は一人説がよい。この人が手蹟師範だったとの説もあるが、はじめ藤堂内匠家に、のち藤堂修理長定に仕え、上野における松尾家の菩提寺愛染院の過去帳によると、元豫十四年(1701)三月晦日に死んでいる。年齢はわからない。
右の内匠家は食録二千石、津に本城を置いた藤堂藩の伊賀付藩士で、上野城二の丸に邸宅があったが、天和二年(1682)十二月に修理家と交替して、津に移った。修理家は食録千五百石、長定は俳号を橋木と称し、芭蕉の門に遊んだ人である。半左衛門は農家から引続いて修理家に仕えたわけで、後述するが、身分は低いものであったらしい。
この兄に宛てた芭蕉の書簡に、依頼された援助をことわったり(貞享年間八日付書簡)年末の送金ができなかったと謝ったり、(元禄二年正月付書簡)正月の餅代としてもらった金を送ったたり、また去来宛書簡(元禄四年七月十二日付)にもその配慮が見えるので、芭蕉は時々この兄へ送金していたとが考えられる。
この芭蕉の送金はその妻子を兄の家にあずけていたからだと考える説があるが、そのことは(後述もするが)確められない。事情はよくわからないが、兄の家の経済が楽ではなかったことは考えなければなるまい。
愛染院の過去帳によると、半左衛門の妻は宝永二年(1705)に死んでいるが、元禄元年(1688)九月十日付卓袋宛芭蕉書簡に「姉者人」の死が見えるのを、半左衛門の妻のことと考え、過去帳に見える妻は後妻だろうとする説もある。
また、同過去帳に元藤十二年十月十七日没とある松尾又右衛門をも、芭蕉の兄とする説があるが、これは土芳の「蕉翁全伝』によると、半左衛門の子で、それが死んだので、末妹およしを半左衛門の養女としたと考えるのがよいであろう。妹は三人であるが、末妹は上記のごとく、兄の養女となり、一人は片野氏へ、一人は堀内氏へ嫁した。片野氏は家号を幹.彫屋といった伊賀上野、宮の前の商家。芭蕉の妹の夫は通称を新蔵・俳号を望翆といって、芭蕉の門人となり、俳譜をたしなんだ。宝永二年八月二十四日没、九品寺に葬る。同寺の過去帳によると、その妻(芭蕉の妹)は元禄九年に死んでいるらしい。堀内氏も家号を丸屋といった伊賀上野、本町の商家。もと伊予から移住して来た家というから、芭蕉の母方の知りあいであったか。同家の菩提寺西蓮寺の過去帳によると、芭蕉の妹は宝永二年に没したらしい。
<芭蕉の姉>
土芳や竹人の記す姉は一人である。その姉は山岸重左衛門、俳号半残に嫁したとの説があるが、半残は芭蕉より年下なので、その父同重左衛門、俳号陽和の妻だったろうとの説が出た。また、山岸家は五千石の藤堂玄蕃家の臣で、陪臣ではあるが三百石前後の家であり、家柄から見て松尾家と格差がありすぎるとし、この婚姻関係を否定する説もある。
芭蕉との関係で半残は最も親しかった伊賀蕉門の一人と見受けられ、妻といっても、このころは正妻ならぬ妻も考えられるから、山岸家との姻戚関係も全然否定し去ることもできないように思うが、土芳はこの姉は早死したと記している。ほかに中尾氏に嫁したとの説もあるが、これも証左なく、この辺はどうもはっきりしていない。 なおまた、芭蕉の書簡中にはこの姉とは思えない別の姉の存在が考えられる点が出てくるので、それについて異母姉を考えたり、次に述べる寿貞の姉や桃印の母を推量したりする説がある。
<寿貞尼>
問題の女性、寿貞のことは芭蕉の最晩年の元禄七年の文献上にあらわれてくる。すなわち、
(一)同年五月十六日付曾良宛芭蕉書簡中に、留守にしている深川の芭蕉庵について述べるところに、「寿貞も定而移り居可申」とあり、
(二)、閏五月二十一日付杉風宛中に、病人の寿貞が芭蕉庵中にいることが見え、
(三)六月三日付猪兵衛宛中にも寿貞のことを心配しているが、(四)六月八日付猪兵衛宛中には、寿貞が、まさ・おふう・理兵衛らを残して死んだことが見える。
(五)芭蕉はその七月に寿貞たまの死を悲しんで、「数ならぬ身とな思ひそ魂(たま)祭り」とよみ、
(六)十月の遺言状の中にも、奮の世話をしてくれた猪兵衛の感謝の言葉をのこしている。
そして、後年の文献(「小ばなし」)でではあるが、門人野坡の回顧談中に「寿貞は翁の若き時の妾にて、とくに尼になりしなり。其子次郎兵衛もつかひ被申し由」と見える。
次郎兵衛が寿貞の子であることは、其角の「芭蕉翁終焉記」の中にもすでに書かれているが、その次郎兵衛は元禄三年には江戸にいたと認められる(曾良芭蕉宛書簡)から、寿貞もそのころには江戸にいたらしい。
ほぼ以上のような文献から、寿貞に関する諸説があらわれている。すなわち、
(一)芭蕉の故郷亡命説に結んで、藤堂家出仕時代に関係の生じた女性とする説。
(二)芭蕉の「閉関之説」から考えて、芭蕉の遊蕩時代に関係の生じた玄人女(遊女)とする説。
(三)次郎兵衛を芭蕉との間の子とする説。
(四)次郎兵衛のみならず、理兵衛・まさ・おふうも芭蕉との間の子とする説。
(五)理兵衛は寿貞の父、まさ・おふうは芭蕉と別れた後の夫との間の子とする説。
(六)猪兵衛を寿貞の姉の夫とする説。
(七)㈲次郎兵衛も芭蕉との間の子ではないとする説。
(八)寿貞は後述する桃印の妻であったとする説。
(九)まさ、が桃印の妻、おふうが猪兵衛の妻であったとする説。
(十)寿貞はその子らと共に長く芭蕉の故郷の兄の家に同居していたとする説。
(十一)寿貞は元禄六年には再建の芭蕉庵に同居していたとする説。
(十二)右の芭蕉庵同居説を否定する説。
(十三)門人野坡談を信じ得ぬとし、芭蕉との妻妾的関係を認めない説。
その他、詳細に及んではここに書きつくせない。
<若き時の妾>
故郷上野の念仏寺の過去帳、二日の条に「松誉寿貞中尾源左衛門」とあるのが指摘され、寿貞は元禄七年六月二日没、芭蕉在郷時代の女性(A)と考える説がことに有名であるが、今日ではその説にも弱点があげられて来ている。すなわち、諸説紛々としていずれとも決しがたいが、上記の文献類から、寿貞は芭蕉との特別な関係があった女性とは認められよう。野坡談の「若き時の妾」というのは、同談の他の部分から類推しても、ほぼ信じてよさそうであり、芭蕉の在郷時代、あるいは江戸に下った初期のころには、正妻とまではしなかったであろうが、特に親しんだ女性が在存したことを考えても不自然ではない。
だが、その女性が家族的に関係を持ち続けたとまで考え得名根拠はなはだ弱い。おそらく、関係に中断があり、芭蕉が有名になり、生活も安定した晩年のころに再び芭蕉の周辺に近づくようになり、芭蕉にも特別な愛着があったし、寿貞も尼になり病身になっていたので、元禄七年の留守になる芭蕉庵にはこれを入れることも許したのであろうが、そのころの関係は、「若き時の妾」という以上ではなかったと思われる。
<次郎兵衛>
それで、次郎兵衛が寿貞の子だったからといって、すぐに芭蕉の子でもあったと考えることも承認はしかねる。芭蕉は晩年の芭蕉庵生活では次郎兵衛を身近かに置き、これを使い、元禄七年の最後の旅にはこれを同伴し、途中この若者を気にして労わったさまは、その旅から猪兵衛や曾良へあてた書簡中によくうかがわれる。この辺から芭蕉の父としての姿を読みとろうとする説もある。しかし、次郎兵衛のことを記した門人らの記事中には、これについて敬称が全く用いられていない。次郎兵衛は芭蕉の臨柳身終の病床にも侍し、葬式にも参列しており、そのことを特に其角も記しており、かつ、遺言状等を江戸へとどける使者ともなっているが、支考は「芭蕉翁追善之日記」に「従者二郎兵衛……この者はみな月の頃母を失い、此度は主の別をして」と記している。それに、芭蕉没後の次郎兵衛の消息は消えてしまう。多くの門人が非常に敬慕した芭蕉の子であるならば、こうした状態はおかしい。次郎兵衛は芭蕉の子とは見なしがたい。まして、まさ.おふうや理兵衛もそうである。結局、芭蕉には妻子があったとは認めがたい。後述するように、かれが多くの人々から尊敬された理由の根本には、よく孤独.貧寒な生活を堅持したという点のあったことも考慮せずにはいられない。
<猶子、桃印>
桃印については芭蕉自身が元禄六年四月二十九日付、荊口宛書簡中で「猶子」と書いており、同年三月二十日ころの許六宛申に、「旧里を出て十年余二十年に及び候て、老母に二度対面せず、五~六才にて父に別候て、其後は拙者介放にて三十三に成候」といい、三月十二日付公羽宛中にも「手前病人」として見え、肺結核で、その春に芭蕉庵内で死んだ事実が認められる。
猶子には養子・義子の意もあるが、ここは甥の意であろうか。すると、その父母のことも考えねばならないが、それは明らかでない。ともかく右の芭蕉の手記によると、桃印は寛文十年(芭蕉十八歳のとき)に生まれ、同五~六年に父と別れ、延宝二年ころ(二十年前)故郷を離れ、以後芭蕉が世話をした。別に元禄三年に江戸にいたことがわかるが(曾良宛芭蕉書簡)、その桃印が同六年春に芭蕉庵で死んでいるのである。
<猪兵衛・桃隣>
某その他、芭蕉の縁辺で考えられる人に桃隣がある。
天野氏・通称を藤太夫といい、太白堂・呉竹軒、晩年は桃翁と号した。芭蕉と同郷人で、芭蕉より年長であるが、芭蕉の門に入り、俳人として活躍した。また、前出した猪兵衛は伊兵衛とも書き、その山城の加茂にあった実家を芭蕉もたずねているが(元禄七年閏五月二十一日付書簡)、「真澄の鏡」によると、芭蕉の甥であり、一時杉風方の番頭をつとめたが、のち高山ビジの世話で武士となり、松村真左衛門と名乗り、本郷春木町(文京区)に住んだという。『芭蕉翁真跡集』などを著わした桃鏡はこの人の子孫だという。なお、望翠。半残のことは既述したが、故郷で芭蕉を親しくかこんだ俳人たちの中には、土芳・雪芝・卓袋。意専らにも縁辺関係が考えられるという。
こうした点は上記のようにまだ不明なところが多いのであるが、芭蕉伝にとっては見過しえないことであるので、あえてこの序章に述べておくのである。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年06月14日 19時51分22秒
コメント(0) | コメントを書く
[松尾芭蕉資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X