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2021年07月30日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室

郡内騒動 山梨農民騒動史(二)

 

竹川義徳氏著 『甲斐史学』 第11号 

「甲斐史学会」編 昭和35年発行

 

一部加筆 山口素堂資料室

松尾芭蕉が甲斐谷村に来たのが天和三年という識者が多い。しかし下記のような時勢に、糜塒(谷村藩国家老 高山傳右衛門)宅にて過ごしたと云う説は信じがたい。

 

 郡内騒動 山梨農民騒動史(二)

 

  ま え が き

 

 甲斐郡内騒動の発端は、寛文七年(1667)三月の訴状に、

『昨年より百姓共御城下を騒がせし儀は乍憚甚恐入候』

とあり、これによって寛文六年であることが判る。終末は江戸町奉行に越訴を企て首謀者が処刑された延宝九年(1681 九月九日改元、天和元年)である。この間前後実に十六ヵ年となり、本県農民騒動史上最も長期にわたった騒動であり、全国でも稀に見る長期騒動であるといえよう。                

事件は領主の苛斂(カレン)洙求にたえかねた領民の愁訴嘆願に対し、撫民工作も行なわず、むしろ欺隔政策を用い、主謀者を極刑に処し、かえって洙求を強化し、かてて加えて数年にわたる風水害と凶作に拍車をかけられて遂に破滅一歩前に立ち上り、徒党強訴に踏み切った。

農場一揆の典型的な騒動であり、江戸時代における本県最初の農民騒動である。

郡内は、国中の山梨・八代・巨摩三郡(現在は市町村合併により名称は変更)に対し、都留一郡を郡内と称したが、明治十一年十二月山梨県を一市九郡に分割した際、南北都留二郡に分け、現在に及んでいる。甲斐国志に

『一郡皆山嶽打ツヅキ、其の間ニ人家アリ、故ニ水田少ク、麦豆ノ類ノミ耕ス所多シ、食糧乏シク米穀ハ毎(ツネ)ニ八代・山梨ヨリ入り、又相模・駿河両国ヨリモ常ニ入ル、絹紬ヲ出セドモ是亦四境ノ偏村ニ至ツテハ之ヲ織ルコトナク、男女唯山稼ノミナリ』

とある如く、生産条件は悪く、極めて恵まれない地方であった。にもかかわらず領主の租税賦課は、苛酷を極め、経済的弾力のない農民は凶作不作には最も弱く、餓死者多数を出し、逃散者続出し、かかる悪条件の下に郡内騒動は勃

発し、執拗果敢に十六ヵ年間も抵抗を続けたのである。

 

まず巻頭に、郡内騒動年表を掲げて事件の推移を理解し、次いで事件を起した領主秋元家について調査し、騒動のいきさつを記述し、更にあとがきを付加した。

 

 郡内騒動年表

 

 ◇寛文五年(1665) 

秋元喬友朝摂津守りとなる。(十七歳)

 ◇寛文六年(1666) 

   農民、谷村役所に波状陳情を開始する。

 ◇寛文七年(1667)

六月、惣代二人、谷村役所嘆願書を提出。

 ◇寛文八年(1668)

二月、惣代二人、死罪に処せられる。

八月、惣代七人、秋元家江戸屋敷に願い出る。

 ◇寛文九年(1669)

   正月、惣代、秋元家江戸屋敷に呼び出される。

   春より、検地改め替え。

   秋元喬朝、奏者番となる。(二十九歳)

   ◇延宝八年(1680)

十一月、代表七人、惣代五十六人、江戸屋敷に門訴。

   大雨、富士颪・風水害(延宝九年訴状)

◎喬朝奏者番となる。(二十九才)

◇延宝九年(1681)改元貞享元年

   正月江戸町奉行に越訴、二月代表死罪に処せられる。

   ◎喬朝、若年寄・寺社奉行となる。

-

  領主 秋元家

 

郡内騒動を起した領主秋元家は、宇都宮頼網の子奉業が嘉禄年中、上総国周准郡秋元の庄を領有していたので秋元姓となり、

泰業―頼業―業義一時業-真朝―泰朝―師朝―元朝―国朝-春朝―兼朝― 

政朝-景朝―元景-長朝(家康に仕え以後譜代大名となる)但馬守奉朝が寛永十年二月甲州都留郡一万八千石を賜り、上洲惣社よりご、谷村の勝山城に移った。在官十年、寛永十九年十月二十三日逝去、その子越中守富朝が継承し、明暦三年六月十七日卒、年四十八才。

その後を承けたのは但馬守喬朝であった。喬朝は喬知又は隆朝と書いた。前代富朝に子がなかったので、宮朝の外孫にあたる岩槻城主、戸田山城守忠昌の子を養子とした。幼名を甚九郎といい、万治三年十二月二十八日任官し、寛文中摂津守と改め、廷宝五年七月奏者番(幕府典礼の常務にあたる)となり、天和元年十一月若年寄兼寺社奉行に進み、頁享二年但馬守に復し、元禄中しばしば加増され、四万石となり、元禄十二年には老中に昇進、宝永元年十二月には

更に一万石を加え、同二十五日武州川越に転封され、正徳元年又再び一万石加増されて都合六万石となった。喬朝は出世街道を高速度で驀進した英君であったが、正徳四年八月川越で生涯を終った。

 秋元氏が都留郡を領有したのは参朝・富朝・喬朝の三代、寛永十年より宝永元年まで七十二年間であったが、その大半は喬朝の治世である。

 

郡内騒動はその喬朝の時代であり、喬朝が摂津守と改めた 十七才のときから但馬守に復する三十七才の二十年間のあいだに起っており、寛文七年、寛文八年、延宝八年、延宝九年の訴状はいづれも秋元摂津守とあり、この事件を通じて知られている秋元喬朝は摂津守喬朝で通っている。

 喬朝以後は代々八万石を領し、高求―涼朝―永朝-久朝-志朝―札朝―興朝と続き、上野の館林で明治維新を迎え廃藩となり、同家は子爵となった。

  

騒動記録 前期抵抗・愁訴  

 

秋元但馬守参朝は寛永十年二月、甲州谷村に入部以来貢租の増収計画をたて、代々の支配者が踏襲しで来た武田家以来の国法を破棄し、重税を課することになった。廷宝九年の越訴状に

『四十四年以前寅年より御高石百石に付十石宛御上へ御取破成候』

と、あるのを見る

 四十四年以前の寅年は寛永十五戌寅年であり、秋元家が入部してからわずかに五年後の事である。高百石につき十石の増徴は一割増しとなり、その他の諸運上もネジを巻いて搾取を強化した。それ以来、二代越中守富朝、三代摂津守り喬朝まで益々強くなり、領民は重税や災害と闘い、村役人は国救済を講じて来たが、餓死者と逃散者が続出し、その上近く劔地改めの縄入りが有ると聞き、これ以上の搾取強化に慄き、寛文六年より同七年二月にわたり老若男女を問わず狩り出して、谷村表に追々来集して、波状陳情を続け、その数は延べ二万人を超えたと云う。

 谷村役所の役人もこれには手を焼き、悲鳴を挙げ、遂に良識者一・二名を選んで、代表に立て、「文書を以て願い出ろ」と申し渡した。

 領民一同は相談の結果、大明見村問屋惣右衛門と朝日村庄屋惣左衛門の両名を選んで、寛文七年三月四日付けの

『恐れ乍ら願書を以て御訴訟申し上げ候事』

 の文書を『秋元摂津守様御役所』宛てに差し出した。この訴状の内容には、

これ迄の甲斐国の国法を無視して年貢をはじめ諸運上を高くしたため、百姓一同租税上納にさしつかえ、難儀続きに困弊し、逃敗者・餓死人が続出し騒動となったので、従前通り甲斐国の天主武田晴信公様の定めた通りに租税取立を行なって欲し、と云う意味と武田家以来の徴収経過が記してあった。

 

願書提出後、何等かの指示があるものと期待していたのにもかかわらず、それから三ヵ月もたった同年六月七日に至って惣代二人が逮捕され、八ヵ月間何も調べないで拘禁し、翌寛文八年二月四日「願意相叶わず」と一蹴され、あまつさえ二人の惣代は金井河原で断罪に処せられ、かつ家は闕所断絶の処分を受けた。

農民の期待は裏切られ、苛酷の処置を受けた十九カ村の領民代表は厳重な警戒網を潜り、極秘裏に山の中で会議を持ち、対策を練った結果、郡中を七組に分け四十四人の惣代を選び、秋山村の山中に集まり、見張りを置いて密議をかさねた結果、秋山村左近・花吹村与右衛門・新倉村多郎左衛門・戸沢村弥兵衛・小沼村勘右衛門・網野上村八左衛門・小明見村与兵衛の七人を雑渋代惣代にあげ、暗夜に乗じて国元を抜け出し、寛文八年八月二十三日江戸秋元邸に至り、

 

『谷村役所の役人の指示に従って二人の惣代をもって願書を差し出したところ願意は聞き届けず、却って二名の惣代は打首となり家は開所となったので、役人遠の弾圧を逃れて、山中で相談の結果自分達七人が惣百姓惣代となり嘆願に来たが武田家の税法を復活してもらいたい』

旨の塑状を提出し、ひたすら衷訴嘆願したところ

「何分の沙汰があるまでしばらく控えておれ」

との返事であった。しばらくと言い乍ら、五ヵ月間も放任しておいた。これは冷却のため時間を稼ぐ役人の常套手段であった。

翌寛文九年正月二十七日に至って江戸屋敷に七人の惣代を呼び出し、家老岡村庄太夫から

 

「願の趣については、谷村の役人が質したが、在地役人のいい分には相応の理由がある、検地改め替は全国一般であるから例外はむずかしいが、検地諸運上その他のことについてはその国の従来の慣習に従うので、谷村の役人と百姓惣代とで万事相談の上決定するように谷村役所へ命じてある。国へ帰って役人に相談せよ」

 

といい渡たされ、嘆願の目的は骨抜きにされてしまった。

 

検地は寛文九年春より行われた、検地泰行による検地でなく百姓に命じ、自主検地の形をとられた。しかし、役人の目は背後で光っていた。この検地の結果は二千四百九十三石の増加になり、農民は「泣面に蜂」の体であった。

 

『甲斐国志』「村里部」に

 文禄三年浅野左衛門佐、始て検地あり、是時村里八拾壱、高一万八千石千四百拾八石二升なり(中略)総検地は文禄を以て初とす、今に比すれば高に多少あれども今よりは寡方(少ない方)ナリ、秋元氏領主ノ時、寛文九己酉年再び百姓に命じて検地せしむ、是は村落の増す事三拾村なれど或は一村両村に別れ、また五六村にも分れし故、此如く民戸殖たるには非ず               

 

とあり、新開、竿のがれが用捨なく検出され、寛文七年の塑状にある『検地改め替え御縄入りの趣』の心配はついに襲って来たのである。 

  

後期抗争・越訴                 

 

 郡内騒動は前書の年表が示すごとく、寛文の愁訴を前期とし、延宝の越訴を後期とすれば、その間約十年の中だるみがあるが、しかしその間領民の苦悶の状がありありと見えている。即ち、寛文十二年二月中の大明見村八郎左ヱ門の他行、延宝七年十二月中の下暮地村吉十郎の他行、延宝七年九月中の与経村勘右ヱ門の他行、その他などの逃散続出である。これは徳川幕府厳禁の逃散をあえて犯し、祖先墳墓の地を後に知らぬ他国に旅立つ悲壮さは領民の苦悶を物語る代表的の行為であろう。   

 

寛文九年の検地改めによる収奪強化に加えてヽ

寛文十年八月連日の大雨出水被害(北都留郡誌)、

延宝二年二、三月の飢饉餓死人多数、

八月凶作(天正宝永年間記)、

延宝四年秋降雨旬日に及び大出水(北都留郡誌)、

延宝八年大雨又は富士颪、風烈しく田畑一円風損水損(延宝九年訴状)、

延宝九年(天和元年)大洪水・大飢饉(甲斐歴代譜)

 

等々災害が相次いで起り、農民窮乏に拍車をかけ、本格的一揆にかり立てられるに至った。

疲弊困悳はますます深刻となり、これを見かねた庄屋、組頭が散慢的に谷村役所に嘆願したが、役人は城内の屋敷裏手に廻し、打首にされるものあり、抜打を喰うものあり、投獄されるものありなどして悲惨なものであった。ここにおいて郡内領七組の惣代七人は再び立ちあがり、延宝八年十一月はじめ江戸に潜入した。これを聞きつけ、あとより江戸表に参集した五十六人の者と馬喰町の桝屋に落合い、相談の上同月十四日秋元邸に押しかけ門訴を企て、

 

『谷村役人の無慈悲な処置を訴え、寛文八年八月二十三日付の願書の趣旨を叶えてもらいたい』

 

旨をしたためた訴状を提出した。ここにおいて従来の愁訴的訴願から組織的強訴に踏みかえ、戦術転換が明確になった。

 

秋元邸では、一同を監禁して家老岡村庄太夫が面接し、

 

「国元に申付け其方共始め支配一同助かるようきっと致す様にする。国元に帰って家業を大切に励め」

 

と極めて底気味の悪い寛容の回答であった。仕方なく一同退出し、五十六人の者は漸次国元に帰り、七人の惣代は八王子まで引き上げて国元の様子をうかがいながら越年した。

越えて延宝九年正月中ば国元よりの連絡により、国元の惣代が江戸強訴は法度であるとて投獄されたことが判った。左近等七人の惣代は急速江戸に引き返し、正月二十二日死を決して遂に江戸町奉行娯禁断の越訴を決行した。

 

 減租請願ノ訴状

  乍恐以書付御訴訟奉申上候

      秋元摂津守知行所甲州郡内領

             拾九ケ村 惣百姓 

一、秋元摂津守知行所甲州郡内領之儀者従先規御年貢定納惣而御取被成候

当御地頭様御知行に被成御年貢高取ニ被仰付、

其上物成課役銭大分御取被成候ニ付、

此以前百姓共迷惑之由御地頭様へ御訴訟申上候へ共、

牢舎死罪ニ被仰付候故、以後者御訴訟仕候儀不罷成百姓連リ共、

及困窮難儀仕候、殊に去年は大雨又は富士おろし(颪)風烈敷御座候テ、

田畑一円風損水損に逢、何共迷惑仕候依之国元にても、御訴訟申上、

旧冬江戸御屋敷へ参り、御救被下候様にと訴訟申上候え共、

助り候様被成可被下候間、先に罷帰り候得と被仰渡候に付罷帰り、

道中にて承り候へば、江戸御屋敷へ御訴訟に参り候儀不屈の由、

被仰国元に罷在候、名主組頭共或は牢舎或は御願に罷成、

五六拾人曲事に被仰付候由に御座候故、

我々共国元へも不被罷帰候に付即ち道一本、中より引返し、

江戸へ罷上り無是非乍惶如斯御訴訟申上候間、

御慈悲に惣百姓共助り候様被仰候様奉願候御事

 

一、本高合弐千八百八十石余  但拾ケ村分

    此納米弐干参百弐拾石余  但定納田畑上中下

    俵にて六千六百参拾俵余  平均ハ割五証取に当る

    右外拾ケ村にて一ケ年に  此代金四百代金拾八両弐分余

一、納麥干弐百八捨六俵余   此代金代百拾四両壱分余

    右之替りに六百四捨伏余被下候 此代金四拾九両二分余

一、納大豆百四拾九俵余    此代金代拾参両参分余

    右之替米七拾四俵余    此代金四両余

一、納綿拾六俵余 

    右之替米四俵余      此代金壱両壱分余

一、納紬百拾六端       此代金孝拾六両

    右之持米六拾壱俵余    此代金弐拾壱両壱分余

一、納綿弐拾八把       此代金参拾五両

    右之持米五拾弐俵余被下候 此代金拾七両弐分余

一、納麻三百三拾弐把     此代金四拾壱両弐分

    右之持米拾六俵余被下候  此代金五両弐分余

一、納山大豆弐百三拾俵余   此代金七拾七両弐分余

    右是は代少も不被下候

 

一、四拾四年以前寅年より高百石に付拾石宛御上げ御取被成候、

是は御赦免被成村も御座候、

然し御同領之儀に御座候得者一同

増し御年貢御免被下候様奉願上候御事

 

一、先年鳥居土佐守様御知行所の時分御蔵入之節も、

堰普請之人足共に御扶持被下候処、

只今者御扶持も不被下剰此堰水掛候畑には、

弐治四五年以来百石に付治石宛の積りに御上げ御取被成候に付き

    是又迷惑に奉存候御事

 

一、甲州一国は古より今に至る迄納め方の儀は小切と申候て、

御年貢三分の一は石代金壱両につき

米拾壱俵壱升宛の直断切定納申候、

    此儀は甲府様御領を始め其外御給人様方の御知行所、

何れも国並三分の一は小切に御上納仕申し候、

郡内領の儀も鳥居土佐守様以後

御蔵人に罷成候時分の小切御割付にて、所持仕候村も御座候、

然る処当て御地頭様は国並の小切を御破り、

石代高直に数年取詰相成候故、百姓共々年々つかれ、

何共迷惑仕候、御年貢三分の一は国並の小切に、

被仰付候様奉願候御事

 

右之適御家来、根岸弥五右衛門と申仁

年々厳重被仰付御取詰被成候に付、何共困窮仕候処、

去る八月の大嵐にて田畑は不及申上、面々家共迄被吹潰れ、

又は大破損仕何共致迷惑何れも渇命に及び、

百姓相勤可申様無御座候間乍惶惣百姓共相助り候様何分にも御

救抜遊抜下候はば難有可奉存候、

此外難儀之品々別紙一書を以て御訴訟申候 以上

  延宝九酉正月 秋元摂津守知行所

 

新倉村  ・大明見村 ・小沼村 ・小明見村 ・鹿留村

古川渡村 ・境村   ・朝日村 ・網野上村 ・田野倉村 

倉見村  ・夏狩村  ・下吉田村・大幡村  ・井倉村

戸沢村  ・下墓地村 ・与縄村 ・花咲村

 

    右拾九ケ村惣百姓

 御奉行所様    

 

一、納麻弐百目壱把にて納代米五升四合宛受取り候処

御地頭様へは八百目壱把に仕納め、

此精米壱升八合宛被下候、麻八百目は

代物六百弐拾四文、米壱百文に当り申候御事

一、同綿弐百目壱把に仕納め申候に、

今は六百五十匁壱把に被成御取候て、

此替りに米壱俵壱斗七升五合宛に御継合、

今被成候綿一把は代金壱両壱分、米は弐分にて御座候               

一、夏御年貢として麦五斗五升五合に被成、

六斗ハ升俵にて御取扱成、此代米半俵御継合被下成候御事、

米百姓より三斗五升入りに御座候米を、

三斗七升入りの積りに御継合被成候御事。

一、馬大豆として、三斗七升俵にて被仰せに付き、

     四斗五升入りにて御取被成り候、

     此の代米半俵宛御継会被候御亊

   一、紬年具として一反につき、

金壱分三百文宛御取被成、米壱斗九升五合被成候、

此の米之儀は九百文程に当り候御事。

一ヽ小麦弐俵御取候て米壱俵宛御継合被成候御事

一、麻布壱反に付銭壱貫匁にて買納に付候得は

此代に銭百五十匁宛御取被成候御事

一、火手松代として銭百五十文宛相取被成候御事。

一、山方の村々へは御掛村々に応じ、

山大豆と名付三斗七升入にて、

弐参捨俵五六拾俵宛御取り、是は替り少も不被下候御事。

一、染桶一つに付代物三百文づつ買申候処に

桶一つの代に大豆八斗宛御取被成候

此の代金壱両程に御座候御事

一、炭木の代と被仰付

壱束につき銭百弐拾四文宛相取被成候相事

一、村々に応じ一村に渋柿弐升五合入の桶を以て             

三斗四升宛被仰付、半分は代物にて壱斗につき

弐百五拾文宛相取被成候御事

一、干草刈と御名付萱枯らせ、御取被成候

此前は百姓にも一日刈り納申候処、

是に高にかけ百石に付弐拾駄宛被成仰付候へ共、

弐駄を壱駄の積にて、四捨駄程宛御取相払被成候、

是は百姓自分山又は才覚仕候て納め申候

其上又干草棒と御名付、右の萱かつぎ申候棒

長二間一尺末口一尺廻りに仕、

百石に付拾五本宛相取被成候、

壱年まぜに半分ハ拾本に付、銭弐百五拾文宛相取り被成候御事

一、先規は薪山に付壱駄を四束宛に納申候処に、

只今は百石に付き百拾束宛被仰付、

其上壱駄を壱束宛被成相取候御事

一、先規は馬草壱駄納め候へば、壱駄に御受け取り候処、

     只今は弐駄を壱駄に被成御取候御亊。被成御取候御事

一、毎年春中御助と被仰作倉御貸被成候へ共、

相場より金拾両に付き三拾俵宛高直に御被成候に付き、

結局迷惑仕候其時々の相場にて九月切に御取被成候様

奉願上候御事             一‘

一、毎年極月等の時分よりおゐ鳥雄子被仰付、

村々より壱弐羽又は七八羽宛御取被成候、

雄子調ひ不申候、百姓は壱羽に竹代物五六文宛て

     貢納申候最も代物にても御納申候御事     

 

 七人の惣代は越訴の罪により直ちに伝馬町の牢屋にぶち込まれ、秋元家に引き渡された。秋元家では谷村に護送し一方的の処断で、同年二月二十五日金井河原の刑場で秋山村左近(関戸)は主諜者と目られ磔刑、他の六名は死罪打首に処せられ、家は闕所、家族は所払いとなった。

かくして越訴の結果は封建制度の網にかかり、がんじ絡みにされ、支配階級護身の呪縛に敢なく落命し、農民犠牲の挽歌が奏られるに至って終末を告げた。              

 

註旧 忠右右門手記 

 

   引 用 文 献 

◇心南都留郡誌 明治四十二年十一月八日、山梨県教育会南都留支会

◇郡内百姓一揆 昭和三十一年四月一日 谷村高等学校社会部

◇寛文年間郡内義民的訴訟願 正徳四年十一月

◇郡内殉義民事歴(秘史実録)昭和九年雑誌『改造』五月号所載

◇奥脇太郎左衛門殉義碑文 昭和九年四月、権藤成卿撰

 

   あとがき

 

 郡内騒動の記録の中に、封建制度下の支配階級が常に用いる欺轍政策が二、三織りこまれている。すなわち、寛文六、七年の波状陳情に手を焼いた在地役人は『もののわかる代表二、三名をえらんで文書まもって願い出ろ』と促しながら、その行為は公認であり、文書は極めておだやかなものであったにも拘らず二人の惣代を捕えて投獄し、八ヵ月役に死罪開所を敢行しており、又延宝八年十一月の江戸秋元邸訴願に対し『願の件は承知した。安心して国元へ帰れ』

と寛容に取扱いながら先に帰った惣代を捕えて投獄したのは明かに狐狸的手口であり、いずれの農民一揆の鎮圧にも執られる政策であるが、少くとも領民にとっては名君とあがめる訳には参るまい。

 秋元家の苛斂誅求については『八公二民を上まわる正租とそれ以外の驚くべき雑税の収奪という事実』を谷村高校の研究報告「郡内百姓一揆」は指摘している。

延宝九年の越訴状別紙の小物成、課役の状態を見ると、重箱の隅を楊子でほるように詮索して、実に抜目なく徴収し、物納は数量を倍加し、曾姓とゴマの油のたとえの標本のようなものである。かかる収奪は初代泰朝から始っているが最も甚だしかったのは三代喬朝の時代であり、騒動の起ったのも喬朝の治世であるが、喬朝が郡内領主となつたのは明暦三年の九才の時であり、騒動が初めて発生した寛文六年は十八才の折である。従って税務は家老岡村庄太夫と谷村在地役人の根岸弥五右衛門等が専務し喬朝は「目暗判」を押していたにすぎないのであろう。

延宝八、九年の騒動当時は喬朝は既に三十才になっているので喬朝の意志が加わっていると見てよかろう。さりながら三十才奏者番、三十四才若年寄と幕閣に列しているので公務多端のため多くは家臣任せであり、禄高の割合に社会的地位が高いため財政は困難であったのであろう。財政をとりしまる家臣がそれを苛斂洙求によって農民にしわ寄せしたに違いないが、根本政策を握っている領主の責任は免れない。

領民の誹膀に対し圧制を以て覆っている。これは騒動期間後まで続き、犠牲者七人の追善供養のため建てられた「六地蔵」その現れである。あたかも切支丹弾圧に対するマリア観音と軌を一ツにするものである。                     

延宝九年正月の越訴状に署名してある十九カ村名は、南都留郡誌・郡内百姓一揆・忠右衛門手記の三本について見ると、大体五カ村宛の入り狂いがある。七人の代表が出ている村の名が次の如く落ちているのと入っているのとがあり、何れが正しいか俄かに究明はむずかしい。                          

 

 忠右衛門手記と称するものも江戸時代写本で流布した物語本に近いものであるが、事件の経過についてはこれに頼る外に今のところ手はないので一応引用した。

     (筆者=山梨市小原東)

 






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最終更新日  2021年07月30日 07時45分25秒
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 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
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