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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年07月31日
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カテゴリ:歴史さんぽ

『異説まちまち』

 

異説まちまち 四巻 和田島江著

 

 本書は旧大成本によって初めて活字となって流布した本である。時代も江戸期のものとして古い方に属し、内容も武家の行実、世俗の巷談、この中には著者が細井広沢の門人であったり、赤垣源蔵の叔父と云う高野貞寿と云う人と友人であったりしたためと思うが、赤穂義士に就いての小話も多い。

記録、軍記物などについては、『前太平記』金平本のこと其の他の批判をしているが、『いくち物語』『醒睡笑』『可笑記』などは質なるものなりとして誉められている。書籍の条などは尾崎雅嘉の『羅月庵国書漫抄』に多く採用せられている。其の他見聞の記録も多く、本書によって知られる記事も多いことで、既に旧刊当時にも甚だ評判のよかった書であったと思われる。

旧刊本の凡例には関宿藩の家老木村正右衛門から、水戸の小宮山昌秀(楓軒)に充てた書翰を掲げて、其の内容と人物を説明して居られるが、誠に当を得た処置と思うので、今又凡例より此を引用する。

 

此異説区々と中書二冊、御笑種に人貴覧申候。御一覧も相済候はば御返却可被下候。

是は四五十年以前、藩中和田庄太夫と申老随筆に御座候。文学は河口三八門人、

書は細井次郎太夫門弟に御座候。随分其比の話名家之者、度々出会仕候由御座候。

何か一向埒もも無之事共出傍題に相認候随筆に御座候。

御閑暇之節御笑種に相成可申哉と奉存候。尤私亡父写置候而、乱書誤写多、御覧も御面倒に可有御座候哉与奉存候。

尚万緒期重便候。頓首。文化十年二月十四日

 

和田良江正路に就いては、本書の外に何も加えるべき資料を知らないが、まだ関宿あたりで好資料の発見などもあればと、虫の良い事を考えながらこの稿を終る。なお旧刊本は無窮会神習文庫本によって活字化されたが、再刊に当っては、静高堂文庫蔵『小宮山楓軒叢書』)本及び内閣文庫本間宮士信手跋本(文政十二年写)、「明治九年七月稿」と云う写本を比校本として使用した。なお和田正路著述目録等を本書の巻末に添えた。

 

福島左衛門太夫

 

安芸、備後七十万石を御叙上にて、川中島にて三万石彼下隠居被付時、家来の云、さりとは是程迄の御式功にて渡らせ給ふを、此度の義はいかなる事にやと申ければ、

正則云、弓を見よ、敵あるときは重宝いふべからず、治国になれば袋にいれて、土蔵にいるゝなり。

我は弓なり。乱世の用なり。今治世なれば、川中島の土蔵へ入らるゝなりといひしとぞ。愛岩下の今松平隠岐守殿屋敷より愛岩下通をかけて、四方屋敷なりしが、左衛門太夫身上御潰し彼成たりといふと、江戸中あるとあらゆる、古かね買の集れる事、おびただしき事なりしとぞ。

左衛門太夫死去の時、死骸検使をうければ、三万石は立べきなりしが、検使をうけず取置ける故、御潰しのよしなり。

青山の談には、左衛門太夫存寄には、愛宕山より大筒を打掛ん積なり。また池上の本堂を、正則広大に建立せられしも、屋敷叶わずば池上に閉じ込もらん。夫より、品川より西国へ海路にて、走らんとの工面なりとぞ。

又其日にめさるゝに成しかば、四方屋敷の窓を狭間にして鉄砲をしかけ、家士ことごとく馬に乗り、甲冑にて馬上のまゝ玄関の際に居れり。自分は牀几に腰掛て玄関に居て、今打出ん。寄手如何にとまつ風情なり。しかる所へ、細川三斎括り頭巾にて杖をつき、平服にて来り、何やらん正則に言われければ、承知して人数みな引とて引せられ、台命に従れしとなり。三斎は奇妙の相口にてありしとなり。

家亡て後、家来幼稚の子の手を引て、度々に順にいでて、ようやくに二千俵を被下たりとぞ。

 

三斎或時正則のもとへ行けるに、

小姓を炬燵の中へ蹴込で焼殺す時也。炬燵より這上らんとすれば、蹴込々々して居る所へ行かゝり、三斎、こはいか成事ぞ。此者我等に呉られよとて、襟をつかみて引提玄関へ出、供の者に、此ものわが屋敷へ連行くとて、自分の乗物へいれてやられぬ。今に其の子孫細川侯にあり。また斬罪にせんと云れけるを、公儀よりゆるし候へとの御使ありしかば、御使の見る前にて、台命にしたがひ、斬罪に不仕とて、松明にて焼殺しけるとぞ。残忍いふばかりなし。此類の悪事多侍れば、子孫へも報い侍るべき事と、福島の臣話けるに、九皐先生かたりき。

 福島日向守殿は、広沢先生のふるき弟子なり。懇意なり。かの臣のかたりける也。

 

加藤肥後守忠広御潰しの時

江戸より被為召候に付、細川越中守へ此事いかに侍らんと云。

越中守云、右の被仰出承候ては、一と足も御国元の方へは罷成不申、一と足も御国元の片へは羅成不申、早々江戸のかたへは御むかひ候へ。早々江戸へ御越候へとの事なりとぞ。それゆえ右の跡五十万石余、直に越中守殿へ被下たるよし、古人かたりき。

其頃羽州にての事にや、江戸にての事にや、大唐迄も聞へたる加藤肥後殿、御改易と子どもうたひけると云也。

 

家光公仰には、

両番は、我左右の手なりと仰せられしとぞ。御備え立にも御旗本に有也。それ故に番頭も軽し。御直の御采配に附心也。大番は御先手にある故に頭も重し。

 

家康公、甲州の士を被召出、

その国に随て法度をも被仰付、是早く御治世の挙なり。甲州被召出と思ゆるは公論にあらず。はじめ日本不残御手に入らぬ内は、どれをも被召出、平安に近くなりては御撰びある事、是治世の時に応じぬる挙ならん。此挙異朝にも、創業の君は此例多し。

又甲州の被成方を御用とのみ思も槩論なり。いづれにも宜きをゑらびあしきを捨る。是犬智能の挙なり。尽くに用ひ給ふにはあらず。

甲府の士云、鏃のぬくるやうにして敵を射れば、跡にても其疵にて死す、と御聞ありて、皆々其君の為になす事なり。そのものに悪みはあるべからず、不仁の事なり。その場にては互に主の為なれば、射も討も其筈也。跡の事まで悪むは、不仁とて御用なきと也。誠に仁徳の大なるを知るべし。

三家も甲州より出ると心得ぬるも、三管領の事迄の吟味のなき故也。足利家を用ひ給ひぬる事も、古説有事なり。唯我宗旨聶肩の荷担公論にあらず。

 

甲州の論に、

信虎は槩紂にもまされるによって、晴信追て道理にかなへりと云。

是治世に成って、聖賢の道をとくものに、此事を破らせらるゝを迷惑がりての遁辞なり。其比争か聖教の沙汰に及ぶべき。

 

斎藤義竜が道三を追い、三浦道寸、父時高を追ふの時風也。槩紂などの沙汰に及ぶべきにあらず。乱世の風、君臣父子の沙汰は格別なる事なり。

古代乱世の書を見れば、わかる事ぞかし。

治安に至りて、おしなべて聖賢を知、又、憲廟のころになって、諸士学文を日用と受用となす事とて、林家の剃髪を、平人になさしめらるゝより、いよいよ聖学流行する程に、覇業のいやしぎを、かざらんとするの遁辞なりしを、段々聖学を平人もしるにいたりては、子共より講釈をもきくゆへに、いよくにかざる事になり

 ぬ。乱世は乱世の風にしてとく事こそ、公論なるべけれ。

 

百年以来、

治世になってより以後、楠(正成)を称誉したるになりぬ。百年以前に楠を称したるを聞ず。

神君(家康)も、尊氏の治世をも称し給ひしぞかし。

今では足利家の沙汰に及ばず、楠氏を称す。

畢竟楠を称するは、経理にいたりての事なり。百年前此沙汰なし。

 

甲州にて、

神君へ披召出しは、駒井右京、跡部民部、今井五郎右衛門、其外略之。

跡部大炊頭勝資、後に尾張守と号す。しかるに甲陽軍艦世に行るゝによりて、佞奸人と定め、又勝頼死去の時に、その場を外し、後、信長の偽り触によりて出るによりて、死罪に行るゝと記し、又はその場を外しけるを、金丸惣蔵に射殺されしと云説あり。

甲陽軍艦によりて、百事論定やうになりぬ。

しかるに神君、甲州より被召出しは、尾張守勝頼が子なり。跡部は甲州に久しき家とて被召出一心り。佞奸死罪の子孫、しかも非頃甲府にて、甲府の亡ぬる根本の佞人ならんには、神君いかでか挙あるべき。尾張守勝資は田野にて討死なり。

又甲陽軍艦は、高坂は勝資と天中わるにてありしなり。その上大かたは小幡勘兵衛の書立られし書なり。甲陽の実録にあらずといふ事なり。畢竟右の甲府にて披羽出たる等の家の古人、ともに甲陽軍艦を取ものなし。今世の人の同じ比のものゝ書たるものは、実ならずと思ふても、誰も実録ならぬを知、同時代の人の事なれば、おなじごとくに覚て、頓着せぬ風とおなじ事なり。しかれども畢竟勘兵衛、北条、山鹿など、追々に軍学とて風扉今し故に、板行も広く、残るも多故の事なり。

畢竟勘兵衛、大坂の城内の事、落城前に出たる事など、詐偽の風ある故、各の甲府出の人のおとしめ思ひけん。勘兵衛事をば冷笑せるなり。

 

軍学とて世上時花来れる大本は、伊豆守信綱誦経まれけるゆへ、願人才智の人欲風扉せるなり。

 

信玄全集

と云有、甲陽軍艦と末書とを板行せる也。右の比也末書に、信玄その人の得手を用、山県が小返しをよくする欲、神君の押となすと書けり。非学派の人の厳めしく云事なり。予是をもって信長の天器を感ず。甲州の押えに、神君を置て信玄に自由をさせず。又、神君は松井左近恵次を以、甲州の咽首を押へ給ふこと、非人用の常ならざるを見べし。非学派の人はともかくも、外人の此所を言はで、甲府のみの褒誉いとかたくなゝり。

 

松平摂津守義行公は

甚記録を経給へり。その家出の者語って曰、神君「巴の陣」と云あり。山県に御出合の時、山県は赤おどしの赤備えなればとて、こなたは水色の旗にて、皆水色の支度也。巴の陣にて戦ありしに、山県敗軍せしと也。是は水尅大の理を以被遊たるなりと云し。味方が原の時分の事なりと咄されしなり。

此事何書にも見あたらず。若は松平周防守家などに説あらんか。猶尋べし。

 

中山助六を以て

忠輝公へ御使いに被遣、御蟄居被仰付、忠輝公の御前へ無刀にて罷出て、右之通申上げれば、忠輝公申けるは、其方頭物さして我前へ出なば、切て捨んと思ひしに、無刀にて出る事天晴なり。御請せんと仰せられしかば、助六飛しざりて、若御請の被遊かたによつてと存、かゝる覚悟仕たりとて、腕前を出し見せ奉りければ、忠輝那公、さてさて上様は、御人持ちなりとて感服なされしとなり。井上氏談。

 

忠輝公、諏訪に蟄居の時は

南の丸といふに居玉ふ。諏訪の御家来の子なども、彼方へ料理人などに勤る様成程にて、厳密皮事もなし。古囚幡守殿の時は、高野の時運参らせて、高あわす事をも見せ参らせられ、其後、憲廟の比、出雲守殿の時分には、厳密に守護し参らせらる。

忠輝公の仰せにも、因幡守時代には斯は無かりしにと、仰せられしとなり。毎度の仰せに、政宗にだまされて口借と、の給ひけるとなり、謫居の内も、一伯公などの様に手荒成事もなく、御神妙なる御事なり。諏訪殿の末子五郎左衛門殿へ、角力取の目貫を遣はされて、今に有。是は五郎左衛門そなたは、ねぢおふがすきゆへ、是は遣わさんとてのことなり。附来れる人は、柾木左京、千本隼人といふ人也。左京死去の時、御使番検使に来る。

それゆへ後に忠輝公御死去の時、検使に定て重き人にて有んと、諏訪にてもその用意をしたりしに、存の外軽き検使とやらんにて済たる也。

忠輝公を葬りしは、信州諏訪の貞松院なり。盆などには葵の御紋の挑灯を門下ヘも立る也。貞松院といふは、元祖諏訪頼忠の奥方なり。この寺に葬奉しなり。

大道寺融山収拾にて、鳥井伊賀守寺社奉行の時、憲廟御治世の時、寺領三十石被下、忠輝公死去の時、色々払物出て、家中共外にても買たり。笹作の鑓なども出たり。(三井氏談)。

猷廟の比は、公儀へ御勢ひを誰奉らるゝ事なり。軽き御家人を、水戸公の御家来切たる事あり。

右の段御老中えも訴ありしに、殿中にて老中打寄て、今日出仕日ゆへ、水戸殿登城有べし。先御控可然。しかれども最早御登城の時刻なれば、途中にて留参らせよとて、安藤対馬守を呼て、右の段云渡さる。対馬守早速に水戸殿の舘へ参りたるに、途中小川町の辺にて行合参らせて、御家来の内、御家人を討候事、御年寄共承知仕、御登城先御留申上候様に、私を申付差越限旨中。

水戸殿聞玉ひて、其方は如何心得たるとたづね給ひければ、右之趣御年寄ども申付候と、私義は是切と奉存罷越限と申上ければ、公儀の御威光の軽く成趣なれば、聞とどけたりとて、途中より御帰舘のよし也。

 

加藤清正朝鮮在陣中、虎狩をせられしといふ説あり。

朝鮮陣中にて、虎来りて馬を喰たり。馬をくわへて高き矢来を飛越たりといふ。

 

忠勝の子酒井摂津守は、

大力にて有し。或時庭の石を、人足の十人計も寄て、据え直さんとしける事ありしに、右人足の休ぬる隙に、摂津守駒下駄を履きて庭へ出、件の石を取て投られけるとなり。非時駒 下駄は破れたりといふ。

 

高力小一郎は、

公儀よりの御附人也。大坂陣の時、手負あって苦み、最早勤れぬぞ、我首とって呉よと呼わりげるものありしと也。小一郎立寄って首はとらず、側にありし鉄畑を奪ひて帰られしとなり。






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最終更新日  2021年07月31日 05時40分00秒
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