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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年09月01日
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柳沢吉保(松平美濃守)吉里『兜嵩雑記(とんがざっき)乾』

 

宝永四年(1707)二月十九日より同六己賃年迄五年之間、松平美濃守吉保卿御知行所と成り、さて此美濃守殿と申は、元来其古しへ先祖は武川十二騎之内、柳澤三左衛門とて知行貳百石敢納被成りし人の末葉也、

此美濃守殿始は柳澤太郎左衛門と名乗しか、其後追々に出世有て大名と琥給ひ柳澤出羽守と號す、間もなく美濃守と改、常時五代将軍綱吉公御治世の程は、殿中に勤仕し、たれか上を越者無し、天下の大老として壹人之師範たり、武州河越之械主と號し、七萬石を領し、亦々松平之姓を被下、剰悉も御諱名之被下加之、『従四位少将松平美濃守源朝臣吉保』と改、甲

斐國三郡之御朱印封し被下ける、其文曰く

 

甲斐國者要樞之地而一門之歴々雖領来依真忠勤

今度山梨・八代・巨摩之三郡一圓宛行之爲

先祖舊地永領知之仍如件

    宝永二乙酉四月廿八日    御 朱 印

               松平甲斐守とのへ

 

右之御朱印頂戴有、誠に前生如何成る善因を結置給ふらん、天下の四民浦山さるはなかりける、

宝永六年、松平美濃守吉保隠居御願有、御家督は松平甲斐守殿え相続無相違、益々大君の御前宜敷有けれは、下萬民に至迄

千代に八千代に細石(さざれいし)の、

岩音鳴りて苔のむす迄

と悦ひ勇み、踊り上りてよろこひけり、

同年五月六日美濃守御嫡男、

『従四位下侍従兼松平甲斐守源吉里公』

始めて御入郡御座ける、

御知行先規に不替、拾五萬三千予石也、

 

  柳沢時代 甲府の街

 

扨御城内御普請美濃守殿御代より御郭内外御普請有といへ共、別て隣国

他國より馳集る諸職人美を盡し、御城内には八数の館を建て

 

御楽屋、比沙門堂、稲荷堂、學文所、公文所、政所、

臺所、贅殿、局部屋、四阿屋、御書院に続て禮堂、

特佛堂、政所、櫓に至迄中々筆頭に盡かたく、

庭前泉水の石、築山之遺水、蔵文庫、東西に鞠之場を構え、

四掛りを植え、見附御門、二之郭十五カ所、

其内には諸大将、物頭並び諸侍之部屋迄印に不及、

土手より外は、先東之方は籠舎町、此所は町方の組、

足軽衆、長禅寺には御目附、与力、

元樹木には御歩行、御料理方、御能組、役者、

南は教安寺表門深町、蔵田村之組合、輿力、足軽也、

さて廿人町は城代組之足軽、表佐渡町、裏佐渡町、代官町、

樹木町是等は地方御代官、物頭、西は穴切明神、弓手、

右手此所には御川除方、代官付之地方、与力、同心、田町、

百石町、小砂町、上下相川、横澤、是には近習取次、

北は小納戸小路、八幡之官近邊、元紺屋町、竪町、元三日町、

鹽部村、増山町、相原、御崎町、醤油町、岩窪村、元館、

下之丸に至迄数万軒の御家中、

竪小路、横小路、棟々棟門に門を並へ、作り並へし有様は是そ甲府の花盛り、時を得たりと見へにけり、君々たれは臣々たり、上を敬下を撫、誠に目出度御代琥と萬民萬歳を唱る。

 

柳澤吉保 甲斐 龍華山草創之事

 

そもそも此龍華山と申寺は、故美濃守吉保殿御願として、山梨郡岩窪村に一宇を御建立有、則寺號龍華山永慶寺と號し、山城國宇治の里、黄檗山高副寺之先住悦峯禅師を請待し、當山の開山と敬ひけり、是渡唐名僧なり、是より君を始奉り諧士島民に至る迄、晝夜之警語引もきらす、堂上堂下之御作事宇治之里萬副寺之圖を以て、七堂伽藍建並へ、加旃之殿堂蔓を並へ、楼門高聳其風景郡懸に冠たり、去れは堂内之諸佛諧菩薩は暉光を輝し、所謂唐佛也、荘戴珠玉鏤(ちりばめ)誠に殊勝の霊場也、毎に毎年七月十五日、聖霊の供養として大施餓鬼之御法事、日中より八ツ時迄、諧僧数多にて各々回向有けれは、見聞の貴賤難有事感涙肝に命じけり、

扨正徳五乙未十一月二日、美濃守吉保殿逝去ましましける依て、尊骸を江戸屋舗より御引取有之、則御菩提所岩窪龍華山に奉葬、

御法就は、

 

『永慶寺殿前濃州太守甲鉏御羽林次将保山大居士』

 

誠に此殿は一生之内、繊(わずか)の知行より段々官録益り、甲斐少将迄に昇り給ひし事、前代如何成善道を積置給ふらん、アゝ、世の人の身の上斗り難し、行すゑ不思儀なりし事共なり、

 

 豊臣秀吉のこと

 

去は是をむかしに譬へれは、前関白秀吉公は尾州の土民筑阿彌入道か子にして、始の程は隣村の寺に居て小沙彌と戌しか共、是も不遂追出され、夫より人の世話をもって奉公に出る事何軒と云数を知らず、後遠州之浪人松下嘉兵次と云し武士の所に奉公に出しが、爰に始て二三年も働けるか、或時金五両を預り織田信長の城下へ具足誂に来られしか、彼の預りし金にてふと信長へ奉公之望起り、主人の誂(あつらえ)の鎧は不調、己か身の挊(はたらき)に事寄、乞食同前に形振を拵へ、信長狩野の時を見澄し御目近く罷出平伏しける、其時信長其方名は何と申そと御間ぴ被枕けれは、筑阿彌か子にして名もなき由申上ける、然は小筑と申昔とて、夫より馬屋之用事杯勤、叉或時は殿御覧被成る小筑は「去」とは「猿」に似たり、今より猿と呼へしとて、夫より猿々とそ召れける、然るに用向の勤誠に實躰にして、物毎人之致より利口に出来しけれは、次第に立身いたし、木下藤吉邱と成り、間もなく播州姫路之城代と成り給い、羽柴筑前守秀吉と名乗り

大名と成り給ひ、終始太政大臣開白秀吉卿と敬せられ、天下を常に握りて朝鮮迄も切隨へ、異國迄も其名高く聞へさせ給ひ、御逝去之後、「豊國大明神」と贈官仕奉る事、前代未聞の事也、

是はむかし事、今美濃守入道保山居士も只ならぬ不思儀の人也、扨叉開白秀吉公高位に昇進し天下を治給ひし時

  

落 首 

木の下に捨る乞食もすへを見よ

       さる関白を見るにつけても






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最終更新日  2021年09月01日 18時40分09秒
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