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2021年09月10日
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『柳澤と柳沢氏』

『柳澤と柳沢氏』柳澤史跡保存会編
柳沢史跡 柳澤寺 六地蔵石幢(ろくじぞうせきどう)
 柳澤寺境内の一隅に六地蔵石幢がある。これについて、横手宮の神官桜井義令の日記「横手宮年中録」の安政六乙未(1859)の項に次の記事がある。
柳澤村神主下隣之堂ニ古き六地蔵有「明應五年(一四九六)(丙辰」と有之候。尤明の字ハ知れず是古きものに隣村のたぐひ(類)なきものなり。尤年号も有之ハ棹のミ也 外ハ跡より手入いたし候趣
とある。
この日記は天保十四年から明治十二年に至る三十七年間の記録で、横手を中心に周辺の地域の日常の出来事や気象などを記した貴重な史料である。義墓の子息義令は、徽典館の教官や菅原村村長などを勤めた学徳兼備の人物。この石幢は、「願主□透謹白」とあり、年代から推定し信興の出家名と思われ、地域住民の安全を祈願して建立したものと思われる。この地域は重なる水害のため柳澤氏との関連を示す唯一の文化財として、昭和五十三年に市(武川村)指定文化財となり、平成二十二年柳澤史跡保存会によって防護柵が完成した。
柳澤氏の親戚と略年表
信俊の父信立の娘が山高信直の妻、柳澤信俊と山高信直は義兄弟
信直の孫山高信吉の妻は柳澤安忠の娘(柳澤吉保の姉)
安忠の妻は青木清左衛門信生の娘 
信吉の次男柳澤信尹(のぶただ)、三男柳澤保教、四男柳澤信附。
信尹は享保二年(一七二一)に山高幸燈宮に長寿と安産祈願絵馬二枚(市文化財)を奉納しているが、実家が山高家だからその氏神へ祈願したものである。
 
 同じ頃、兄信賢が「自筆自詠和歌百首」甥信禮(のぶいや)が矢額(いずれも市文化財)を奉納、山高信蔵の妻は柳澤信尹(ノブタダ)の娘、以上武川衆の一員として山高・柳澤は深い関係だが柳澤家が大名となり、遠い親戚となる。江戸中期までは、青木・柳津・山高は親戚
柳澤氏と柳澤
 柳澤の地名の由来は古記録によると、柳の大樹があったからという。
柳澤氏を再興した信興は地名に基づき柳澤を名乗ったが、青木氏の出自で、武川衆の一員として武田氏に仕え六代に亘って当地に住み信俊の時、武田氏が滅びた際「餓鬼嗌」へ一族と共に数か月避難し、徳川家康に新府城で拝謁、以後徳川氏に仕えた。信俊の孫が吉保でその子吉里と二代約二十年間甲州藩主で、享保九年(一七二四)大和郡山へ国替えになった。
柳澤氏の当地に残る遺跡は柳澤寺の六地蔵石幢で明応五年(一四九六)に地元の人民の安全を祈願して信興が建立したものと思われ貴重な文化財といえる。なお、柳澤氏は維新まで郡山藩主を勤め、以後伯爵として相続、戦後は郡山町長を勤め郡山の行政・文化の中心として活躍、現在も「柳澤文庫」を主宰され菩提寺永慶寺の護持に努めておられる。
龍華山柳澤寺縁起(りゆうげざんりゆうたくじ)
 柳澤寺は曹洞宗に属し山高高龍寺の末寺である。高龍寺の記録によると、「宗祖道元二十五世法孫(覚囲)瑞了元禄十三庚辰年二月創建開山」とある。しかし実際はそれ以前に柳揮氏の菩提寺として開創されたものと思われる。柳澤吉保の治世の時代に甲府に建てられた菩提寺永慶寺の山号は、龍華山でありそれは大和郡山の永慶寺にも引き継がれているので、この山号は柳澤氏と密接な関係があると思われる。現在の伽藍は平成十五年建立の一棟だが、旧堂宇は昭和三十四年八月の台風で倒壊した。この建物の規模は「堂舎 梁間五間三尺 奥行 三間三尺」(甲社記・寺記)とあり、これは慶応四年の記録だからこの建物が存続したと思われる。柳揮寺が存廃を繰り返した事は、「廃柳澤寺 曹洞宗高
龍寺ノ抱ナリ。薬師堂、十王堂存セリ」(甲斐囲志)とあり、これは明治維新の約百年前の記録である。明治末年より昭和十二年まで三十年間住職した大竹宥眠の努力により伽藍も整備され寺格も法地となり、昭和二十七年宗教法人格を取得している。しかし戦中戦後の混乱、農地解放によって寺産を失っている。
「柳澤八景」の一つで次の和歌が残されている。
ともすれば薄雲迷う龍華山ふけてさやけき月の影かな
餓鬼の嗌
 「餓鬼の嗌」の地名が文献に表れるのは、柳澤吉保の命によって荻生徂徠と田中省吾の二人が、柳澤氏の新領地に菩提寺霊臺寺(永慶寺と改める)に建てる自撰の碑文が実景にあっているか否かの確認と先祖の地青木及び武田家滅亡の後、織田信長の軍の追及を避け柳澤信俊(吉保の祖父)が一族と共に隠れたという「餓鬼の嘘」の確認という使命に対する報告書である『峡中紀行』『風流使者記』によってである。この二冊は内容ニ大差は無いが、後者には二人の詩の応酬があり、記述が詳しいので草稿かと思われる。正式な報告書は『峡中紀行』であろう。問題はこの「餓鬼の嗌」の探索であるが案内の村人が「そこは近いところだが路が甚だ険隘で初めての人は無理だ」と言ったが、二人は我々の目的は「ただ霊臺寺の形勝と餓鬼の嗌だけだ」と言って強引に歩を進める。餓鬼の嗌を望む絶頂まで登り、引き返すが一応目的は果たしたということとする。
 次に『甲斐叢記』後輯七(大森快庵著・明治廿六年刊)に「其路條は牧原村より西北に向ひ山高村を過て大武川の南崖を上りて柳澤村に至り石空川を渡り西南へ山逕往くこと一里徐にして餓鬼の嗌の麓に至る」とあり、以下『峡中紀行』の抄録がある。





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最終更新日  2021年09月10日 08時06分39秒
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