龍華山新造盛衰之事 資料 『甲斐国歴代譜』一部加筆
甲府の北、元城址の東、つつじが崎と云う所に地取りして、北山をかたどり、宝永年中城主松平美濃守(吉保)、同甲斐守(吉里)建立として、山城国宇治の郡、大和の里、黄檗山万福寺の住職悦禅師を相招き居て、開祖とし即万福寺の図に少しも違う事無く、殿堂甍を並べ門樓高く聳え、風景国郡に冠たり、堂内諸色輝きて壮厳珠玉を散りばめ、誠に殊勝の霊場にて、夭樹を始め諸士万民に昼夜歩を運しか時の変化免れず、此度吉里所替わりに付き、新建の故を以て、公儀の憚り給い、当寺を破却するに窮まり、前濃州太守保山の遺骸を当恵林寺改葬せり、頃は享保九年四月十二日の夜に入りて、密に送り給いける。柳沢権太夫を始め歩行裸足にて家中の諸士供奉する、是を見聞く国民嘆の涙なりし程に、常寺破却は四月三日より、凡四十日余也、鳴呼悲哉、善盡美を照り、此世のあらん限りはと、金堂に人仏せし、釈迦阿難迦葉の唐彿、其外天王殿、法堂、祖師堂、開山堂、禅鐘樓、位牌堂、太鼓樓、僧坊、浴宝、惣門に至る迄、残らす破却の有様は、目も当てられぬ事共也、本堂は大泉寺へ賜はり、残りの堂舎は諸所の寺院へ引取て、跡忽に狐狸の住家と成果て、石碑等を片付兼し輩は、皆々掘埋めて捨てたれば、気の毒に思ひ給ふべし、抑此度所替に付て思合せ見るに、先吉里所替の仰を蒙りしは、三月十一日也、武田勝頼の生害して、甲州没落せしも、三月十一日也、叉龍華山の壊し始めしは四月三日也、織田信長の(脱字あらん)恵林寺に送りしは、十二日也、武田信玄逝去も四月十二日也、斯様に月も日も附合せし事不思議なり。