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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年09月10日
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郡山城内の不祥事件
さて柳里恭がまだ二十二、三蔵のころ、郡山城内に不祥事件がおきている。柳沢家が郡山に移ってまだ数カ年を出ない時のことであるが、家老の武田阿波が斬罪に処せられたというのである。
今も五軒屋敷の真申に小さな祠が残っている。武田阿波の怨霊を祀ったもので、土地の人々に伝わる話はこうである。
 武田阿波の怨霊 
享保一六年、藩主吉里の家老に今業平と時の高い美男武田阿波がいた。日頃、空閏の淋しさをかこつ藩主の愛妾が阿波に恋文を送る。阿波はほどよくあしらい深入りしなかったが、ある宿直の一夜、愛妾は阿波の室に忍び入り、「恋こがる、わらはの思ひ叶ふ夜の、契りはいかに楽しからまし」という自詠の一首を示したが、謹直な阿波にとってはまことに迷惑千万で、その不心得を諭し、追い返した。心のうちでおさまらないのは愛妾である。翌朝藩主に「昨夜阿波がわらわの寝室に忍び込み、無理やりに説きくどかれ難儀しました」と蔑言に及んだ。これを聞き、藩主は烈火のように怒り、阿波の弁明も開かず、即時武田家は断絶、阿波は切腹、その子供まで打首にしてしまった。せめて四歳と六歳の頑是ない幼な子だけは助命されたいとの哀願もいれられなかった。阿波は最後の一言に「御当家七代お祟り申す」と述べ腹かき切ったが、その後、毎夜白装束の怨霊が蒲主の夢枕に現われ、怨みの数々を告げるので、藩主の悩みも重なり、そのうち段々に愛妾の邪恋のいきさつも分ってきたので生駒宝山寺の山主を城内に招き七日七夜にわたり慰霊の供養を行ない、五軒屋敷の旧邸内に小祠を建てその怨霊をなぐさめた、という。
『青柳秘事』という本はこの話を『護国女太平記』もどきに書いてある。武田外記(阿波)の前身は長崎浪人嶋勘兵衛というもので、彼はたくみに家老柳沢権太夫にとり入り、赤字財政に苦しむ郡山薄財政の立直しに成功、その功により家老にまで抜擢され権力をほしいままにし、町内の医師中小路三郎と共謀で、柳沢家乗っ取り策をたくらむ。まず由良姫を毒殺、さらに大殿様を毒害したため、殿様の身持が悪くなり、放埓をきわめた。忠臣柳沢主税はこれを憂い、しばしば諌言し たが聞き入れられないので出奔する。ところが、陰謀がはしなくも中小路一味のものから露顕したので、柳沢主税一派のものが、事の由を幕府の老中に訴えたため、武田一味の捕縛となった。
 摸索したところ、たまたま武田の家から一巻のキリシタン関係の巻物があらわれたことから武田外記の前身が明白となり、彼は島原一揆の天草太夫の末孫で長崎の外科医であり、中小路三郎は甲州忍びの医師、天草玄察の末孫であることが判明した。やがて彼ら一味の者は捕えられ、殿中評議の結果、一味は断罪、獄門の刑に処せられ、忠臣柳沢主税は帰参を許された。しかしこのことがあってから、武田外記の怨霊は数々のたたりをなしたという。
 入部間もない時のことであり、武田の一件は人目をひく大きい事件であった。その真相ははたしていずれにあっただろうか。『福寿堂年録』享保一六年(一七三一)十一月三日の条に、武田阿波罪科一件を幕府に報告した記事があり、享保一八年(一七三三)六月三日死罪申付けたとしるされてある。
          記
    討首 元家老武田阿波と申者 山東新之丞
切腹 元年寄新之丞枠    山東為之丞
討首 元番頭水嶋図書と申者 水嶋 自流
切腹 元寺社奉行      一色 右平
切腹 自流枠        水嶋 鉄治
切腹 同人枠        同 力弥
 右之者共重科二付去々年率舎申付、段々吟味之上此度仕置申付候。
刑の執行は六月二一日、山東新之丞の罪状は「家中仕置向并御領分額扱無道の致し方」、「我意に任せて奢りを極め、上を欺き専ら私欲を構え傍若無人の仕方悉く露顕致す」よって「不忠恕逆」云々ということで討首、子息は父の罪により重科であるが、「御慈悲」で切腹申付けるとある。水嶋・一色は山束の縁者で一味同心したという罪状になっている。はたして真相はどこにあったのだろうか。
 
政道衰廃 
甲府時代の柳沢氏は表知行高十五万千二百余石であるが、内高・新田高が別にあって惣高二十七万石を越えていた。その善政をうたわれた(『甲斐府繁栄記』)のも財政的に豊かであったためである。それでも蒲財政は苦しく、吉保の権勢をもってしてなお不如意であることをなげいている(「保山公綻の要文」)。それが郡山へのお国替えは明らかに左遷であり、知行高十五万石余のほかに何等の収入もなかったのであるから、蒲財政はさらに苦しくなるのは当然であった。そのうえ、入部早々、連年の早損で百姓が不穏な形勢を示し、郡山評定所につめかけ、救米訴訟にまで及んでいる。こうしてお国替えとともに藩財政は急激に苦しく、家中の俸禄も五割減俸しなければならなくなり、日々のくらしにも事欠き、高利の借財になやむという深刻な有様になってきた。
山東新之丞
この難局を処理するため用いられたのが山東新之丞である。彼の前歴については本当のところ分らない。
 山東氏は柳沢氏が一万石の時代、足軽頭を勤めたし、郡山入部当時は知行四百石の寄合衆であった。問題の山東新之丞はこの山東氏の出であるか疑わしい。おそらくその材幹を認められ、藩の全権を握る柳沢権太夫の引きたてで新規に召抱えられ、何かの因縁で山東の苗字を冒した軽輩であっただろう。その出自は明らかでないので、天草一揆の残党とするのも話の筋としては面白いが、どうであろうか。ただ入部当時、山東久左衛門なるものが郡山にいたキリシタン類族を扱っていることに因むものであろうし、話の筋を構成するのに何か関係ありそうである。とにかく彼は柳沢棒大夫の後援で藩財政の難局にあたった。彼は勝手賄いの緊縮、家中扶持の借上(家中の減俸)、厳しい年貢の取りたてなどにより財源を生み出し、莫大な借財も三カ年で償却するという非常な辣腕を発揮した。郡山柳町大門で毎朝米相場がたつ。これを大門相場という。山東は大坂相場よりも一石につき銀五匁ないし七匁の高値で「大門相場」をたてさせた。地方の相場を無
視したこの米価政策で、百姓たちは苦しめられた。この不自然な高い相場で百姓は上納しなければならない。山東の政策に領民は不満であったことは申すまでもない。
 また山東の傍若無人ぶりは、柳里恭が諌めるのをも聞き入れず、西岸寺や法光寺あたりの林を切り払い、三抱えもある霊松まで伐り倒し、人々をして眉をひそめしめたということでも知られよう(『柳洪園先生一筆』)。しかしものごとを処理する実行力はすぐれ、その手腕を買われ享保一三年八月、豊原里亮のあとをうけ家老職に新任、五軒屋敷に入り、名も武田阿波と改めた。ところが僅か三年後の享保一六年一〇月、家老職を免ぜられている。
 武田阿波が新参者でありながら家老職につき、その新法による思い切った政策は保守派の人々に喜ばれなかった。ことに家中への減俸は非常な反感を買ったし、領分の取扱いも「無道」なやり方だと反対派に乗ぜられるすきを与えた。辣腕家の常として自己を慎むことに欠ける結果、奢りを極めたと批難される。山東を武田と改めたことも、柳沢氏の旧主家の苗字を態々用いた反感も多かったであろう。たまたま武田阿波の支持者である柳沢棒大夫(保誠)が享保一四年六月に死んだ。弟の柳里恭にいわせると権太夫は大した人物でなかったし、登用した武田阿波にかえって翻弄されたらしく、いろいろ怪しいことが続き、その跡は絶えている。こうした権太夫の死去が転機となり、さらに伝えられるような、奥御殿向の複雑な閨閥事情も考えられないこともない。
水嶋自流と一色右平は兄弟、その妹類美子は吉里の妾で里虎(早世)の生母である。武田と水嶋・一色との関係は判明しないが、とにかく家老柳沢権太夫を笠に着た武田阿波を主魁に水嶋・一色はその一味として辣腕を振ったものであろう。ために『青柳秘事』にいう「忠臣柳沢主税一派」の反対派に乗ぜられたと見るべきであろうか。だからこそ武田一味の者が縛について間もなく、一色右平は脱走し、江戸に出て黒白をつけようとして失敗、却って多くの関係者に累を及ぼしている。当時においてさえ事の真相は明確にされたものでなく、柳里恭さえ「何事かは知らず」入牢を命ぜられたといっている。公用文書にしるされた処刑名目にしてもまことに抽象的である。旧邸内に祠をつくり、生駒宝山寺の山主を招いて供養したとの伝承も(宝山寺開祖湛海は一色右平の叔父)祟りをおそれるものの心理を物語っている。いずれにしても財政家として、その厳しさが「領分硬扱い無道の致方であった」と指摘される点はまぬがれ得なかったであろうが、このころ、
各藩において保守・進歩両派が財政問題を契機に争った例が多い。
 武田阿波の一件があって、藩では「家中の政道衰廃」を救うため藩祖の掟に徹し、立藩の精神を再認識している。「将軍家への忠誠」が藩政の根本であるとともに、家中統制の中心精神であった。この事件に鑑み、家老の独断を排し合議制をとり、新法を排し、年々の豊凶による検見収納を主張、浪人は一切召抱えないと決めている点が注目される。





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最終更新日  2021年09月10日 08時47分18秒
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