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2021年09月13日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

『武家事記』足利氏の項抜粋

 

『武家事記』山鹿素行著 新人物往来社編 一部加筆

 

〇 足利氏関係 足利義晴 武田氏関係 ●長野県関係 他の武将

大永2年~天文十九年

戦国時代年譜 足利義晴(室町幕府第十三代将軍)

〇壬午元年(大永二年 1522)春二月、公従四位下に叙し、参議兼左近衛中将に任ず。夏四月、秋七月、冬十月。

〇公去年大永元年六月、播州より上洛、十二月、征夷大将軍たり。歳十一、細川武蔵守高国管領をつとむ。

〇癸未二年(大永三年 1523)春王正月、夏四月、源義稙養(阿波)に歿す。秋八月、毛利元就郡山城(安芸国)に遷

る。細川高国商舶を明国に航せしむ、冬十月。

〇夏四月、前将軍大納言源義稙公阿波国撫養において歿す、歳五十八、恵林院厳山と号す。

●毛利元就、もと多治比三百貫の領主たり。ここに大江広元より七代泊部大輔師親(後、元春と改む)、貞和のころ尊氏に従って、石州佐波を退治して、戦功によって芸州高田郡吉田庄三千貫を領す。師親が後胤興元(弘元子)そのころ雲州尼子に属す。興元卒して、その子幸松丸相続、少年にして卒し毛利家断絶の所、志道上野介広良、粟屋縫殿允を密談し、粟屋と密かに上京せしめ、元就毛利家相続の儀を公へ訴え、公御教書を賜る。このよし今年八月、元就多治比より、吉田郡山城に遷るなり。しかして、雲州の尼子と手切をいたし、防州大内家へ属するなり。

〇秋、管領南国商船を仕立て、唐人宋素卿(郵州人朱縞なり)を案内者とし、渡唐せしむ。大内義興周防より商船をこしらえ、宋説と云うものを使者とす。寧波府にて素卿と宋説と先後を争い、素卿賂を奉行に与え、先立って事を行い、宗説怒って寧波府を焼き、奉行を殺して悉く濫暴す。素卿のがれかくる。大明素卿をとらえ禁獄す。宗説は事故なく帰国す(永正七年、素脚、法住院義澄命により、大明に趣く云々)。

甲甲三年(大永四年 1524

〇春王正月、北条氏綱江戸城 武蔵国)を陥る。夏四月、秋七月、冬十月。

〇春正月十三日、北条左京大夫氏綱、江戸の城を攻落す。城には上杉修理大夫朝興居住す。朝興は朝良子なり。城中太田源六、源二郎兄弟謀叛し、北条家を引入る。朝興河越の城に逃亡す。氏綱、江戸城に入り、宇多河和泉守以下の降人に云付けて、城の普請をなさしめ、本丸に富永四郎左衛門尉、二郭に遠山

四郎兵衛尉、香月亭に太田父子を籠って、要害を守らしむ。

乙酉四年(大永五年 1525

〇春王正月、夏四月、細川稙国(高国子)卒す。上杉憲房師を帥いて平井(上野国)に卒す。秋七月、冬十月。

〇夏四月、細川高国剃髪して道永と号す、歳四十二。子六郎植国十八歳にして家督を安く。同年稙国卒す。

〇同月山内上杉憲房、川越をすくわんため、武州鉢形に来る。平井の陣中において病死、子息憲政三歳。これにより古河高基の次男憲広を養って子とし、管領たらしむ。長尾、白倉、大石、小幡関東成敗を司る。

丙成五年(大永六年 1526

〇春王二月、八幡宮(石清水)を道替。公ここに臨む。

〇夏四月七日、天王崩ず。

〇秋七月、細川高国その臣香西 (四郎左衛門尉)を殺す。

〇冬十一月、細川尹賢(右馬頭)師を帥いて八上の城(丹波国香西兄、波多野これに居る)、神尾寺(丹波国香西弟柳本弾正忠これに居る)を攻む。

〇十二月的始。里見義弘、水師を以て鎌倉(相模国)に至る。北条氏綱の兵大いにこれを破る。

〇石清水八幡追啓あり。

〇二月十六日、遷宮あり、将軍家御参向、管領高国山上を警固、畠山稙長山下を守る。細川右馬頭澄賢、伊勢守貞孝、武士を多くあつめて守護す。伝奏広橋大納言守光、日野中納言内光等も相従え、善坊寺を宿坊とす。甲曽弓剣神馬を奉納す。これ廃園院以来の例なり。

〇夏四月七日、百五代の天王後柏原院崩御なり、皇子知仁践祚ましまして、後奈良院と申し奉る。

〇秋七月十三日、細川高国人道道永、家臣香西を殺す。これ右馬頭尹賢が護によれり。これによって香西が一類波多野は、丹波の八上の城にたてこもる。柳本は同国神尾寺に立て籠もる。十一月、道永が命によって右馬頭戸賢、大将として内外の大名八十余頭、丹波に下り、神尾寺を攻め、丹波の赤井三千余騎を以て、柳本を後攻す。双方、大いに戦って、柳本が陣破る。京万葉師寺九郎左

衛門尉、荒木大蔵力戦し、薬師寺は備後守になり、荒木は安芸守に任ず。こたびの軍功ゆえなり。八上城も落ち、波多野は池田弾正忠が甥なれば、寄手弾正退口にうらがえり、京勢を打って、池田の城にたてこもる。故に澄元方の浪人吹田にあつまり、十二月朔日吹田にて戦あり。同十三日阿州より、細川三好が一族堺へつき、中島に陣をとって越年す。

〇冬十二月、里見左馬頭義弘、小弓の義明の命によって、相州鎌倉へ兵船を以て推渡り、鎌倉を攻めとらんとす。北条氏綱兵を出してこれを討って大いに勝つ。

丁亥六年(大永七年 1527

〇春王二月、柳本(弾正忠)、三好(左衛門督)、三好政長(神五郎、剃髪して宗三と号す)兵を帥いて山崎(山城国)に次す。公軍を帥いて桂川に戦う。公の軍利あらず。公および細川南国近江国に遜る。

〇三月、細川晴元(十四歳)堺浦(和泉国)に著す。

〇夏四月、秋九月三好基長(筑前守)師を帥いて伊丹城(摂津国)を攻む。冬

〇十月、細川高国、師を朝倉孝景に乞う。大内義興卒す。

〇十一月、三好基長師を帥いて朝倉教景(太郎左衛門尉、剃髪して宗滴と号す)京師に戦う。教景遊佐某(弾正忠)を獲う。

〇春、細川高国、越前の朝倉孝景に示合せて丹波を攻むべく用意の処、二月三日、丹波柳本大江山より攻上り、山崎を攻め、薬師寺敗れて高槻入江の城に逃亡す。これによって摂州上郡の芥川、太田、茨木などの諸城、みなせめずして落ち、三好左衛門督、同神五郎等大将として、二月十一日山崎へつく。同十三日、将軍家六条へ御旗をすすめられ、細川商人辻道永は東寺に陣をはる。三好が一等桂川をわたり武田と戦う。京方、奈良修理売元吉父子、荒木安芸守打死す。三好左衛門督庇を蒙って死す。

〇十四日、将軍家、管領高国人道道永江州へ退去。三月、阿波固より島公方の子息義親卿十七歳、細川攣冗の子六郎晴元十四歳にて、泉州堺浦につく。

〇九月、海吉筑前守元長(筑前守の長孫)諸勢を率いて、堺より尼崎におしわたり、伊丹へとりかけ、これを攻む。京方には越前孝景が師太郎左衛門尉宗滴大将として人衆を出す。近江の佐々木も兵を出して十三万ばかりの大勢なり。三好元長、伊丹の城をすてて、一月十八日入洛。畠山上総介、家臣遊佐河内守も上略して、京方と大いに戦う。朝倉が師三好にうち負け、同十九日塩小路泉乗寺西院口にて、朝倉宗滴、三好と大いに戦い、遊佐弾正忠、阿部、大西をはじめ、石余人を打取り、此の時、宗滴自身の働き、ことに手下に十余人射殺し、晴元ならびに孝景より感菩あり。しかして互いに対陣して今年はくれぬ。

〇冬十月多々良義興(従三位左京大夫)卒す。年五十歳、凌雲寺と号す。法名義秀なり(或は大永六年なり)。

戊子七年(享禄元年 1528

〇春王正月、公江州に在り。柳本(弾正忠)および三好政長、三好基長に叛く。

〇夏四月、公朽木(近江国)に遜る。細川高国伊勢の国に逃る。

〇五月公朝倉孝景を供衆に補す。秋七月、冬十月。

〇京方三好方和睦になり、正月二十一日、すでに人質を取かわすになる時、丹彼の柳本は三好神五郎政長と一味して、三好基長を背いて堺に至る。これはこたび子細なく京勢を攻めやぶるべき処、基長異心を挟んで和をなし、暗元に敵すべき由、両人が讒訴のゆえなりとぞ。基長ついに和をととのえ、管領高国に謁し、それより堺に至って、六郎晴元に異心なきことを談ず。京方薬師寺備後守、その外、摂州伊丹をはじめ、こたび晴元方へ降しければ、京勢もってのほかに無勢なり。朝倉孝景の師佐々木の一等各帰国し、京都微々のていなれば、四月将軍家は江州にのがれたまい、朽木民部少輔稙綱が宅に居たまう。稙綱よく仕え奉る。朽木ほもと佐々木の一族なり。管領高国は江州より伊勢に逃亡す。

〇五月、朝倉孝景をもって御供衆に加えらる。

己丑八年(享禄二年 1529

〇春王正月、公朽木に在り。柳本の兵三好基長の師と京師に戦う。夏四月。秋八月、三好基長阿波国にかえる。冬十一月、柳本(弾正忠)伊丹城を抜く。

己丑八年(享禄三年 1530

〇春正月朔日、柳本方と三好方と、山崎に相戦い、これ皆晴元がわざなりとて、三好筑前守基長、八月十日に阿波に帰り、柳本弾正はなはだ威をふるう。〇八月十六日、柳本伊丹の城を攻め、十一月二十一日落城し、伊丹大和守元扶をはじめとし打死す。将軍家なお朽木に御逗留なり。

〇春王正月、公朽木に在り。天王清原良堆(大外層をして公を朽木に帽わしむ。公権大納言に任じ、従三位に叙す。夏、別所(播磨国三木城主)京師に往き師を柳本に乞い伊藤を攻む。

〇六月、盗、柳本を師に放す。浦上宗景(掃部助)兵を帥いて有田城(播磨国)を襲う。北条氏康(左京大夫)師を帥いて上杉興朝(修理大夫)と小沢原(武蔵)に戦い、上杉師敗北す。

〇秋八月、浦上宗景師を帥い、神呪寺(摂津国)に次す。細川高国を納る。冬十月。

〇春王正月、勅使大外記清原良雄朽木におもむく。将軍家大納言に任じたまう。時に二十歳。

〇夏、三木別所上洛して柳本をたのみ、伊藤を攻む。六月、柳本弾正忠陣所において、夜中にやみうちにあう。山城、丹波、摂州大いに忩劇す。このひまを伺って、播州西方の浦上掃部宗景兵を催し、束方にはたらき、別所が居城有田を攻取る。六月、北条氏網子息氏康(十六歳)上杉朝興と武蔵府中玉川の端、小沢原に相戦い、上杉敗軍し、難波田弾正、上田蔵人ことごとく逃亡す。

 細川高国人道道永、伊勢国にて名をかえ、常桓と号す。方々、流浪の上、出雲へうちこえ、尼子経久をたのむ。経久したがわず、播州、浦上をたのんで備前に来る。浦上そのころ、備前、播磨、実作を進退しければ、やがて領草し、〇八月、摂州神光寺に降す。晴元方伊丹(高畠甚九郎)、池田(池田筑後)、富松 (薬師寺三郎左衛門国盛)各籠城して相戦う。薬師寺うらぎりして、常稙にしたがう。これによって、晴元方危し。晴元三好筑前守元長を招かる。元長したがわず、晴元さまざまに申しなだめて、元長ついに同心し、やがて阿波より出勢すべきにきわまれり。高畠がまもれる伊丹城つよく守り相支つ。

辛卯十年(享禄四年 1531

〇春王正月、公朽木に在り。二月、三好基長師を帥いて堺浦に著す。

〇三月、基長兵を率いて住吉(摂津国)に次す。

〇夏六月、細川晴元、三好基長兵を率いて細川常桓(高国剃髪して常桓と肯す)と大いに天王寺に戦う。常桓兵敗続す。常桓尼崎(摂津国)に自殺す。

〇秋七月、木沢長政(左京亮)その君畠山政国(上総介)に叛く。細川晴元、長政を緩く。冬十月。

〇春王二月、三好元長、堺に着いて晴元を守護す。同月伊丹城和平す。

〇三月、池田城落つ。同十日、常桓堺をせむべきとて、先陣すでに住士ひに陣する処、堺より逆よせして、常桓利をを失って、中島に引退く。浦上は野田、福島に陣をはる。同二十五日、細川讃岐守政之、阿州より堺に着す(其の勢八千なり)。畠山が家臣木沢左京売長政、晴元に降す。晴元方大軍になりければ、三好基長兵を住吉に出す。このころ赤松浦上に父を殺され、憤を含みければ、幸を得て暗元に属し、浦上をうたんとす。浦上が勢赤松出張をきいて、我も我もと赤松にしたがえば、浦上もってのほかに無勢なり。

〇六月四日、三好基長天王寺へ出張して大いに戦い、常桓方伊丹兵庫助国扶、河原林日向守、薬師寺三郎左衛門、波々部兵庫助うち死す。播磨勢浦上掃部、島村弾正以下うち死す。常桓尼崎にかくれ忍びけるを、三好山城守一秀おし寄せ、同月八日、尼崎大物広徳寺にて自殺す。島村弾正敵二人を左右にわきはさみ海に入って死す。その霊蟹と化す。世に島村蟹と云うはこれなりとぞ。

〇八月、木沢左京売、主人畠山上総介を背に付け、畠山これを攻め、晴元木沢に合力、摂州中島三宝寺に兵をすすむ。畠山は晴元が姉婿なり。不義の臣を愛して、親緑をすつること家の滅ぶべきほしなり。木沢侯紆をかまえ、よりより三好筑前守基長我意をほしいままにすることを讃す。






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最終更新日  2021年09月13日 19時19分35秒
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