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2021年09月13日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

『武家事記』足利氏の項抜粋(2)享禄元年~

 

戊子七年(享禄元年 1528

〇春王正月、公江州に在り。柳本(弾正忠)および三好政長、三好基長に叛く。

〇夏四月、公朽木(近江国)に遜る。細川高国伊勢の国に逃る。

〇五月公朝倉孝景を供衆に補す。秋七月、冬十月。

〇京方三好方和睦になり、正月二十一日、すでに人質を取かわすになる時、丹彼の柳本は三好神五郎政長と一味して、三好基長を背いて堺に至る。これはこたび子細なく京勢を攻めやぶるべき処、基長異心を挟んで和をなし、暗元に敵すべき由、両人が讒訴のゆえなりとぞ。基長ついに和をととのえ、管領高国に謁し、それより堺に至って、六郎晴元に異心なきことを談ず。京方薬師寺備後守、その外、摂州伊丹をはじめ、こたび晴元方へ降しければ、京勢もってのほかに無勢なり。朝倉孝景の師佐々木の一等各帰国し、京都微々のていなれば、四月将軍家は江州にのがれたまい、朽木民部少輔稙綱が宅に居たまう。稙綱よく仕え奉る。朽木ほもと佐々木の一族なり。管領高国は江州より伊勢に逃亡す。

〇五月、朝倉孝景をもって御供衆に加えらる。

己丑八年(享禄二年 1529

〇春王正月、公朽木に在り。柳本の兵三好基長の師と京師に戦う。夏四月。秋八月、三好基長阿波国にかえる。冬十一月、柳本(弾正忠)伊丹城を抜く。

己丑八年(享禄三年 1530

〇春正月朔日、柳本方と三好方と、山崎に相戦い、これ皆晴元がわざなりとて、三好筑前守基長、八月十日に阿波に帰り、柳本弾正はなはだ威をふるう。〇八月十六日、柳本伊丹の城を攻め、十一月二十一日落城し、伊丹大和守元扶をはじめとし打死す。将軍家なお朽木に御逗留なり。

〇春王正月、公朽木に在り。天王清原良堆(大外層をして公を朽木に帽わしむ。公権大納言に任じ、従三位に叙す。夏、別所(播磨国三木城主)京師に往き師を柳本に乞い伊藤を攻む。

〇六月、盗、柳本を師に放す。浦上宗景(掃部助)兵を帥いて有田城(播磨国)を襲う。北条氏康(左京大夫)師を帥いて上杉興朝(修理大夫)と小沢原(武蔵)に戦い、上杉師敗北す。

〇秋八月、浦上宗景師を帥い、神呪寺(摂津国)に次す。細川高国を納る。冬十月。

〇春王正月、勅使大外記清原良雄朽木におもむく。将軍家大納言に任じたまう。時に二十歳。

〇夏、三木別所上洛して柳本をたのみ、伊藤を攻む。六月、柳本弾正忠陣所において、夜中にやみうちにあう。山城、丹波、摂州大いに忩劇す。このひまを伺って、播州西方の浦上掃部宗景兵を催し、束方にはたらき、別所が居城有田を攻取る。六月、北条氏網子息氏康(十六歳)上杉朝興と武蔵府中玉川の端、小沢原に相戦い、上杉敗軍し、難波田弾正、上田蔵人ことごとく逃亡す。

 細川高国人道道永、伊勢国にて名をかえ、常桓と号す。方々、流浪の上、出雲へうちこえ、尼子経久をたのむ。経久したがわず、播州、浦上をたのんで備前に来る。浦上そのころ、備前、播磨、実作を進退しければ、やがて領草し、〇八月、摂州神光寺に降す。晴元方伊丹(高畠甚九郎)、池田(池田筑後)、富松 (薬師寺三郎左衛門国盛)各籠城して相戦う。薬師寺うらぎりして、常稙にしたがう。これによって、晴元方危し。晴元三好筑前守元長を招かる。元長したがわず、晴元さまざまに申しなだめて、元長ついに同心し、やがて阿波より出勢すべきにきわまれり。高畠がまもれる伊丹城つよく守り相支つ。

辛卯十年(享禄四年 1531

〇春王正月、公朽木に在り。二月、三好基長師を帥いて堺浦に著す。

〇三月、基長兵を率いて住吉(摂津国)に次す。

〇夏六月、細川晴元、三好基長兵を率いて細川常桓(高国剃髪して常桓と肯す)と大いに天王寺に戦う。常桓兵敗続す。常桓尼崎(摂津国)に自殺す。

〇秋七月、木沢長政(左京亮)その君畠山政国(上総介)に叛く。細川晴元、長政を緩く。冬十月。

〇春王二月、三好元長、堺に着いて晴元を守護す。同月伊丹城和平す。

〇三月、池田城落つ。同十日、常桓堺をせむべきとて、先陣すでに住士ひに陣する処、堺より逆よせして、常桓利をを失って、中島に引退く。浦上は野田、福島に陣をはる。同二十五日、細川讃岐守政之、阿州より堺に着す(其の勢八千なり)。畠山が家臣木沢左京売長政、晴元に降す。晴元方大軍になりければ、三好基長兵を住吉に出す。このころ赤松浦上に父を殺され、憤を含みければ、幸を得て暗元に属し、浦上をうたんとす。浦上が勢赤松出張をきいて、我も我もと赤松にしたがえば、浦上もってのほかに無勢なり。

〇六月四日、三好基長天王寺へ出張して大いに戦い、常桓方伊丹兵庫助国扶、河原林日向守、薬師寺三郎左衛門、波々部兵庫助うち死す。播磨勢浦上掃部、島村弾正以下うち死す。常桓尼崎にかくれ忍びけるを、三好山城守一秀おし寄せ、同月八日、尼崎大物広徳寺にて自殺す。島村弾正敵二人を左右にわきはさみ海に入って死す。その霊蟹と化す。世に島村蟹と云うはこれなりとぞ。

〇八月、木沢左京売、主人畠山上総介を背に付け、畠山これを攻め、晴元木沢に合力、摂州中島三宝寺に兵をすすむ。畠山は晴元が姉婿なり。不義の臣を愛して、親緑をすつること家の滅ぶべきほしなり。木沢侯紆をかまえ、よりより三好筑前守基長我意をほしいままにすることを讃す。

壬辰十一年(天文元年 1532

〇春王正月、公朽木に在り。三好一秀(山城守)師を帥いて京師にゆき柳本某(甚四郎)を伐つ。三月、公朽木よりかえる。夏五月、畠山(上総介)師を帥いて飯森城(河内国木沢長政これに居る)を攻む。

〇六月、木沢長政その君畠山昭高を拭す。細川晴元、三好基長を殺す。本願寺(山科)細川晴元に背く。

〇秋八月、晴元を本願寺(山科)に放火す。

〇冬十月、賊南京に放火す。

〇春王正月、三好山城守一秀、三千余の兵を率いて上洛し、柳本甚次郎が三条の宅に押寄せて自殺せしむ。これ先年の憤を散ずるがためなり。晴元大いに怒って、三好基長を課すべしと議せらる。基長あやまりなき旨を申開かんため、剃髪して閑雲と号し、晴元の弟讃岐守政之をたのむ。政之執すといえども晴元同心せず、政之憤って阿州に下向す。

〇三月、将軍家朽木より入洛、細川右京大夫晴元管領たり。夏五月、畠山上総介、木沢が飯森城を攻め、三好遠江守も助力す。晴元より山科の本願寺をたのみ、則ち摂州大坂に下向す。近国の門徒相繁り、六月飯森の後巻畠山勢悉く敗北す。三好打死、直ちに畠山が高屋城を攻めて、畠山、石川道場へ逃亡し、高屋城没落す。つづいて石川道場をとりまき、畠山自殺す。

〇二十日、三好基長が居る処、堺の南庄におしよせて取巻き、元長本願寺に退く。阿波公方養親卿もこの寺におもむき、寄手四方より取寄せければ、筑前守基長自殺、自らはらわたをつかんで、寺の天井になげかけ、岡山城守、塩田若狭守父子三人、加地丹波守等悉く自害す。義親卿もすでに自害の処、晴元方その刀を奪い、堺四条の道場へうつれり。その後、晴元方本願寺と不和でき、摂州、泉州、河内、大和の一揆即時に起り、晴元が堺の館をとりまく。木沢自身戦って本職寺方敗北、晴元京の法華宗ならびに江州の佐々木を示合せ、

〇八月、山科の本願寺を焼払う。僧俗尼女財宝ことごとく亡失す。

〇冬十月、一揆南都僧房へ取かけ放火す。

〇十二月、斎藤五郎左衛門尉正秀越前に帰国す。斎藤はもと越前の侍なり。近年年々す。今年佐々木六角方朝倉孝景をたのみ、ついに帰国す。

癸巳十二年(天文二年 1553

〇春王二月、賊兵を帥いて堺(和泉国)にゆき、細川晴元を伐つ。晴元淡路国に逃る。

〇夏四月へ 細川晴元池田城(摂津国)にゆく。賊大坂(摂津国)に拠る。

〇五月、晴元大坂城の賊を伐つ。

〇秋九月、細川晴元賊と撃つ。

〇冬十月、星大いに隕(イン おちる)つ。

〇春正月元日、一揆ども再発。尼崎大物ノ浦に松井越前守がたて籠れるをおし寄せて打取る。

〇二月、晴元が堺の宅を取巻き大いにこれを攻む。晴元忍んで淡州に退居。

〇三月、一揆伊丹城をせめ、尼女小童まで集り、堀をうめ攻衆に加わる。木沢また京中の法華衆をかたらい後攻す。一揆大いに敗る。

〇夏四月、晴元淡州より池田に入城。すなわち堺の一揆退治に取かかりければ、本願寺衆の大坂へ取入るなり。

〇五月、晴元木沢が兵をもって大阪本願寺といえどもかなわず、和平して退く。しかりといえども九月、十二月にて、なお四方の一揆たびたびの取合なり。

甲午十三年(天文三年 1554

〇春王正月、月読の官災す。夏大いに疫あり。秋七月、冬十月。

●織田信長生まれる。

〇甲午十三年(天文三年)秋八月、三好伊賀守、同久助、本膳寺に一味して、晴元へ敵対し、合戦度々におよぶ。その後あつかいになって、両人晴元へ降す。今年より、表方少し衰えて、四方の取合しばらく静なり。公朽木民部少輔稙綱を申次たらしめ、参内の時は御剣の役せしむ。

● 今年、織田信長生まる。織田はもと斯波尾張守高経に属し、貞治、明徳のころより家臣の列たり。応仁のころは織田、朝倉が威、武衛に減ぜず。後に尾張の守護同意になって代々織田大和守と号し、清洲に在城して威を振う。信長の父備後守信秀は、大和守が一族たり。信秀武威盛んになって、大和守と相戦いついに大和守を退治す。

乙未十四年(天文四年 1555

〇春王正月、夏四月朝倉孝景に塗輿に賀すことを免ず。朽木植綱(民部大輔)申次に補す。天王、官を義桓に贈る。秋七月、冬十二月源清康卒す。

〇夏四月、公朝倉孝景に内書を賜り、塗輿に乗ることを御免。同月申次七人を定む。朽木稙綱も加わるなり。同月恵林院義植に、太政大臣従一位を送らる。

●冬十月。松平清康卒す。清康は松平蔵人信忠の子なり。信忠隠居して三州安祥を清康にわたせり。清康十三歳にして、父の跡を継ぐ(大永三年)。信忠同州大浜に隠居(享禄四年卒)。然るに同州岡崎は、先祖松平太郎左衛門尉泰親(泰親は松平左衛門尉親氏の子なり。親氏はじめ徳阿弥を號す)築きたまう所の城なり。このころは松平弾正左衛門尉居住し、あまつさえ山中に要害をかまえ、近辺を押領して清廉にしたがわず。大久保五郎右衛門尉忠俊、山中の要害を忍とりにす。これによって、弾正左衛門尉力を失い、ついに和睦し、おのれが女を清康に嫁せしめ、即ち岡崎をわたす。これによって西三河過半清康に属す。その後、清康武威を三州に振う所、松平内膳正信定(信忠弟清康伯父、上野桜井城に在り)清康へ逆心す。そのころ、清康の家臣阿部大蔵元真もっとも権威あり。これによって、義人しばしささえ、阿部内膳へ内通の沙汰あり。大蔵子弥七郎を呼んで云いけるは、我無実の讒(そしり)にあう。もし生害におよばば、汝山林に引込り、誤なき旨を陳すべしとて、すなわち誓紙を調えこれにわたす。十二月五日、森山の陣中において、馬を取放し、大いにさわぐ。弥七郎父生害におよぶかと疑うて、すなわち本陣にかけ入り、清康を害す。植村新六郎弥七郎を殺す(村正の力をもって清康を弑す云々)。父大蔵これをきいて自殺せんとす。各これをとどめ、諸卒岡崎にかえる。その後、弾正、内膳正と示合せ、岡崎に働き、城兵出て戦って、城おちず、後和睦す。






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最終更新日  2021年09月13日 19時21分40秒
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