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2021年09月13日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

『武家事記』足利氏の項抜粋(3)天文五年~

〇春王二月、天王即位の礼を行ぅ。天王、藤原兼秀(中納言)をして周防国に樗せしめ、大内義隆を大宰大弐に任ず。

❖三月、公諱字を武田晴信(信虎の子)に賜る。

●秋七月、叡山衆徒京師の法華寺に放火す。

●八月、三宅国村(出羽守)、細川晴国を殺し、晴元に降る。

❖冬十二月、武田晴信師を帥いて海(野)口城(信濃国)を撃つ。城陥る。

〇春王二月、大内義興が子左京大夫義隆御即位の料を進上して、主上御即位の礼を行わる。公家武家零落してければ、主上御即位すでに十余年なりといえども、大礼今年まで延引す。義隆執し申に付き、その貴として中納言兼秀を勅使として、周防国へ下され、大宰大弐に勅使ありしとなり。

●三月また一揆蜂起、西難波を攻めて、三好伊賀守没落す。伊賀守木沢を頼み、信貴城に籠れり。

❖同月、甲州武田晴信元服(十六歳)、将軍家御諱字を賜い、信膿守大膳大夫に任ず。

●秋七月、法華衆狼籍に付き、山法師をこうて、法華寺二十一カ処を焼き、憎等一千余死す。京中食劇やまず。

●今年、細川高国人通常桓が子、八郎晴国、三宅出羽守国村が助力によって、本願寺に一味し、晴元を退治すべく張行の処、一揆方がよわく事難儀に及べり。

●八月三宅国村、晴国兄弟をころし、おのれが罪を謝し、晴元へ降参、不義無道の重なり。これによって世上先ず静諾す。

❖冬十一月二十一日、武田信虎八千の兵をもって信州海野口の城を改む。およそ三十余日、年迫り殊に大雪ゆえ、甲府へ兵を入る。その時、子信膿守大膳大夫晴信(時十六歳)殿(でんがり)をのぞみ、わざと跡にさがり、わずか三石

ばかりにて、海野口ヘもどり、これを攻落し、城主平賀源信戦死す。

●豊臣秀吉生まる。尾州愛智郡中村の凡家に生まる。弘治二年、二十歳にして遠州住人松下加兵衛に仕え、両年にして旧国へ帰り、永禄元年九月朔日、信長へ直訴して是に仕う(或は云う、筑阿弥の子、幼にして小筑と云う)。

丁酉十六年(天文六年 1557

●春王正月。夏四月、上杉朝興(扇谷修理大夫)卒す。五月、源広忠卿岡崎城に復帰す。

●秋七月、北条氏綱師を帥いて上杉氏を河越(武蔵国)に破り、河越城ついに陥る。上杉朝定松山城(武蔵国)に出奔す。

●冬十月、北条氏綱師を帥いて濾義明(右兵衛佐)および里見義弘と鴻台(下総国)に戦う。義明戦死す。氏桐生実を滅ぼす。十二月、孛(ぼっ)す。

●夏四月、上杉修理大夫朝興卒す。子息五郎朝定十三歳、父の遺命にまかせ、北条氏綱を退治せんことを議す。氏綱これを聞いて、七月に河越城によす。朝定が伯父左近大夫朝成、曾我丹波守等出合って戦い、朝成いけどられてければ、河越落城して、朝定は家臣難波田弾正が松山城に入る。これより扇谷上梓

家ついに本意をとげず。ここによって松山城も山内憲政と一味して北条を伺う。

天文六年(1537

〇春王正月。夏四月、上杉朝興(扇谷修理大夫)卒す。

〇五月、源広忠卿岡崎城に復帰す。

〇秋七月、北条氏網師を帥いて上杉氏を河越(武蔵国)に破り、河越城ついに陥る。

〇上杉朝定松山城(武蔵国)に出奔する。

〇冬十月、北条氏綱師を帥いて源義明(右兵衛佐)および里見義弘と鴻台(下総国)に戦う。義明戦死す。氏綱生実を滅ぼす。十二月、星歿する。

〇夏四月、上杉修理大夫朝興卒する。子息五郎朝定十三歳、父の過命にまかせ、北条氏網を退治せんことを議する。氏綱これを聞いて、七月に河越城によす。朝定が伯父左近大兵朝成、曾我丹波守等出合って戦い、朝成いけどられてければ、河越落城して、朝定は家臣難波出弾正が松山城に入る。これより扇谷上杉家ついに本意をとげず。ここによって松山城も山内憲政と一味して北条を伺う。 

●冬十月、総州鴻台において、北条氏網、生実右兵衛佐義明と戦う。義明の旗下里見義弘以下うち負け、義明自殺す。義明は古河の政氏子高基畑の弟なり。兄弟不和に付き、奥州に退去。そのころ下総生実の城主は原二郎とて、すなわち下総国の守護、千葉介が家臣なり。

❖上総の守護は武田豊三、真里谷三河守なり。原二郎これと所領を論じて戦におよび、千葉介原をたすけければ、毎戦武田等敗す。これゆえに、武田方より義明を奥州より招いて大将とす。上下総州安房国とともに皆義明の下知に付き、三年の問の戦に原敗軍し、義明生実へうつり、俗に生実の御所と称す。

原が家臣高城越前守父子等みな没落して、両国の原が一味、および安房の里見義弘もこれが命に従う。古河高基卿の子息晴氏卿は、北条氏綱が軍なり。晴氏内々氏綱をたのんで、生実誅伐の志ありければ、この戦によって生実御所を滅亡す。

『武家事記』 天文七年(1538

春王三月、武田晴信、今川義元(上総介)に議し、その父信虎を駿河国に逐う。

《註》この記事は間違い。正しくは天文十年の事。

天文 十年 1541       6月14日【武川/勝山記

・寛政重修諸家譜】

信虎が晴信の為に駿河に退隠される。この時柳沢信景が信虎に随行する。

天文 十年 1541       6月【戦国】

信濃小笠原長時、諏訪頼重とともに甲斐武田晴信と同国韮崎に戦い、敗れる。

天文 十年 1541       6月14日【妙法寺記】

此年、六月十四日に武田大夫殿様(晴信)、親の信虎を駿河国へ押申候。余りに悪行を被成候間加様被食候。去程に地下侍出家男女共喜致満足候事無限。信虎出家被成候而、駿河に御座候。

晴信、父信虎を駿河に追放。【山梨】

天文 十年 1541       6月14日【高白齊日記】

六月十四日、信虎公、甲府御立駿府へ御越。至今年無御帰国候。於甲府十六日各存候。

天文 十年 1541       6月14日【王代記】

武田信虎六月十四日、駿州に御出、十七日巳刻晴信屋形ヘ御移。一国平均安全ニ成。

武田信虎、子晴信に追われ、駿河の今川義元を頼る。

 

●夏四月。秋七月、小笠原長時、評訪頼茂師を帥(ひき)いて甲州に入る。

❖武田晴信師を帥いて韮崎(甲斐国)に撃つ。長時、頼茂敗績す。冬十月。

❖戊戊十七年(天文七年 1538)、武田晴信、今川義元と内通。

三月九日、父信虎駿河へ赴くあとにて、板垣信形、飯富兵部をかたらい、同十七日逆心を企て、信虎供の兵士の妻子を人質に取かたむ。これより信虎ついに甲府へ帰ることを得ず。

●秋七月、信州諏訪頼茂、小笠原長時(深志城主)九千六百の兵を率い、甲州韮崎に働く。(韮崎合戦)

❖〇武田晴信と一日に四度の戦あり。甲州勢わずかに六千、戦危うかりし所に、原加賀守地下かまり(忍びの斥候)に紙小旗竹鎗を持たせ、五千ばかりにて合戦場へ押来るを見て、諏訪、小笠原悉く敗軍、晴信十八歳の時なり。原美濃、横田備中、多田三八各戦功あり。

❖己亥十八年(天文八年)春王正月。夏六月、公(足利義治)八瀬里に遜る。朽木植綱供奉す。

❖板垣信形(駿河守)、飯富信昌(兵部少輔)兵を帥いて村上義清、諏訪頼茂を伐つ。

❖秋八月大水。冬十一月、板垣信形、武田晴信を諷諌す。

〇己亥十八年(天文八年)夏六月、京都ぶっそうについて公および若君八潮の里へのがれさせたもう。朽木民部少輔植綱供奉して守護し奉る。

●同月、村上義清、諏訪頼茂が兵甲州へ働入り、村上は若見子筋より押寄せ、諏訪はたいか原(台ケ原)筋より押寄す。

❖武田方飯富兵部、若見子へ向い、板垣信形諏訪口ヘ相向い、武田方各勝利を得。

❖今年、武田晴信酒色に惑い、詩を作り文をかき、甚だ武義に怠る。板垣信形わざと詩文を学んで、しかして十一月朔日晴信を諷諌す。晴信前非をしその諌めにしたがう。

天文 八年 1539  6月【甲陽軍艦】

●(略)信州方は、甲信両国の国境に砦を構え、やがては甲州へ侵入しようとの準備を整えて、村上義清勢は、若神子筋の境、諏訪勢は台ケ原筋へと、それぞれ千四五百づゝの軍勢を向けてきた。

●晴信公の側からは、若神子筋には、飯富兵部が八百騎を率いて進撃し、村上勢と対戦。諏訪地方には板垣信方がこれも七百騎で出撃した。

●六月二十日辰の刻、飯富兵部の軍を防戦に勝利し、村上勢の雑兵九十七人を討ち取った。これは念場、野辺山という場所でのことである。

●また板垣信方は、同月二十三日巳の刻(午前十時)、蔦木(富士見町)において防戦に成功、諏訪勢の雑兵百十五人を討ち取った。云々

庶子十九年(天文九年 1540

❖春壬正月、武田晴信師を帥いて村上義清と海尻(信濃国)に戦う。義清敗北す。

●二月、村上義清帥を師いて古阿良末(信濃国)を放火す。

❖武田晴信師を帥いて夜これを襲う。義清敗走す。

〇夏四月。秋九月、尼子晴久師を帥いて郡山城を攻め、毛利元就師を山口(周防国大内居城)に乞う。

〇冬十二月、陶晴賢(尾張守)師を帥いて郡山にゆく。

❖庚子十九年(天文九年)春王正月十六口、武田晴信が兵将板垣信形、信州海尻の城を味方に引付け、小山田備中守これを守る。

❖同晦日、村上義清が兵来って城を攻め、晴信来って後詰し、村上が兵を討つこと三石余、村上大いに敗す。

●二月、村上義清が兵、清野、高梨、井上、隅田、四頭三千余の兵を以て、信州於古阿良末(おごあらま)に来り焼働きす。

❖十八日の夜、武田晴信師を帥いて夜これを襲いうつ。頸を得ること有余。

《略》

壬寅二十一年(天文十一年 1542

●春王正月、三好長房師を帥いて木沢是政と落合川(河内竪に戦う。長政戦死し、耶大いに潰ゆ。

❖武田晴信師を帥いて、小笠原長崎、諏訪頼茂、村上義清、木曽義高を瀬沢(甲信封域)に克つ。

❖閏三月、武田晴信師を帥いて村上義清と平沢(甲信封城)に戦い、義治が師敗る。

〇夏四月、北条氏康新たに大鳥居を八幡宮(鶴ケ岡)に遣る。

〇五月、大内義隆師を帥いて富田城(出雲国)を攻む。尼子牌久これを伐つ。義隆敗北す。毛利元就師を帥いて殿たり。

❖六月、武田晴信師を帥いて諏訪郡(信濃国)に入り、放火す。

❖秋八月。冬十月、武田晴信師を帥いて大門峠に決す。

〇小笠原長時、村上義満、兵を帥いてこれを伐つ。長峠、義治敗走す。

〇十二月二十六日壬寅、神君(徳川家康)岡崎(三河国)に生る。

●壬寅二十一年(天文十一年) 小笠原長時、諏訪頼茂、村上義治、木曾義高、四将甲信のさかい瀬沢に出張す。

❖三月九日、武田晴信出でて相戦う。辰の刻より午の刻まで、三崎に九度の戦あり。四将敗北、頸を得ること千六百。

●閏三月、村上義清が兵、甲信の境平沢に陣をとる。武田晴信この告をきき、十九日の夜うち立ち、二十日に平沢につき村上が兵をことごとく追払う。

❖六月、武田晴信、信州諏訪郡へ出張して、高鳥の諏訪左馬介が居館の門際まで放火す。諏訪頼茂が居館ねごやを焼き、頼茂出合わず。

❖冬十月、武田晴信兵を率いて、信州大門峠に出張し、村上、小笠原一方余を率いて二十三日相戦う。巳の刻より初め、午刻におわる。武田晴信勝利を得。

〇十二月二十六日、源君家康公、三州岡崎に御誕生、清和天皇より二十六代の御苗裔八幡太郎義家の嫡孫、贈鎮守府将軍新田大炊助義軍の男、狩川義秀十六代、贈大納言広忠卿の御子なり。広忠卿岡崎に遠住の後、水野右衛門大夫忠政が女を娶り、その御腹に源君御誕生。その後、広忠卿戸田弾正(三州田原城主)女をあらため娶る。忠政の女久松佐渡守(水野家臣)に再嫁す。伝通院これなり。

癸卯二十二年(天文十二年 1543

〇春王正月。夏四月。秋七月、細川氏綱兵を率いて堺(和泉国)に入る。松浦(肥前守)と大戦し、氏綱の兵敗走す。

〇八月、三好長慶兵を率いて泉州に次す。

〇九月、上杉憲政兵を率いて源晴氏に会し、河越城を攻む。

〇冬十月、三好長慶兵を率い細川氏綱と横山(和泉国)に戦う。氏綱の師敗す。

❖十二月、武田晴信師を帥いて信州の数城を陥る。

〇癸卯二十二年(天文十二年)秋七月、細川常桓が子二郎氏納を和泉の侍玉井と云うもの取立て晴元に赦し、堺へ取入る。芦原口にて松浦肥前守これを支え、大いに戦う。氏綱方敗北。三好範長、晴元の命によって、八月十六日氏綱を諌伐のため堺におもむく。

〇冬十月十二日、氏綱泉州横山の戦に利なくして引退く。

❖十月下旬より武田晴信信州に出張し、十二月下旬まで小城九つ陥るなり。

 

甲辰二十三年(天文十三年 1544

●春三三月、諏訪頼茂甲州に降る。

❖武田晴信、諏訪頼茂を殺す。

〇夏四月、北条氏康師を帥いて夜上杉憲政を襲う。憲政の師敗績す。

〇秋七月大水。九月、織田信秀(弾正忠)および浅倉教景師を帥いて斎藤正利(山城守)と稲葉山(美濃国)に戦う。信秀の師大いに潰ゆ。冬十月。

❖甲辰二十三年(天文十三年)春王二月、板垣信形がはかりごとゆえ、諏訪頼茂和談を入れ、武田晴信に降す。

❖三月頼茂甲州に出仕せり。晴信ひそかに萩(荻)原弥右衛門尉にいいつけてこれを生害す。

〇河越夜軍

武州河越の城には、北条が家臣左衛門大夫綱成(後に上総守と改む)楯籠る。上杉憲政八万の兵を以て、去年九月よりとりつめ、これをせむ。古河晴氏上杉が催促に応じて出勢す。北条氏康後攻をなさんと陣ぶれして、武州入間川の端まで再三出勢し、上杉が猛威におそれ小田原に引退く。上杉これをまことと心得、重ねて北条後詰と云えども出合うべからずと諸手に示合す。氏康忍を入れ、寄手の沙汰を詳らかにきき、しかして福島弁千代をひそかに城中へ使に入れ、内外示合せて、今年四月二十日、わずか八千の逞兵をすぐり、相印相詞むさだめ、上杉が陣に夜軍をしかく。上杉大いに敗れて、難波多弾正(古井に落ちて死す)、倉賀野三河守、本間近江守、小野播磨守打死す。城兵ついて出、寄手を追払う。氏康は松山城に兵を入る。これより上杉大いに北条をおそれ、北条家の持城に兵を出さざるなり。氏康軽部豊前守を以て、古河の公方晴氏へ専使として、今度上杉にくみせしことを責め訴う(晴氏は氏康妹婿なり)。世に河越夜軍と云うはこれなり(俗に天文七年七月十五日夜となす。

甚だ非なり)。

〇九月二十日、織田弾正忠信秀、朝倉金吾宗滴を加勢として二万余の師を以て美膿を伐つ。この時、永井秀元(又兵衛尉)大いに戦って信秀敗軍し、宗滴ようよう越前へ引入るなり(秀元は斎藤山城守弟なり)。

❖ 乙巳二十四年(天文十四年)春王正月、武田信繁(左馬頭、晴信弟)兵を帥いて諏訪を取る。

●❖夏五月、小笠原長時、木曽義高師を帥いて武田晴信と塩尻峠(信濃国)に戦

う。長時、義高敗北す。

〇秋七月、三好長慶師を帥いて関城(丹波国内藤備前守、新たにこれに城す。氏綱に質す)陥る。波多野某(備前守)を救う。冬十月。

乙巳二十四年(天文十四年 1545

❖春王正月、武田晴信の弟、左馬頭信繁大将にて、板垣信形、日向大和守を率し、信州諏訪に働き、長坂左衛門尉(後に剃髪し、長閑と号す)諏訪の大将れんぼを打ち、諏訪衆大いに敗北して武田に降る。すなわち、板垣信形を以て諏訪の郡代とす。晴信、頼茂が女(十四歳)を以て妾とす。(勝頼母)。

❖夏五月、武田晴信、信州に働く。

❖●小笠原長時、木曾義高両将にて信州塩尻において晴信と戦う。両将かかって相戦う。晴信勝利。

丙午二十五年(天文十五年 1546

❖春王正月。三月、武田晴信師を帥いて戸石城(信濃国)を攻む。村上義清大いに戸石に戦う。義清敗績す。

〇秋八月、細川晴元、三好長慶をして師を帥いて遊佐長教(河内守)をたしむ。長慶師を阿波国に召く。

❖冬十月、板垣信形、上杉の師を笛吹峠(上野国)に破る。

❖十一月、真田幸隆(弼正忠)村上義清の兵を誘い出す。

〇十二月、義輝卿坂本 (近江国) に元服す。

公、右近衛大将を兼ね、義輝卿征英大将軍(十一歳)に任ず。

❖丙午二十五年(天文十五年)春三月、武田晴信、信州小県に出張して戸石城をせむ。伊奈衆木曾小笠原後攻めのおさえに、弟左馬助信繁、小山田左兵衛、日向大和守、下の諏訪に陣どって塩尻口を押さえる。村上義清がおさえに、甘利備前守に足軽大将横田備中守、子彦十郎なり。

●❖村上義清六千余の兵を率いて先手五頭を甘利備前守が方へ押かけ、甘利、横田父子力戦して、備前守、備中守打死し、彦十郎深手を負う。

村上義清、晴信が旗本を押し寄す。

❖晴信が旗本の先勢大いに敗る。山本勘助が工夫を以て諸角豊後守(後備)が兵をつれ出て、敵を南にむかわしめ、ついに晴信が兵大いに勝ち、村上方をうちとること頸数百九十余なり。

〇遊佐河内守長教、氏綱方をいたし晴元に叛く。

〇八月、三好範長、堺にこえて戦い、範長が弟、淡路の安宅摂津守冬康、四国の兵を率し攻上る。晴元方山中又三郎、天王寺大塚に城をかまえこもる。河内衆これを攻む。

〇九月、安宅の兵後攻す。ここに三宅出羽守、池田筑後守、晴元にうらがえり、氏綱へ帰す。されば天王寺城もあけわたす。しかるに伊丹二郎親興、無二に晴元へ味方いたし、晴元伊丹に忠感に入るのあまり、よいに兵庫頭に任じ、暁に大和守に任ず。面目のよし汰沙す。

●❖冬十月、上杉憲政が下の諸大将武州忍の成田、武州深谷の左兵衛尉、上田又二郎、箕田五郎左衛門、新田、館林、漸、山上、そのほか上州の諸将、都合二万ばかりにて、笛吹峠に出張して武田晴信をうたんと擬す。

❖このとき晴信病気ゆえ、名代として板垣信形出向い、上杉がたの兵を伐ち、諸将ことごとく敗北す。

❖武田晴信が家臣、東田弾正忠幸隆(小名小太郎、剃髪して一徳斎と号す)家人測(洲)野原若狭守、同惣左衛門尉、兄弟をかたらい、真田城に招入れ、

悉くこれを害す。真田は渋野の姓、十一月、村上義清が兵五日をひそかに幸隆計策のごとく、城中の門を打ってこれによって村上が武威日々に衰う。

本名は海野なり。弾正忠幸隆、真田の庄に居て、はじめて真田を名氏とするなり。幸隆は源太左衛門信綱、安房守昌幸が父なり。

〇十二月、将軍家義輝卿(初名義勝)をたずさえ、坂本におもむきたもう。日吉神主樹の下が宅において御元服の儀あり。佐々木弾正少弼定柏管領代として加冠をつとむ。すなわち征夷大将軍をゆずらる。義輝脚十一歳、政務は前将軍家なおこれをつとめたもう。このころ管領晴元は堺に在住し、五畿内日々の戦に京都物愈なるをもって、坂本にて執行したもう。






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最終更新日  2021年09月13日 19時25分01秒
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