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2021年09月13日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

『武家事記』天文十七年(1548)~

 

〇春王正月、公坂本に在り。細川晴元、遊佐長教と成らぐ。三月、朝倉孝景卒す。

〇夏五月細川晴元、池田某(筑後守)を殺す。

●六月、長尾景虎師を帥いて小児(信州)に次す。

❖武田晴信師を帥いて蒞んで降す。

〇公および義輝卿坂本よりかえる。

〇秋八月、三好長慶軍を率いて三好宗三を伐つ。宗三江波城(摂津国)に逃奔る。

〇冬十月、三好長慶、細川晴元に背く。大内義隆従二位に叙す。

〇戊中二十七年(天文十七年)春、細川晴元と河内衆和談になれり。およそ晴元、河内衆と相戦うこと今年まで三年なり。

〇三月二十二日、朝倉孝景頓死、孝景は義景が父、天沢寺貞景が嫡子なり。英林寺孝景より四代目なり(朝倉孝景二人とれあり)。

●同月十九日、三州小豆坂において、織田信秀(弾正忠)と今川義元と相戦う。この戦に朝比奈三郎最前に馬を入れ、太刀討戟功あり、義元感書を与う。

夏五月、池田筑後守、細川晴元へ降参す。

〇五日、池田出京の処、晴元これを殺害せしむ。池田は代々細川へ忠勤をつくすといえども、こたび筑後守、晴元をそむき、細川氏綱にしたがう。不義に付いてかくのごとし。しかれども筑後守は三好宗三が婿なるをもって、筑後守子、相違なく池田を賜るなり。

●❖六月、長尾景虎、信州小県へ出張し、武田晴信と対陣。四日より十六日まで在陣し、景虎引きとるなり。

〇細川晴元、河内衆と和睦の上、世間静謐に属しければ、六月、公および義輝卿、江州坂本より帰京したまう。上方すでに静譜におよぶ処、八月三好筑前守長慶、同名宗三を課すべきになれり。宗三は三好神五郎政長なり。この者讒候を以て、先年晴元長慶が父基長を誅す。長慶止むをえずこの十余年憤をおさえて晴元にしたがい、宗三にしたしめり。長慶このころ武威さかんにして、ことに豊前守之康、安宅摂津守冬康、十河讃岐守一存は長慶が弟にて、いずれも勇武抜群のものどもなり。宗三は父の仇同意なれば、宗三ならびに子息右衛門大夫政勝ともに死罪に行うべし、しからざれば晴元にも恨を云って、氏綱を取立つべきと結構す。これによって宗三は千石衛大夫政勝が榎並城に入る。

 冬十月、三好長慶と宗三と、互いに闘争におよぶ処、細川晴元、三好宗三を授け、河原林対馬守を榎並の城へ加勢あり。これによって三好長慶、晴元をそむき、氏綱を家督たらしめんと遊佐河内守長教に相談す。遊佐これにしたがう。

●今年、大内義隆従二位に叙す。

己酉二十八年(天文十八1549

〇春王二月、三好長慶師を帥いて、遊佐長教に会し、尼崎に次す。

●三月、織田平信秀卒す。源広忠脚卒す。

●三好長慶師を帥いて三好宗三と中島(摂津国)に戦う。宗三の師敗れて中島城陥る。長慶江披城を攻む。

●今川義元、憎雪斎(臨済寺長老)、朝比奈泰能(備中守)をして師を帥いて安城(三河国、信長庶兄三郎五郎信広、安城を守る)を攻めしむ。城堅守す。❖夏四月、武田晴信の兵小笠原が兵を伐つ。

❖五月、自気天にわたる(旗雲と曰う)

●❖長尾景虎、師を帥いて武田晴信と海野平(信州)に対陣す。

〇六月、細川晴元、佐々木義賢に会して師を帥いて三好宗三を救う。晴元三宅城に次し、義賢山崎に次し、三好長慶師を帥いて宗三と江口(摂津)に戦う。宗三戦死す。

●晴元京師にゆき、公、義輝と坂本に遜る。

●秋七月、三好長慶京師にゆく。八月、長慶師を帥いて伊丹城(伊丹大和守親興これを守る)を攻む。

❖九月、武田晴信師を帥いて上州の諸将を三寺尾(上州)に破る。冬十月、中尾山に築く。

●十一月、神君(徳川家康)駿河国にゆく。

〇春王正月十一目より、三好長歴と同宗三と両方の軍勢戦はじまれり。長慶方は河内一国摂州、三宅出羽守、芥川孫十郎、入江、茨木孫二郎、安威弥四郎、四郡には池甲原田、河原林孫四郎、有馬西の岡の鶏冠出(かいで)、同物集女(もすめ)、丹波の内藤備前守、播州に衣笠兄弟、泉州に松浦肥前守、阿波、讃岐、淡路なり。三好長慶越水より兵を出して伊丹を放火(伊丹大和守親興、細川晴元にしたがう)。

●二月、宗三方より池田を放火。

●同十八日、三好長慶堺に至って遊佐河内守長教と示合せ、中島、榎並両城を攻むべきの相談あり。しかして二十六日尼崎に出張す。

●三月三日、織田弾正忠信秀病死。歳四十二、桃厳と号す。子息信長相続す。父信秀より平手中務大輔清秀を傳とす。三月六日、増大納言源広忠脚病死、二十四歳。その歳、片目八弥と云うもの広忠卿をついて(村正脇指)逃ぐを、植村新六郎家政引くんで堀へころび、ついにこれを仕とむるなり(新六郎、父新六郎清康を阿部弥七郎突殺し退くを、十六歳にて打留るなり)。

●同月、三好長慶が兵中島に出張し、宗三が兵と戦う。宗三兵敗れて三好加介、河原林又兵衛尉戦死す。これによって中島城をあけのく。三好長慶中島を攻とり、直ちに榎並へおしよするなり。

●同月今川義元、雪斎和尚、朝比奈備中守泰熊を大将として、三州安城を攻め、城主織田五郎三郎信広かたく守る。かつ、尾州より後攻あるときこえければ、雪斎下如して、城をば今川方の加勢せしめ、三州勢は後ぜめをふせがしむ。城堅く守りけるゆえ、今川が勢岡崎へ引入る。

❖夏四月、武田晴信、信州伊奈に出勢し、保科弾正降参す。しかして、木曾筋島井峠まで放火す。松本筋より小笠原が兵千五百余出騙し、武田晴信が兵と戦って、長時が兵敗北す。

●❖五月三日、幡雲立つ。旗の本南なれば、細川氏綱方勝利あるべしと云う。同月、長尾景虎信州海野平へ出張して、武田晴信と対陣し、景虎軍使を以て戦を請う。晴信云わく、景虎村上にたのまれ出勢のことなれば、その方より合戦をはじめらるべしと返答なり。しかして景虎兵を入る。

●細川晴元、三好宗三をたすけんため、江州佐々木義賢を示合せ、六月摂州に下向す。佐々木義賢も山崎に陣をはる。六月十七旦二好宗三、三宅城(香西与四郎在城、五月晴元この城忙入る)より中島の江口ヘ出張し、三好長慶三宅と江口の通路をとめよとて、十河民部大輔一存、安宅摂津守冬康兵を率して、別府の川ばたに陣をはって通路をとむ。二十四日一戦におよばずして宗三方敗北。三好宗三をはじめ八百余人戦死し、榎並城もこたえずして明退く。細川晴元三宅城をおちて丹波路より京に入り、佐々木が兵山崎より江州へ引入るなり。晴元京都にもたまりがたく、すなわち公および義輝卿をともないまいらせ、江州坂本にのがるるなり。細川右馬頭晴賢、同播磨守元常および佐々木義賢供奉す。二十八日、常在寺を御旅館とす。

●秋七月、三好長慶上洛して、京都を取かため、松永弾正久秀を京都にのこし、それより摂州にこえ、八月四日より伊丹の城をとりまき、向城をかまえこれをせむ。城かたく守る。

❖八月、武田晴信上州出勢す。上野の諸将安中越前以下九頭、六千の兵を以て三寺尾にて九月三日戦をはじむ。上州勢悉く敗北す。

〇冬十月、公中尾山に要害をかまえしめたまう。十一月今川義元兵を発して、三州安城を攻めしむ。寄手大いに力戦し、尾州の加勢平手が陣やぶれてければ、八日城の二の郭せめやぶられ、本城ばかりになって、城主織田三郎五郎信広なお堅く守る。平手和を乞うて、三郎五郎と源君(家康)と人質がえにせんことを云う。これによって同九日城をあけ、三州衆うけとり、源君はすなわち駿河へ人質として出御すなり。天野三郎兵衛等供奉す(源君時忙八歳)。

〇十二月公御不例、上池院紹胤御薬を献ず。

庚戌二十九年(天文十九年 1566

〇正月、公坂本に在り。

三好長慶師を帥いて伊丹城を攻む。二月、如意嶽に築く。三月、公穴太に遣る。伊丹雅興(大和守)、三好長慶と成らぐ。

〇夏五月、公穴太に薨ず。天王、左大臣従一位を贈る。義輝卿比叡辻宝泉寺に透る。

●長尾景虎師を帥いて、武田晴信と佐久県(信州)に対陣す。

〇六月、遺物を禁中に献ず。天王、清原枝賢(大外記)をして穴太に喭(とむら)わしめ、除服の宣旨を義輝卿に賜う。

●秋八月大水。

●❖九月、武田晴信師を帥いて小笠原長時を伐つ、長時の師敗る。

●❖長尾景虎師を帥いて武田晴信と海野平に対陣す。

〇冬十月、陶晴賢(尾張守)富田を以て、其の君大内義隆に叛く。

〇春王正月、御不例、次第に重くして、佐々木弾正少弼定頼等叡山において御所福を修す。

〇二月、三好長慶伊丹を攻むべきため諸勢を催すの処、遊佐河内守長教あつかいのことあって攻撃におよばざるなり。同月、公御不例不快に付き、諸医御脈をこころみる。祐乗三位法印端兆、竹田瑞竹軒定栄、宮内卿侍従浄忠、祐乗、泊部卿誘存等なり。みな験なく、半井宮内大夫明菜、上池院紹胤と他心なきよし誓書をなして、相談の上薬を献ず。

〇細川晴元、佐々木定頼公の仰によって城を如意嶽に築き、石がきをつき、堀をほり、要害をかまえしむ。三月、如意嶽の城にうつらせたまわんとて、六大の山中まで出御ありけれども、不例はなはだ重くして山中にとどまらせたまう。

〇二十七日、少々快気に付いて、新城に入りたまわんとする処に、伊丹大和守雅興、三好長慶と和睦して晴元をそむく。これによって細川晴元、公に乞う

てまず六大に滞留ましますなり。すなわち城兵どもに、法令三十余条を示したまう。

〇同二十八日、伊丹大和守雅興、三好と和して尼崎本興寺へ出合い、長慶に参会す。これによって二十九日諸勢みな引はらう。

〇夏四月、公御家人、上野民部大輔信孝、伊勢守貞孝、三淵掃部頭晴貞、飯川山城守信堅、大館左衛門佐暗光、摂津守元道等に、義輝卿輔佐の義を遺命あり。

〇五月三日、土佐刑部少輔光茂をめして御影をうつさしむ。同四日、江州穴太の山中に薨したまう。歳四十、法名道照、道号嘩山、万松院と号す。征夷大将軍大納言兼右近衛大将なり。同七日、左大臣従一位を贈らる。すなわち、棺を洛東慈照寺に移し、鹿苑院にて仏事あり。大館晴光剃髪して叡山に入る。御台所慶寿院落飾。二十一日、葬礼、松田対馬守盛秀奉行す。二十六日、中陰の仏事結願に勅使来り、法華妙典一部を贈らる。義輝卿は佐々木定頼子義賢、細川暗元がすすめによって、比叡辻の宝泉寺にうつりたまう。

●❖同月、長尾景虎信州佐久郡に出張す。武田晴信対陣、すでに相戦うべきの処、景虎みずから出て、さいはいを取り引入るなり。

〇閏五月四日、義輝卿和歌を詠め亡考を悼み、二十三日四十九日の結願おわり、魚味をこころむ。高和泉守名代として北野の石の鳥居に参詣。六月二

十一日、義晴公の遺物を禁中に奉らる。伊勢守貞孝使者たり。諸公家各宝泉寺に至って拝礼あり。二十六日、除服の宣旨あり。大外記清原の枝賢、宝泉寺へ持参す。刑部卿阿倍有春参上して、吉服に改め奉る。

〇秋七月二日、義輝卿御沙汰初め、松田丹後入道宗禅等奉行す。

❖●九月、武田晴信、信州に出張して小笠原長時と戦う。長時敗北す。同月、長尾景虎信州海野平に出張、武田晴信と九月二十八日より十月十日まで対陣し、景虎兵を入る。

〇大内義隆酒色にふけり、詩歌を弄び、武義政道をわする。近年京都兵乱によって、公家門跡そのほか舞楽にはまれあるもの悉く山口にあつまる。義隆いよいよ奢りをきわめ、遊興をこととす。家臣陶尾張守晴賢しばしば譲れども用いず、晴賢所労と称し開田の郷引込り、嫡子阿波守をのみ出仕せしむ。今年九月十五日、義隆八幡へ参詣の催あり。用意もっとも壮観たり。しかるに、相良遠江守と云う近臣、暗賢謀叛を企て、義隆を途中にてはからうべきよしを告ぐ。これによって、義隆にわかに参詣をやめ名代として古田右京売参詣。ことおわりぬ。晴賢、相良が謹言をきき、こと延引せば捕にせられんとておそれ、同十月、富田に楯籠る。その後、晴賢若山を城にかまえ、山口より襲来るときの要害とす。義隆なお酒色にふけり、遊覧をこととして、晴賢謀叛のことをことゝせず。

〇十一月十九日、三好長慶摂州より上洛して、東山を放火す。二十三日、大津松本を放火す。二十三日、長慶下国す。






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最終更新日  2021年09月13日 19時38分39秒
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