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2021年09月14日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

武田信玄はホモの達人だった

 

「甲斐路の男色道」

《『歴史と旅』昭和50年8月号所収 「ずいひつ 甲斐路の男色道」 小池藤五郎氏著》

 

中央線で甲府へ向う。高尾のあたりから旅心がうす緑に染まる。上野原、猿橋、大月と緑値深まる。甲府盆地を西南に見おろす勝沼につく。山の斜面をはらばう列車がいとしい。武田信玄の墓のある「恵林寺」の森あたりを右手に見て進み、笛吹川の「差出の磯」に続く赤松林は、荒々しい甲斐路には珍しく、女性的である。

このニキロ先、兜山を背にした春日井()村は、甲斐路の男色道にゆかりの地である。

茅岳山麓が郷里の私は、甲斐路の往復ごとに、悲運の英雄信玄の衆道(男色)の火照りと漢然たる意気地を思う。春日居村は美少年春月源助の住居、豊麗で雄々しい若衆姿は、浅くて濁り勝ちの女色と違い、澄み透る秋空のようだ。源助は信玄の寵童で、後に小諸城代から海津城守護に移り、武田軍の柱石である。

戦国時代から男と男とは、男色道で、一.心同体、生死を共にする結合をした。大小名と小姓、武士と武士、憎侶と稚児などの関係の者が多い。信長と蘭丸、信玄と源助などは代表的で、普通は兄弟として誓約書を取交す。

東大の史料編纂所には、二十二歳の信玄が、十六歳の源助に与えた誓約書がある。

武田家滅亡の折に、この方面はみな輿味があるので掠奪され、今日に伝わったのであろう。誠に珍しい史料なので、平易に書きなおしてみる。

 

「誓いのことば」

1、弥七郎に、男色をしようと度々申したが、「病気で体の具合が悪くて云々」と断られた。この事はうそではない。

1、弥七郎を伽として、余が床に寝かせた事はない。まして昼夜とも、彼と男色をした事などもない。特に今夜など、彼と男色をするなどとは、思いもよらない。

1、そなた(春日源助)と親しくしたい(男色の契約をしたい)ので、当方からあれこれすると、そなたはそれを逆に取って疑われ困る。理解してもらいたい。

1、右の条々がいつわりであったら、甲斐国の一の宮、二の宮、三の宮大明神、富士・白山、殊に八幡大菩薩、諏訪上下大明神の神罰を受けるものである。この「誓いの言葉」は、神々の保証した宝印の摺ってある起請の用紙に書くのだが、わが館の役人共の目がうるさいから、白紙に書いた。いずれ明日、本当の起請の紙に書いて与えよう。

七月五日 晴信

春日源助どの

 

《参考資料 甲府市史》

伽衆春日源助に起請文を与える

天文15年(1546)

誓詞之意趣者

一、弥七郎ニ頻々度々申候へ共、虫氣之由申侯間、無了簡候、全我偽ニなく候事。

一、弥七郎ときニねさせ申侯事無之候、此前ニも無其儀候、況晝夜共弥七郎と彼義なく候、就中今夜不寄存候之事。

一、別而ちいん申度まゝ、色々走廻候ヘハ、還而御うたかい迷惑ニ候。

  此条々いつわり候者、当国一二三大明神、冨士、白山、殊ハ八幡大菩薩、諏方上下大明神可蒙罰老也、仍如件

  内々法印ニ而可申候へ共申待人多候間、舌紙ニ而明日重而たり共可申候

(天文十五年カ)

七月五日晴信(花押)

春日源助との

(東京大学史料編纂所蔵・東京都)

〔解説〕

晴信が御伽衆であった春日源助に与えた三カ条の起請文で、内容は同じ伽衆の弥七郎を、夜伽に呼んだことはないというもので、従来より晴信の男色を示すものとして注目されているものである。

宛名の春日源助は『甲陽軍鑑』によれば、石和の大百姓春日大隅の子で、十六歳で晴信の近習とあり、後に士隊将に抜てきされた高坂弾正忠虎綱と同一人物としているが、高坂弾正は良質の文書では春日源五郎、香坂弾正忠とみえており、まだ検討の余地が多い。本文書の年代比定についても天文十一年との説もあるが、『史徴墨宝』(内閣修史局編)の解説に従って天文十五年かとしておく。

<引用資料「甲府市史」中世 戦国時代>

《参考資料》

私は、あなたに誓います。

一、弥七郎(浮気しかけたホモの相手)にいい寄ったことはたしかですが、弥七郎に断られて実際はなにもしていません。

一、ですから弥七郎と夜を共にしたことは一度もないのです。夜ばかりではありません。昼だってそうです。今夜だって、言い寄ったりするようなことはしません。

一、本当はあなたとなかよくなりたいのです。それであれこれ私が動きまわると、あなたは(私が弥七郎のことが好きで動きまわっていると)勘違いして、疑っているようですが、それはこまります。こんな私の気持ちを理解してもらいたいど思います。もしこの手紙に嘘があれば、申斐国の一宮、二宮、三宮大明神、富士山、白山、ことに八幡大菩薩、諏訪上下大明神の神罰を受けることでしょう。

この誓いの文ですけど、本当でしたら神府の宝印を押した起請紙に書かなければいけないのですが、甲府の役人の管理がきびしくってどうにも手に入りませんでしたので、とりあえず普通の紙に書きました。後日、あらためてちゃんと書きますのでどうかご容赦ください。

七月五日 春日源助殿

(『テレビじゃ見れない武田信玄』「信玄はホモに間違いない、毛色悪い証拠品がある」後藤寿一氏著より)

 

時は天文11年(1542)で、信玄は下手に出て、源助の機嫌をとっている。女性を口説くより、その峻瞼さは何十倍かで

ある。しきりに弁解するが、これまでの男色の相手は弥七郎らしい。「誓いの言葉」は、源助へ乗り替えの折で、源助の態度と男色の容易でなさが、英傑信玄のこの文書から想像できる。源助は信玄の謀臣春日弾正、更に高坂弾正虎綱となり、主従一体で武田の勢力を強めた。甲府を離れて信州の要衝の城を預かったのも、この特殊関係があるからである。子までなした妻以上に、男色関係の相手は信頼出来るらしい事が、戦国史料から推論出来る。

男色で「肉体提供の弟分の生理的好条件は、十歳程度から二十歳までとされ、二十歳以上には無理があるという。女色は自然的生理的で、相互に爽快だ。不自然非生理的(肉体提供の弟分・念弟)は、大苦痛の反覆である。歯をくいしばって苦痛に堪え、またその部分の裂傷その他の疾患がともなう。生死一体による忍苦、犠牲が弟分の立場である。兄分(念兄)の大決楽は弟分の苦悩から購われる。もがきうめきつつ、奉仕してくれる弟分への感謝は、官能の快楽を精神的に倍加し、法悦的の境地を相互に作るらしい。

「女色・男色いずれが心地よきや」の問いには、異口同音に「男色」と叫ぶらしいのは、法悦的の気分、生死を共にする覚悟からも来るものか。念弟のその部分を保護する目的の薬品と医療が行われた。歌舞伎の若衆の「持(痔)病」と江戸時代の酒落にもある。

人は城、人は石垣、人は堀、なさけは味方、仇は敵なり。(信玄の和歌)は信玄の本心で、武田家の軍団組織の根本は寄親、寄子、居屋敷などの基礎上なっている。部将今福筑前守の寄子の井戸藤七郎(天正壬午起請文)の子孫と思われる井戸藤五郎(西鶴)は、武田家の男色道を『男色大鑑』にとりあげている。

山高く水の清い甲斐武田の男色道には、白皚々の白根山の如き、純潔さと力強さとがある。






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最終更新日  2021年09月14日 15時23分10秒
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