カテゴリ:甲斐武田資料室
❖ 武田侵攻 伊那進攻 長窪城攻略
❖天文一一年(1542)一一十二歳 ❖晴信、二十二歳
諏訪頼継を追って、晴信の重臣板垣信方。駒井高白齊の武田軍は破竹の勢いで上伊那に進攻、駒井隊は藤沢口に火を放って入口を封鎖、さらに九月二十六日、藤沢一族の居城、福与城を攻略、二日後の二十八日、頼親は降伏した。信形隊は二十九日、上伊那口(有賀峠口)に出動し、残敵を掃討し、府中(甲府)へ引き帰した。
武田侵攻 長窪城攻略
❖ 天文一二年(1543) ❖ 晴信、二十三栽 ❖ 長野県小県郡長門町 ❖ 長窪城将 大井貞隆
武田の治政下にあった信州作久地方は東の隣国上野(群馬県)の関東官僚上杉憲政の援護で反武田の勢力を盛り返しつつあった。 小県郡の長窪城主大井貞降は小笠原一族の部将でいったんは武田方に忠誠を誓ったが、諏訪氏滅亡後、村上義清、上杉氏の支援で反旗を翻がした。 九月九日、晴信は貞隆討伐の軍約五千を率いて甲府を出発、信州海ノ口から佐久郡に侵入、さらに長窪城を攻略した。奇襲に狼狽した大井軍、あっけなく破れ、貞隆は捕えられ、貞隆.を扇動した幕臣の望月一族を処刑した。 貞藤も甲府へ護送されて、処刑された。 この佐久攻略は東信濃の豪族および関東上杉方への威嚇作戦といわれている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年09月14日 17時54分13秒
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