カテゴリ:甲斐武田資料室
❖ 武田侵攻 荒神山城攻略
❖ 天文一三年(1544) ❖ 晴信 二十四歳 長野県上伊那郡辰野町樋口荒神山 城主 藤沢寄親
武田方の伊那政策の手薄なのを知った縢沢頼親は居城の福与城および前衛の荒神山城に拠って再び武田方に反抗した。 晴信は十月末、一九千の武田軍の先頭に立って伊那へ攻め入り、荒神山城を包脳した。 ところが高遠頼継が小笠原長時の援軍と共に、武田軍の背後後を衡いて 攻め寄せたので、挾み打ちの戦闘となって苦戦し、晴信は荒神山城攻略をあきらめて十一月三日、全軍、上原城へもどり、一日おいて、九日甲府へ帰陣した。武田軍が引き揚げたあと、高遠軍が諏紡へ乱入して諏訪上社の神長官守矢頼真の邸を焼くなどの暴挙を示した。
❖ 武田侵攻 高遠城攻略
❖ 天文一四年(1545) ❖ 晴信、二十五歳 長野県上伊那郡高遠町 城将 高遠頼継
荒神山城攻略の失敗で、暫時休息していた武田軍は抵抗を続ける高遠頼継を一挙に搬滅するため四月十一日、晴信麾下の七千余の部下を引き連れて高遠城の攻略に向かった。 十四日は上原城で一泊、 翌十五日未明、杖突峠へ登って陣を張り、先鋒隊は高遠城を襲った。 攻防戦は二日に及び十七日には頼継は城を姶てて逃げた。 翌十八日、晴信は高遠城へ入城、 二十日には伊那の福与城攻略をめざして進発した。 高遠城は西上作戦の重要な拠点として増改築をしている。 後に武田勝頼もまた伊那へ抜ける中継地点として城の充実をはかった。 ❖天正十年二月、信玄の子仁科五郎盛信を城将とする約五百余の武田守備軍が繊田軍に攻め滅ぼされるまでの三十七年間。この城を占領していた。
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最終更新日
2021年09月14日 18時25分08秒
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