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2021年09月15日
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カテゴリ:俳諧資料室

中興期以降の甲州の俳諧

 

 『山梨県郷土史研究入門』山梨県郷土研究会編

  山梨日日新聞社 平成四年刊

  一部加筆 山梨県歴史文学館

 

中興期の俳壇の特徴の一つは諸流派がそのセクトを越えて統合化され、「座」の総合化や作品の入集の自由化が行われたことにある。

山梨における中興期の始期を明和とすると、この初期には黒露を中心とした葛飾蕉門に、宇石、稲後、来雪、泉市、自来などかおり、同じ葛飾派の馬光、素丸系が若干。柳居派に門忌流の、梅堂、敲氷、道尾などがいた。

また高桑蘭更系には五味可都里とその周辺の俳人たち。

談林化貞門の調和系の調唯、実路、有斐。祇空系の似雲、何来など。

その他に五色墨一派の宗瑞系の大久保一林とその周辺の俳人たちと云ったふうに各派が群立していた。

 しかし天明期に入ると各流派の相互交流が活発となり、俳壇の総合化が行われ、三都的な意味での「中興期俳壇」が成立した。たとえば天明六年刊の「奉納其三葉」をみると、柳居系の石牙や李之などが、暁台系から蘭更門に入った可都里一派と同時に入渠している。

 こうした俳壇の統合は五色墨運動が提起した芭蕉俳風への帰一、その具体化としての翁塚(代表的なものでは善光寺月影塚)や芭蕉句碑の建立などによって促進されたが、その背景には俳人・詩人・歌人らを統合化して甲州文壇を形成するといった思潮も働いていた。

 化政期に入ると辻嵐外を中心に、甲州俳壇は完全に統合化され、天保の月並調俳諧へと移行して行くのであった。

こうした時期の俳人研究としては山梨大学名誉教授清水茂夫先生の上矢敲氷、辻嵐外、山目黒露などの伝記と俳風の研究がある(山梨大学教育学部研究報告書)。

また中巨摩地方のこの期の俳諧研究では池原錬唱氏の「甲斐俳壇と芭蕉研究」の第二章、三章などがあり、地域俳諧史の研究では「櫛形町誌」、「白根町誌」、「中道町誌」、「甲西町誌」などが中興期から幕末へ展開する俳諧の様相を追求している。

 なお甲州俳人の研究書としては「峡中俳家列伝」(明治三四年)「甲斐俳人伝」(大正十二年)「甲斐俳人伝」(大正十二年)などがある。

 中興期とその後の甲州俳壇と三都俳壇史との関係を概観すると、まず着目されるのが、志村和友など中川宗瑞系の甲州での展開である。五色墨運動の甲州での展開の一側面を明らかにするためには必須の研究領域である。

 次に東山芭蕉堂をめぐる甲州俳人の研究である。「奉奏納集」、「花供養」などへの甲州俳人の入集はきわめて多い。五味可都里とその門流の発句、歌仙などの総合的研究が必要であろう。

 化政期では甲州の葛飾蕉門と一茶の関係の追求である。一茶の葛飾派入門は寛政二年といわれるが、この時期では「いろは別雑記帳」所載の高室武丸など一茶との

交友は少なかったが、化政期に入ると可都里、草丸、馬城、有斐、漫々、一作など多数の俳人が一茶と交友している。馬城追福渠「かれあやめ」、有斐の「波羅密口

占」には一茶が献句しているし、一作とは東都で一座している。

 俳人研究では辻嵐外の甲州定住の時期の問題がある。寛政末年刊の「俳家人名録」には嵐外が「甲州」とされておるが、ほぼ同時期の「花供養」には「甲州雲水」と

なっており、不明確な点が多い。管見に入った嵐外自筆の日記によると文化末年には確実に甲州に定住しているようであるが、寛政年間のそれは資料がないのである。

 中興期の俳諧の思想史的背景としては、国学の盛行との関連が考えられるが、甲州俳人とその俳風の面でも国学と和歌の影響を少なからず受けた人々がいる。

五味可都里は本居宣長に入門しており、それは宣長の萩原元克宛書簡によって証されるし、早川慢々は歌人として「広海歌集」があり、清水漬臣などとも交流し、「唱和集考」など近世末期の歌学の展開に寄与している。

可都里、優々と交流のあった高桑蘭更の「蕉風大意」は芭蕉と万葉集の関連にふれているが、こうした中央俳諧の動向に刺激されたものであろう。

 江戸においては化致期から「書画会」が盛行し、文壇、画壇、書壇、学界などの相互乗入れが行われ、総合文壇とでも云うべきものが成立したが、甲州においても

文致末年になると「風流人海」前編などが出現し、やがて、徽典館の教授方をもとり込んだ「書画会」が行われるようになり、総合文壇が成立する。こうした文壇動向の中で、天保期以降の俳人たちは単に俳句に専心するだけでなく、書画や、漢学に関する著作をも行うようになるのであった。嵐外・草丸の俳画、小尾守彦の儒学に関する著述、優々の和歌など俳入たちの文芸活動は広範な領域で展開されるようになった。

 しかもこうした活動をさゝえていたのは、地方農村の上層農民や甲府の町衆で、竹村三陽の安政末年の「書画会」には県下全域の町村の農民や町人たちが補助者として名を連ねていた。その意味で庶民文化の展開という視点からも近世甲州俳諧を考察する必要がありそうである。                 

〔松本 武秀氏著〕






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最終更新日  2021年09月15日 06時44分29秒
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